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vol.123 倚音(アッポジャトゥーラ)

 テレビ局の廊下で、何年かぶりにゆりこアナと再会を果たしたけんたろう。

 そのまばゆい残像が瞳に焼き付き、彼は夢見心地で立ち尽くしていた。

 一方、その横では、ユージと綾音が、あまりにもスケールの大きいけんたろうの女性関係に、魂が半分抜け出たような顔で固まっていた。


 やがて、ユージが震える声で口を開く。


「おい、けんたろう…お前は…どこまでスケールがでかい男なんだよ…?」


 その声には、呆れと、羨望と、そしてほんの少しの恐怖が入り混じっていた。

 綾音もまた、顔を青ざめさせながら、ぶつぶつと呟き始める。


「ええと…改めて整理させてちょうだい…私のキャパが限界なの…」


 彼女は指を折り、けんたろうを取り巻く女性陣を、絶望的な表情で列挙していく。


「まずは、Midnight Verdictのリーダー、けいとさん。

 世間には秘密だけど…

 『CAKE』の件、ネット探偵たちが、もうあと一歩まで迫ってるのよ…?」


「それから、トップアイドルのセンター、めぐみちゃん。

『私、けんたろうくんを好きになっちゃいました!』って、あれは宣戦布告っていうか、もはや爆破予告だったわ…」


「そして、孤高の歌姫、一条零様…

 まさか『私とけんたろうくんで交際発表しましょう』とか…

 普段のクールなキャラが完全に崩壊して、まるで恋する乙女になるなんて…」


 綾音が頭を抱えたその時、ユージがダメ押しの一言を付け加えた。


「…そして、極めつけは、まさかのナンバーワンアナウンサーのゆりこアナかよ…

 お前の初恋、重すぎだろ…」


「ハッ!」と顔を上げた綾音は、再び呆然と固まる。

 そうだ。彼の初恋の相手は、あの国民的アナウンサーだった。

 二人は言葉を失う。

 ユーロビートの女王、トップアイドル、孤高の歌姫、そして国民的アナウンサー。

 各界のトップを走る女性たちに囲まれる高校生。

 二人の脳裏に浮かんだその顔ぶれは、あまりにも現実離れしていた。


 あまりの事態に呆然とするユージと綾音。

 しかし、けんたろうはそんな二人の様子に気づかず、ふいに、苦しげな表情で顔を歪めた。



「……っ」


「けんたろう…?」


 ユージがいぶかしげに声をかける。

 けんたろうは、自分の胸元をぎゅっと掴み、絞り出すように言った。


「……最低だ、僕」


「は…?」


「だって、けいとさんを愛してるって、自分で言ったばかりなのに。

 ゆりこさんに会って…心が、あんなに騒いだんだ。

 嬉しくて、懐かしくて…どうしようもなくて。

 一瞬でも、けいとさんのことを忘れてしまった自分が、嫌になる」


 それは、彼の頭の中に、ゆりこアナのまぶしい笑顔が焼き付いていることへの、純粋な喜びと、そして同時に、現在の恋人に対する深い罪悪感だった。

 めぐみと一条零の熾烈なアプローチも、芸能界のスキャンダルも、彼にとっては二次的な問題に過ぎない。

 彼が今、苛まれているのは、自分自身の心の不実さだったのだ。


 そのあまりにも誠実で、痛々しいほどの自己嫌悪。

 ユージと綾音は、顔を見合わせた。

 彼がどれほどとんでもない恋愛の爆心地にいるのか、本人だけが気づいていない。

 世界中を巻き込む恋の嵐の中心で、彼はただ一人、愛する人への誠実さを守れなかった自分を責めている。


 ユージは、もう何も言えなかった。

 ただ、親友であり、弟分の震える肩を、無言で力強く叩いた。


 綾音は、深いため息をつきながら、けんたろうの隣にそっと寄り添った。


「けんたろうくん…。

 それは、不実なんかじゃないよ。

 今まで大切にしてきた宝箱を、久しぶりに開けてみただけ。

 その宝物が、今でもきらきら輝いていただけのこと。

 …それだけだよ」


 彼女は、何かを言い聞かせるように、ゆっくりと続ける。


「でも、その宝箱をまた閉めて、今一番大事な人のところに帰れるかどうか。

 それが、一番大事なことなんじゃないかな」


 その優しい言葉に、けんたろうはハッとして顔を上げる。

 綾音の瞳は、静かに、そして強く、彼を見つめていた。


 この天才作曲家が向き合うべきは、周囲の騒動ではない。

 自らの心の中に生まれた、切なくも美しい「さざなみ」だった。

 それを改めて痛感させられたユージと綾音は、ただただ、この不器用で誠実な弟分の選択を、見守るしかないのだった。


 この天才作曲家が向き合うべきは、周囲の騒動ではない。

 胸の奥で、倚音がまだ解決を拒んでいた。

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