vol.125 乖離
MCのポッキー田中の威勢の良い声が耳に届くが、まるで水の底から聞こえてくるようにぼんやりとしていた。
観客の歓声が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえた。
(あの時のまま……ゆりこさんは、あの時のままきれいだった)
中学生だった自分が憧れた、知的で上品な女性。
それが今や国民的アナウンサーとして、さらに輝きを増している。
再会した瞬間、時が止まったような感覚に襲われた。
(僕は最低だ……けいとさんに申し訳ない)
けんたろうは機械的にキーボードに手を置いたが、その指先は微かに震えていた。
罪悪感が胸を締め付ける。
愛していると言った人がいるのに、別の人のことを想ってしまう自分。
ユージや綾音の前では強がったが、本当は自分が怖かった。
(でも……会えて、嬉しかった)
その感情を否定することはできない。
ゆりこさんに再び会えた喜び。
彼女が自分の音楽活動を知っていてくれたこと。
「スーパープロデューサー」と呼んでくれたこと。
すべてが、少年の日の憧れを呼び覚ます。
(音楽を生み出せなければ、ゆりこさんに会えなかった?)
(僕のつくった曲がヒットしなかったら、けいとさんは僕をまだ選んでくれる?)
「さあ、お待たせいたしました! Synaptic Driveのお二方です!」
田中の呼び込みと共に、ステージに強いスポットライトが当たる。
けんたろうの輪郭だけが浮かび上がる。
しかし、彼の心はシルエットよりもさらに曖昧だった。
(僕の気持ちは、どこにあるんだろう……)
愛、憧れ。
現在、過去。
義務、欲望。
バラバラになった感情の破片が、彼の思考を埋め尽くす。
ゆりこを思えば、甘く切ない旋律が生まれかけ、すぐにけいとへの罪悪感がそれを不協和音に変えてしまう。
けんたろうにとって、感情とはメロディであり、思考とは和音だった。
複雑な感情を処理する唯一の手段は、それらを音楽として再構築すること。
救いを求めるように、無意識にその作業を始める。
音楽に昇華させなければ、自分が自分でなくなってしまう。
だが、指先から生まれるはずのメロディは、形を結ばない。
愛する人への想いは、情熱的なビートを奏でようとして、初恋の残像がそのリズムを狂わせる。
鍵盤に触れた指先は、まるで他人のもののように冷たく、こわばっていた。
頭の中に鳴り響くのは、美しい旋律ではない。
ゆりこへの焦がれる想いと、けいとへの罪悪感。
そして、再び「置いていかれる」ことへの恐怖。
それらが混ざり合い、増幅し、ただただ不快なノイズとなって、彼の思考を埋め尽くす。
――― 音が、聴こえない。
――― 音が、創れない。
音楽家にとって、それは死の宣告に等しかった。
全身から血の気が引いていく。
唯一のアイデンティティが、今、目の前で砂のように崩れていく感覚。
(僕は、誰だ…?)
隣に立つユージだけが、相棒の尋常ならざる様子に気づいていた。
(…まずい。こいつ、完全に落ちてる)
いつもの「ゾーン」に入っている時の研ぎ澄まされたオーラではない。
世界から切り離され、孤立し、沈んでいく者の、危険な静寂。
ユージの背中に、じっとりと冷たい汗が流れた。
日本中が注目するこの生放送で、相棒の心は大丈夫なのか。
マイクを握る手に力が入る。
このバンドのフロントマンとして、そして兄貴分として、次に自分が何をすべきか、もう決めていた。
その覚悟が決まった瞬間、けんたろうの指が、けいれんするように、たった一つの音を叩いた。
それはメロディではない。
救いを求める、悲鳴のような、甲高い単音。
不意に響いたその音に、番組スタッフ数人がいぶかしげな顔を向けた。
だが、その音はすぐに歓声にかき消される。
ユージは、その悲痛な音を聞き逃さなかった。
彼は心の中でだけ、相棒に語りかけた。
(けんたろう、早くこっちへ帰ってこい。
俺が時間を稼ぐから…)
いつもの、音楽の神が降りてきた時とは明らかに違う。
もっと苦しく、不安定で、壊れてしまいそうな危うさ。
けんたろうの指先は、ゆりこの輪郭を辿るかのように、ふわりと宙に浮いていた。




