vol.127 今すぐ歌いたいんだ!
MCの質問が続き、やがて新曲『DIVE to ME』の披露の時間となった。
けんたろうは鍵盤に指を置く。
迷いを振り払うように、彼は情熱の全てを音に変えた。
カーテンの向こうから、けんたろうの奏でるキーボードの音色が響き渡る。
そのメロディは、これまで以上に力強く、そして情熱的であった。
ユージの伸びやかな歌声がそれに重なる。
【DIVE to ME!! 俺を信じて この胸に飛び込んで!】
その歌詞が耳に届いた瞬間、けんたろうの心に激しい乖離が生まれる。
これは、愛する人への、絶対的な自信に満ちたラブソング。
だが、今の自分はなんだ?
罪悪感と恐怖に苛まれ、自信とは程遠い場所にいる。
自分が作ったはずの音楽が、まるで自分を責め立てているように聞こえた。
【DIVE to ME!! 怖くないさ 迷いなんて吹き飛ばせ!】
違う。
怖いんだ。
迷ってばかりなんだ。
けんたろうは、鍵盤を叩きながら、唇を噛みしめた。
しかし、ユージの歌声は、そんな彼の心を溶かすように、真っ直ぐに響き続ける。
それは、まるでユージが、歌詞を通して、けんたろう自身に語りかけているようだった。
(俺を信じろ、けんたろう!)
(怖くない、俺がついてる。迷いなんて吹き飛ばせ!)
相棒の魂の叫びが、けんたろうの心の奥深くに、直接届く。
かき乱されていた感情の嵐が、不思議と収まっていく。
そして、彼は問い始める。
【DIVE to ME!!邪魔するものがあっても 運命を今、塗り替えて】
【DIVE to ME!!はるか遠く、君だけを待っていた】
(なぜ、ユージは、こんなにも僕を信じてくれるんだろう?)
(僕が信じられている根拠は、一体何なんだろう?)
その問いは、ごく自然に、彼自身の原点へと遡っていく。
「Synaptic Drive、素晴らしいパフォーマンスでしたねー!」
新曲のパフォーマンスを終え、スタジオは熱狂の渦に包まれていた。
ユージは、満足げに観客に手を振った。
けんたろうは、プロとして情熱の全てを音に変えた。
だが、演奏を終えた彼の心は、奇妙なほどに静まり返っていた。
嵐のような葛藤が嘘のように収まり、ただ一つの問いだけが、水面に浮かび上がっていた。
(なぜ、僕は、音楽を創っているんだろう?)
きっかけは、けいとさんだった。
彼女に追いつきたくて、この世界に飛び込んだ。
それは間違いない。
でも、もっとずっと昔。
まだ、音楽がただの「好き」でしかなかった頃。
退屈な日常の中で、僕が唯一、心の拠り所としていたもの。
それは、「知らないことを、知る喜び」だった。
誰も読まないような難しい本。
答えのない問題。
聴いたことのないような、美しい音楽の構造。
世界の真理に触れたい。
この宇宙がどんな言葉で書かれているのか、解読したい。
その尽きることのない知的好奇心こそが、僕という人間の「核」だった。
(この「核」は、誰が僕にくれたんだろう?)
けんたろうの脳裏に、一つの光景が浮かび上がる。
壁一面の本棚。
古書の匂い。
彼女が入れてくれた紅茶の香り。
そして、「知らないことがあるって素敵なことだよ」と、楽しそうに笑う、年上の女性の姿。
あ……。
声にならない声が、胸の奥で、確かに響いた。
ゆりこさんだ。
けいとさんに出会うよりも、ずっと前。
僕が「僕」になる、その原点を形作ってくれたのは。
僕の心に「知ることの喜び」という種を植え、それが「音楽を創る」という大樹に育つまで、水と光を与え続けてくれたのは。
紛れもなく、ゆりこさんだった。
(ゆりこさんがいたから、今の僕がいるんだ)
その気づきは、雷に打たれるような衝撃ではなかった。
まるで、ずっと昔からそこにあったのに、今まで気づかなかった、自分の心臓の音を、初めて聴いたような。
静かで、厳かで、そして抗いようのない、絶対的な真実。
けいとさんへの愛も、罪悪感も、全てがささいなことに思えた。
今、心を占めているのは、もっと根源的な、人間存在への感謝。
自分という人間を、この世に「存在」させてくれた、最初の「光」への、純粋な祈り。
(音にしたい。この気もちを)
(僕が、今、ここにいるということの証明を、音にしたい…)
その想いは、もはや「衝動」ではなかった。
生まれてきた赤ん坊が、最初の産声を上げるような。
それは、生命の、必然だった。
「今…」
ざわめくスタジオに、彼の声が、静かに、しかし、何よりも強く突き刺さる。
「今…今、ひらめいた!」
その声には、抑えきれない興奮と、ほとばしる衝動が宿っていた。
普段の柔らかな表情は消え、遠い宇宙の彼方を見据えるような、鋭い光をたたえている。
隣にいたユージが、そのただならぬ気配に気づき、視線を向けた。
彼が音楽の神に憑依される瞬間の、あの独特のオーラ。
周囲の音も時間も、すべてが彼の中から消え去る、純粋な創造の衝動。
「すぐに…すぐに歌いたい」
MCが何かを言いかける。
スタッフがインカムで怒鳴り合っている。
だが、その全てが、けんたろうの世界からは消え去っていた。
彼の瞳は、ただ一点、ユージだけを見つめていた。




