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異世界恋愛系(短編)

同じ時に天に召されるのなら、それは幸せなことじゃないかしら

「ダグラスさま。私たち、別れましょう」

「そんな、どうして!」

「それはご自身の胸に手を当てて考えてみればすぐにわかることじゃないかしら」


 真っ青な顔でダグラスさまがその場に崩れ落ちる。そもそも、「どうして」と泣き崩れたいのはこちらのほうなのだ。住む世界の違いは上から見下ろすよりも、下から見上げる方がよくわかる。きっと彼には、私の気持ちなんて一生わからないだろう。だったらここで、お互いの進む道を分けたほうがいい。


「今までありがとう。さようなら」


 私はダグラスさまの頬にひとつ口づけを落とし、彼の屋敷を出ることにした。



 ***



 私とダグラスさまは、いわゆる身分違いの恋人だ。甘い時間を過ごしながらも、いつか訪れるであろう別れの時を常に意識し続けていた。


 そもそも現国王の甥である公爵家の嫡男が、酒場で働く平民女にどうして目を留めたのか。そこからして意味がわからない。研究に行き詰った彼を同僚が無理矢理連れてきたようだったけれど、下町の酒場になんて行かずに、貴族御用達の高級娼館にでも行けばよかっただろうに。


 その上、彼は酒がまったく飲めない。最初に店に来た時なんて庶民向けの安酒で悪酔いした挙句、私の部屋で介抱する羽目になったのだから、本当に傍迷惑以外の何物でもなかった。


 それでも彼は酷く純粋で、身分も容姿も性別さえも気にせず、誰に対しても分け隔てなく接してくれた。私のような平民女の密かな夢でさえ馬鹿にせず聞いてくれたのだ。いつか魔導士になりたい。世界中を旅してみたい。口に出すことさえおこがましい、叶うはずのない夢を。


 魔術というのはお貴族さまのもので、どんなに才能があっても平民には手が届かない。国外に出ることができるのもやっぱりお貴族さまだけで、他国を実際に見る機会など平民に訪れることはない。


 そんな私に、彼は信じられないほど優しかった。溢れんばかりの知識も、見たこともないような綺麗な品々も、ほっぺたが落ちそうなほど甘いお菓子も、惜しげもなく与えてくれる。物に釣られたのだと言われれば苦笑するほかない。それはともすれば、自分が彼の特別になったような錯覚さえ起こしてしまいそうなほど。


 彼との時間はお伽噺のようにただひたすらに幸せで、結婚なんて望むべくもなかったというのに身体を許してしまうくらいには、彼に溺れてしまっていた。しかも彼は私のことを堂々と自分の屋敷に連れ込むのだから手に負えない。まあ私の住む古びたアパートは壁が薄いから、いろいろな意味で心から楽しめなかったのかもしれなかったのだろうが。


 私のことを目の敵にするご令嬢は定期的に現れた。それもまた仕方のないことだ。あんな優良物件が婚約もせず、場末の女にうつつを抜かしているのだ。所詮は都合のいい女、身の程を知れ、妾として囲ってやるから協力しろなどと、脅しをかけられることも珍しいことではなかった。


 だがそれでも、これはあんまりなのではないだろうか。ちゃんと話をしてくれたなら、お互いに気持ちよく関係を終わらせることができただろうに。



 ***



「まあ、お寝坊さんね。ようやく目が覚めたのね」


 ずっしりとした重さをお腹の上に感じて、ゆっくりと目を開けた。飲み過ぎた翌日のような倦怠感で身体が重い。昨日は一体、何をしていたのだったか。記憶を手繰り寄せようとしたものの、さっぱり何も思い出せない。気を抜くとまぶたが再びくっついてしまいそうだ。


「もう、また寝ちゃうの? だめよ、ちゃんと起きて!」

「いだい、いだい、おぎまず、おぎるがら」


 幼児の小さなおててから繰り出される手加減なしの攻撃にあえなく撃沈する。喉がかすれてまともな声が出ない。無理矢理開かれた瞳の先にいたのは、光の妖精のような幼い美少女だった。その顔はダグラスさまによく似ている。けれど彼には姉妹などいなかったはずだから、彼の従姉妹達――つまりは王女さま――なのだろうか。


「ええと、おはようございます。あの、恐れながら、本日はどのような要件でこちらへ?」


 王女さまがお忍びで屋敷に遊びに来たと言うのであれば、私はさっさとお暇するしかない。ところが彼女は頬を膨らませながら、こんなことを叫んだのである。


「ここはあたしのおうちだもの!」

「ええと、ここがおうちなのですか?」

「そうよ、だからあたしはどのお部屋にだって入れるのよ!」


 少女はそのままえへんと胸を張った。この屋敷はダグラスさまの屋敷だ。そして屋敷に滞在する際、私は毎回同じ部屋に通されている。それは使用人全員が知っていることだから、ダグラスさまが許可しない限り、何人たりとも私の部屋に入ることは許されない。


 けれど、そのダグラスさまの命に縛られることのない子どもが目の前にいる。しかも彼女は、この屋敷は自分の家だと言っているのだ。そんなダグラスさまによく似た美少女が存在する理由に思い至り、一瞬で血の気が引いてしまう。どうやら私の知らない間にダグラスさまは結婚しており、子どもまで生まれているらしかった。



 ***



「ダグラスさま。私たち、別れましょう」


 だから私は屋敷を出ることにした。身分差がありながら彼の隣に居続けたのは、あくまで私たちの関係が「恋人」だったから。限られた期間の短い関係だからこそ、私は周囲の圧力を受け流しダグラスさまの隣にいることができた。けれど、彼が結婚したというのなら話は別だ。


 この国は特別な事情がない限り一夫一妻制だ。神に認められない不道徳な関係になるつもりは、さらさらない。ましてあんな可愛らしい女の子に、「妾」だとか「愛人」なんて存在を見せていいはずがない。だが使用人たちは屋敷の玄関を出ようとした私を必死で止めようとしてくる。


「ホリーさま、お待ちくださいませ!」

「ごめんなさいね。もう決めたのよ」

「それならば、せめて行き先をお教えください。そちらまで送らせていただきます」

「あら、歩いて帰れるわよ?」

「なりません! ホリーさまに何かございましたら、わたしは死んでお詫びをするしかございません!」

「わかったわ。それじゃあ、私のアパートまで送ってくれる?」

「……かしこまりました」


 断ろうとしたが、自分たちのためにどうか馬車に乗ってくれと泣きつかれては仕方がない。まったくこのお屋敷の人間は、主人であるダグラスさまから使用人に至るまでみんな本当に大袈裟なのだから。


 ダグラスさまのお屋敷のある貴族街から、私の住む下町に近づくにつれて、匂いも音もすべて変わっていく。賑やかでちょっと猥雑で、でも生命力あふれる下町の雰囲気が私は大好きだ。アパートの前でおろしてもらい、部屋に帰ろうとした私は鍵がないことに気が付いた。そこで大家さんに理由を話して玄関を開けてもらおうとしたのだが……。


「……一体これはどういうことなのかしら?」


 なんと、自宅は既に引き払われているらしい。自分で確かめたくせに伝聞になってしまうのは、大家さん自体が変わってしまっているからなのだ。私が知っている大家さんは気のいいおばあちゃんだったはずなのに、現在の大家さんはひょろりとした若者である。私の話とあちらの話は何ひとつ噛み合わない。


 もしかして、私が気が付かない間にどこぞの貴族令嬢からの圧力がかかったのだろうか。そういえば、屋敷を出る前にアパートに帰ることを告げた時、使用人がなんとも言えない顔でこちらを見つめていた。彼は、このことを知っていたのかもしれない。


 大家さんまで巻き込んでしまったことが申し訳なさすぎて、ひとり肩を落とした。それでも道端に立ち尽くしているわけにもいかない。この近くの広場で今後のことを考えることにしよう。



 ***



「これはこれはサマセットのお嬢さま」

「あら、ごきげんよう」


 空いているベンチを探していると、ひとりの老紳士に声をかけられる。相手に恥をかかせないように適当な相槌を打ちつつ、内心動揺していた。このひとは私を誰と勘違いしているのだろう。


 ダグラスさまの家であるサマセット家にお嬢さまはいない。そもそも姉妹どころか兄弟だって存在していない。彼は唯一の嫡男なのだ。


 彼のお母さまはとても身体の弱い方で、もともと子どもは難しいと言われていたらしい。貴族の役目は家を繋ぐこと。だから彼のお父さまは、お母さまとの結婚を反対されていたのだそうだ。


 けれど彼のお父さまは、もしも自分の子どもが生まれずとも、親戚から養子をとれば公爵家を繋いでいくことはできるのだと、お母さまとの結婚を強行されたのだそう。そして彼は一粒種の男の子として大切に育てられてきたのだ。


 それなのにこの品のよさそうな老紳士は、さも当然のような顔をしてサマセットのお嬢さまと私に声をかけてきた。まさか貴族ならではの遠回しな皮肉や当て擦りをされているのだろうか。この辺り、下町育ちの私にはさっぱり理解できない。


「それにしても、こちらにはいつお戻りになられたのですか?」

「先ほど戻ったばかりなのよ」

「それはお疲れでございましょう。いくらお母さまのことが心配だとしても、無理をなさってはいけませんよ」

「これはご親切に。本当にありがとうございます」


 場を繋ぐ言葉がするりと出てくる。知らない。こんな言葉遣いの中身があるようなないようなふわふわした会話なんてしたことがない。それなのにその後も私は、この老紳士と当たり障りのない無難な会話を続けることができたのだ。


 老紳士を見送りながら、自分の両手をじっと見つめる。やっぱり何かがおかしい。こんな手荒れのない綺麗な手をしていたことが、私の人生の中であっただろうか。家事なんてしたことがないお貴族さまのような白魚の手。


 酒場で働いているのだから、手荒れなんて当たり前だ。ダグラスさまにいただいた特別なクリームを使っていても、冬場はあかぎれができていたはずなのに。ドレスの繊細なレースにひっかかることのない指先に心がざわつく。


「まあ、お久しぶりです」


 まただ。今度は明らかに身分の高そうな女性が現れた。これ以上、適当な会話を続けた場合、いつか不敬罪を適用されてしまいそうだ。それにしても私は、サマセット家の誰に似ているのだろう。


「まあまあ、お母さまにますますそっくりになられて。サマセット家のご当主は、さぞお幸せでしょうね」

「……ありがとうございます」


 ……私と彼のお母さまが似ている? もしや彼はマザコンだったのか?


「ホリーさまほど幸せなお方もいらっしゃいませんわ。これぞまさしく純愛。わたくしどもの憧れですわ」


 私が幸せ? これが純愛? まさかダグラスさまが私を囲っていることは周知の事実だということなの? 考えれば考えるほど、恐ろしすぎる状況しか思い浮かばなくて冷や汗が出てきた。早々に会話を切り上げ、人通りの多い広場から離れようとした私を遠くから呼び止める者がいる。


「ホリー、話を聞いてほしい!」


 振り向かなくてもわかる。その声はダグラスさまだ。もちろんこれ以上、彼と話す気はない。私は慌てて駆け出した。



 ***



「待ってくれ!」


 彼は口がうまいから、私はすぐに言いくるめられてしまう。関係を切るつもりなら、話なんてしないほうがいい。


 馬車の往来の激しい通りを一気に渡る。この見極めは、下町育ちでなければ難しいのだ。彼が馬車が通り過ぎるのを待つ間に行方をくらましてしまえばいい。そう思っていた私の後ろで、叫び声とけたたましいブレーキ音が聞こえた。なんとダグラスさまは私を追いかけて、迫りくる馬車の前に飛び出したのだ。


 慌てて通りに戻ると、ダグラスさまは親切な通行人のおかげで馬車にはね飛ばされずに済んだらしい。御者に怒鳴られているところが見えた。馬車に乗っていたひとは飛び出してきた相手が公爵家の人間だと知ると、怒りを飲み込んでくれたようだ。けれど、私はどうにも腹立たしくてダグラスさまを怒鳴りつけてしまった。もとはと言えば、私があんな風に逃げたのが悪いというのはわかっていたのだけれど。


「ダグラスさま、あなた死ぬつもりなの?」

「魔導士は馬車にはねられたくらいでは死なないよ。まあ君が僕の隣にいてくれないのなら、生きている意味なんてないのだけれどね」

「そんなことを言っておいて、あなたはとっくに結婚しているじゃない」

「ホリーは、僕と結婚したくなかったの?」

「あなた何を言っているの?」

「僕との結婚生活は不満だったのかい?」


 何かがおかしい。私とダグラスさまの会話もまた、やっぱり何かがかみ合っていない。こんな風に言葉にできない違和感を私は、何度か経験している。それはダグラスさまの魔術の暴走の結果だったり、おかしな実験の副作用だったりといろいろなのだが……。


「ダグラスさま、あなた、今度は一体何をやらかしたの?」


 私の言葉に、彼はみるみるうちに顔を青ざめさせた。



 ***



 下町にあるにもかかわらず品の良いカフェに引っ張り込まれた。お忍びの貴族もよく訪れるらしい。店の奥まった個室で、彼は私の手を握りしめてとんでもないことを言い出した。


「ホリー、驚かないで聞いてほしいのだけれど、僕と君は結婚しているんだよ。それも随分と前にね」

「はあ? 何ですって?」

「まあそういう反応になるだろうね。だって僕たちが結婚してからの長い記憶は、君の中から消えてしまったのだから」

「質の悪い冗談はやめてちょうだい。もしもあなたの言っていることが事実だったとして、それならどうして私たちは年を取っていないの。ありえないでしょう」


 不老長寿も不老不死も、魔導士が研究している事柄のひとつだ。けれどそんなことは、矮小な人間の力の及ぶ範囲ではないと彼はよく口にしていたではないか。だから研究をしないというのではない。真剣に研究に取り組んだ結果として、彼はそう結論付けていたのだ。


 彼は困ったように頬をかきながら、私の耳に触れた。正確には、私の耳に揺れるルビーのイヤリングに。


「これはね、ルビーではなくて魔紅玉なんだ」

「それって、魔石の中でも純度が高く、一定の特性を持つものに与えられる名称よね?」

「そうだね。そして僕が身に着けているこのカフスも魔紅玉なんだ」

「貴重な魔紅玉を惜しげもなくふたりで身に着けるなんて……。まさか、これは魔導具なの?」


 よくできましたと彼はにこりと微笑んだ。その綺麗な顔が妙に憎たらしくて、私は出されていたケーキにお行儀悪くフォークを突きたてた。その感覚が久しぶりで妙な気分になる。そして何も意識しなければ私の身体はきちんとした作法でケーキを切り分けようとしていた。どうやら確かに私は、彼の隣で貴婦人としての立ち振る舞いを勉強していたらしい。


「その通りだよ」

「あなたが作った……わけではないわね。魔力の通り方が、あなたの魔導具とは異なるわ」

「お見事だ。記憶がなくても、身体が覚えたことは忘れていないようだね。そう、その魔導具は僕が作った物ではないよ。陛下からお預かりしたものだ」


 とんでもない発言に紅茶を吹き出しそうになった。お預かりしたものをどうして普通に使っているのだ。けれどここで、ひとつの疑問もわいた。彼は優しいけれど、かなり嫉妬深い。私が身に着けるものは彼自らすべて選んでいるくらいで、どれだけ貴重なものとはいえ、他人が作った魔導具を私に与えるとは思えない。しかも自分までお揃いで使うなんて、よほどの事情がなければありえないのだ。つまり……。


「この魔導具を使わなければならないような、よほどの事情があったのね?」

「大正解だよ。僕は君と一緒にいるために、あらゆる病や禍いから君を守ってきていたというのに、天命というものがあるなんてね。寿命は延ばせないから、代わりに僕たちふたりの肉体だけが若返っているんだ」

「そんなことで、神の領域に手を出すなんて」

「僕にとっては君が何より大事だった」


 彼の瞳がまっすぐに私を射抜く。優しい彼のその痛いほどの眼差しに、何も言えなくなってしまう。


「だからね、僕は浮気なんてしていない。屋敷にいたあの子は君の孫なんだよ。ちなみにサマセットのお嬢さんというのは、君の娘だ。君に瓜二つだよ。今は夫君と一緒に隣国に出かけている。ここしばらく君は病気療養中という話になっているから、君の見舞いのために娘が急きょ帰国したと思われたのだろう」

「待って、私、自分の孫を見て、動揺して逃げ出しちゃったっていうの?」

「まあ、そうなるね」

「勘弁してちょうだい。あの子にしたら、いきなり自分のおばあちゃんがパニックを起こして家出したことになっているのでしょう?」

「まあそのことに関しては、『おじいちゃまがまたやらかしたから、おばあちゃまが家出した。早く迎えに行ってあげて』って言われたくらいで済んだから」

「……あんな小さい子にそこまで言わせるなんて、やっぱりあなたが今まで何をやらかしてきたのか、考えるだけでも恐ろしいわ」


 痛む頭をおさえて、ため息をひとつ吐いたのだった。



 ***



 ダグラスさまの指先が小刻みに震えている。そっと彼の手を握りしめ、私は再び問いかけた。


「当代一の魔導士さまだからこそ、不老不死やら不老長寿なんて望むべくもないことは理解しているのでしょう? 自分で言っていたじゃない。決められた理の中で生きているからこそ、人間は短い一生を鮮やかに駆け抜け、さまざまな真理にたどりつくことができるんだって」

「ああ、確かに話していたね。でも、僕は気づいたんだ。そんなものは物事を知らぬ若造の世迷い事に過ぎなかったのだと。愛するひとを失ってしまうくらいなら、何を対価にしたとしてもかまわないってね」


 ロマンチックな台詞の後に、信じられないほど嫌な予感のする言葉が出てきた。これは私が詳細を確認しなければいけない事項なのだろうか。ああ、聞きたくない、知りたくない。それでも私は、ダグラスさまの妻として聞かねばなるまい。


「あなたもしや、本当に悪魔を呼び出して契約を交わしたんじゃないでしょうね?」

「……まさか、そんなこと僕がするはずないじゃないか。悪魔との契約は大陸のすべての国において禁忌なのだよ」


 うろうろと明からさまに視線をさまよわせながら、ダグラスさまが長い髪をかきあげる。こういう時の彼は、後ろ暗いことを抱えている。じっと見つめ続けていれば、「降参だよ」という一言とともに肩をすくめられる。


「大丈夫だよ、安心しておくれ。僕が呼び出したのは、悪魔じゃない。たぶん」

「たぶんってなんなのよ!」

「僕たちよりも上位の存在を定義づけるのには、なかなか難しいところがあってね。そもそも神と悪魔、そして精霊の違いというのは……」

「煙に巻いて誤魔化そうとしないの! 契約のいたるところに落とし穴があるというのは、悪魔も精霊も変わらないじゃない。このお馬鹿! 精霊を呼び出せるような希少な魔導具を勝手に使うだなんて」

「大丈夫。伯父上も従兄も、僕に甘いからね」

 それとこれとでは話が違うのではなかろうか。さすがに王国の行く末を左右する魔導具を私的な理由で消費して、許してもらえるとはとても思えない。


「私のせいで、公爵家も終わりだわ」

「君が僕より先に死んでしまったら、そもそも世界の終わりと同義なんだよ?」

「何を言っているの」

「王家のみんなは僕のことをよく理解しているからね。今後のことを見越した上で、あの魔導具を僕に預けてくださったに違いないんだ。だってもしも君を失ったなら、僕は発狂してこの世界を無に還していただろうし」

「爽やかに魔王さまみたいな発言はやめてちょうだい」


 私が覚えているダグラスさまは、結婚前のダグラスさまだ。誰にでも親切なくせに、自分自身はかなりの甘え下手だったダグラスさま。嫉妬深いくせにそれをうまく出せずにひとりで落ち込んでいたダグラスさま。こんな甘えん坊になるなんて、一体私たちはどんな風に時を積み重ねてきたのだろう。何もわからない。何も思い出せない。記憶を失ったことが、急にとても寂しくて心もとなくなる。


「それで、この若返りの効果はいつまで続くの? 記憶が消えたのは、若返りの副作用なの?」

「ホリー。君の記憶は精霊との契約の対価に支払われたんだ」

「何ですって?」


 勝手に契約を結び、その対価としてひとの記憶を差し出すなんてさすがにどうかしている。私の怒りを感じ取ったのだろう。慌てたようにダグラスさまは言い訳を始めた。


「対価としての記憶は、もともと僕が払うつもりだったんだ。けれど精霊がね、笑って言ったのさ。忘れることと忘れられること、どちらがより怖いかいって。僕は君に忘れられることが何より怖かった。そして君は、誰かを忘れてしまうことを恐れた。だから、精霊は君の記憶を奪ったんだ。そうすれば簡単にふたりの嘆きを見ることができるからね」


 発想とやり口が悪魔染みている。この魔導具の技術が失われているのは、これ以上に厄介な欠陥が多すぎて、使用によって国ごと破滅していたのではないかと疑いたくなった。


「取り戻すことはできないの?」

「君の記憶は世界のあちこちに隠してあるらしい。見つけた記憶の欠片は、回収して構わないそうだよ」

「それならば、すぐにでも集めに行きましょうよ」


 けれどそこでダグラスさまは、目を伏せた。


「今のままなら、僕たちは不老長寿だよ。いや、ほぼ不老不死と言ってもいい。妖精の気まぐれが続く限り、僕たちは生きられるそうだから。僕はもう二度と君を失いたくない。記憶を取り戻さずに、このまま楽しく暮らしていくのは嫌かい?」


 彼の言葉にゆっくりと首を横に振る。失われた時間の間に紡がれた物語。それは甘い物も苦い物もあったのだろうけれど。なかったことになんてしたくはない。


「私はあなたと共に暮らしてきた日々の中で、今の私になったのよ。私は、あなたとの日々を取り戻したいわ。私によく似ているという娘の思い出も、あなたによく似た孫娘との思い出も失ったままなのは嫌なのよ」

「でも記憶を集め始めたら、再び寿命は動き出す。すべての記憶が戻ったら、僕たちはそこで死んでしまうんだ」

「同じ時に天に召されるのなら、それは幸せなことじゃないかしら?」

「それはまあ、確かに」


 よし、もう一押し。目標は孫娘の結婚式に、ちゃんとしたおじいさま、おばあさまとして出席することだ。


「大好きなダグラスさまのこと、ひとかけらだって忘れたくないの」

「そうだ、結婚式の日のホリーの可愛さは本当にこの世の物とは思えなかった。それに初夜も、いや新婚旅行の夜も最高で。はっ、せっかくなら記憶を取り戻す前に、結婚式も初夜も新婚旅行ももう一度行えば二度楽しめるのでは?」

「その話は置いておいて」


 恋人時代に散々いたしておいて、初夜だのなんだの言われても。そんな気持ちをぐっとこらえつつダグラスさまを見つめて懇願すれば、しぶしぶ彼は同意してくれた。やはり、私の必殺おねだりはいまだ有効のようだ。


 そもそもいたずら好きというか性格の悪そうな妖精に、自分の運命をゆだねるなんてしたくない。これから先、何が起きるのかわからないこそ自分の選んだ道を歩きたいのだ。


「ホリー、僕のこと嫌いになったかい?」

「何でもできるくせに、肝心なところで馬鹿で弱虫なあなたが好きだから、これからも隣にいてあげる。一緒に死ぬのなら、もう怖くはないわよね?」

「ありがとう」

「ただ、さしあたっては今後どうするかを考えないと。うっかり周囲に不老長寿がバレてしまったら、いろいろと面倒くさそうだもの」

「大丈夫だよ、各国で楽しく過ごすための地位や身分なんかは全部用意しているからね」

「相変わらず手際が良いのね。悪だくみも得意だし」

「でも、そういう僕が好きだろう?」

「残念なことにね」


 そうして私たちは、そっと唇を重ね合わせた。

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