化生の夢
「お逃げなさい。どうか健やかに」
葛の葉は乳母に子を託して、蘆屋の手の者の前に立ちはだかった。札で呼ばれた式鬼の爪をすんでのところでかいくぐった葛の葉のやわらかな皮膚には血がにじみ、息はあがって、白いもやが唇からこぼれ落ちている。
「遂に追い詰めたぞ、化け狐。保名め、陰陽師のくせに化生などにたぶらかされて、その正体に気付かぬとはとんだ失態よ」
正体を暴いてやろうと底意地悪く笑った蘆屋の手の者に葛の葉は目もくれず、視界の隅で子が無事に逃れたのを確かめた。
「何一つ、おわかりでないのですね」
葛の葉が笑った次の瞬間、白く長い尾が衣の隙間からのぞく。はらりと地面に落ちた衣の中に葛の葉の姿はない。
かつて葛の葉であった白狐は身軽に跳躍し、蘆屋の手の者が放った式神の頭にやすやすと飛び乗った。蘆屋の手の者に肉薄する。札を食い破って化生が一声高く鳴くと、一面に霜が降り、蘆屋の式神が霧散する。
「なんと禍々しい。たとえ人に化けようとその正体、所詮は畜生よ。討ち果たして白日の元にさらしてやろう。貴様の毛皮を見れば保名も目が覚めよう」
宮中の陰陽寮に属する安倍保名は、かつて蘆屋一族から逃れようとする手負いの白狐を助けた。後日白狐は葛の葉を名乗り、保名と結ばれて一人の子を成した。
白狐は静かな怒りをたたえた金色の目を輝かせ、大地を踏みしめる。霜が伸びて蘆屋の手の者の足が絡め取られる。うろたえる声が懇願に、やがて悲鳴に変じていくが、白狐は一向に耳を貸さない。
陰陽師である保名が葛の葉の正体に気付かぬことなどあろうはずもない。化生と知って尚、言葉をかわし、心を通わせ、慈しみあった。ひとときで弾けて消える泡沫のような甘美であたたかな夢。化生はかぶりを振って陽だまりの匂いのする記憶を振り払う。この姿は、誰にも見られてはならない。葛の葉が白狐であることが知れ渡れば、保名の身ばかりか子の命さえ危うくなる。
蘆屋の手の者が烏帽子の先まですっかり凍って跡形もなく砕け散ったのを見届けると、化生はもう一度高く、悲しく鳴いた。
空を渡る寒月だけが、その声を聞き届けた。
***
「母君はどんな方でしたか」
「葛の葉なら聞かずともそこに」
「いいえ、私を生んだ母君です」
長じた男児に言葉を遮られて、安倍保名は苦笑いした。男児を生んだ葛の葉ならば、化生と見破られたのを機に信田の森へと帰った。人間の葛の葉であれば、今や男児の母がわりである。
しばしの逡巡ののち、保名は「さあ、どうだったかな」とだけ返した。
後の世に安倍晴明として広く知られることとなる男児は、父の片眉が動いたのを目ざとく見つけた。それは父が相手をけむにまくときの癖だ。
「会いに来てくださればよいのに」
男児が子供らしく唇をとがらせて拗ねてみせると、保名は板間に落ちていた葉を拾い上げてくるりとまわし、「遠くからお前の健やかな成長を願っているだろうよ、あれはそういう女だから」と目を伏せて笑った。