5 ――その男、資産家にて――
ハイドがうつつを抜かす事から遡ること1時間。朝も程よい時間になる頃、ノラは出かける準備をしていた。
シャロンは何故だかノラの寝ていたベッドに潜り込んで寝息を立てている。恐らく、ベッドの具合がいいので昼近くまでは起きないだろうと考えて、ノラは街を散策することに決めたのだ。
「お小遣いは……持った。ハンカチは……持った」
ポケットを叩いて位置を確認する。因みにお小遣いは1万ゴールド。金貨1枚である。
武器は、先日シャロンが言っていた通り置いて、ノラは宿を後にした。
朝日はまぶしく街を包み込んでいた。ノラは太陽を見ながら大きく伸びをして、軽快なステップで中央公園へと向かう。
あそこには大きな噴水があったなあなんて思いながら、歩いていると――――また影が、ノラを襲う。
明らかな意思を持って、ノラに半歩近づいたのだ。避けられない程近くで。彼女はしっかりとソレを見て、理解し、そしてその行動を起こした人間の顔を見上げる。
体が倒れていく中で見えたのは――――やはり先日の、気障な男であった。
そうして、同じ動作でノラを支えて、しっかりと立て直すと、
「やあ、奇遇ですねお嬢さん。これはいよいよ、私たちは赤い糸で結ばれてると確信するしかないですね」
「あ、ありがとうございます。で、でもわたし、行くところがあるので……、失礼します」
「女の子が1人でだなんて危ないですよ。私がお供しましょう。力不足でしょうが、今日はあの殿方の代わりをしましょう」
横に並んで、肩に手を乗せられる。不意に感じる、おぞましいいやらしさに、ノラは身体を硬直させた。
吐き気を催す視線。今まで感じることの無かった不安感。抗うことは、今のノラならば容易であろうが――――ハイドに迷惑を掛けてはいけない。そんな思考が彼女の行動を制限させていた。
「それでは、行きましょうか」
本来曲がるはずも、予定も無かった東への分かれ道へと。
「では明日の朝、宿屋まで迎えに行きますので」
ある程度の情報を聞き終えたハイドは、ジェルマン公爵の台詞で契約成立と話の終わりを見極めた。
「分かりました。ところで話は変わりますが――――ビッツ公爵のお嬢様でしょうか。あの利発そうでお美しいお嬢さんは」
階段付近で女中と楽しげに言葉を交わす娘に視線を向けて言うと、ジェルマンは嬉しそうに頷いて、
「ジェルマンで結構です――――えぇ。私の1人娘でね。妻に似たのですが、私に似てくれなかったのが幸いというところでしょうか」
ジェルマンは自分で言うほど悪くは無い。寧ろ整った顔立ちである。貴族がこういう、自分を下にする冗談を言うなんて珍しいなあと思いながら、ハイドは娘を見ていた。
そんな視線に気づいたのか、彼女は女中との話をやめて、こちらを向くなり再び歩み寄ってくる。
「私の話をしてくださっていたのかしら? 耳が良いので、よく聞こえてしまいましたわ」
クスクスと、口元を押さえて上品に笑う彼女は『ビッツ・アンヌ』。歳は17で、一等敷居の高い学習機関に通っている。
透き通るような白い肌に、親譲りの朱色の瞳と長い金髪が特徴的な娘である。顔立ちは上品で、だがどことなく、活発そうな様子を見せるのは、その豊かな表情がそうさせていた。
「ははは、可愛らしいお嬢さんだ」
自分で言って、なんだかおっさん臭く感じた。だがそんな台詞にも彼女は笑顔で答えてくれる。
「あら、嫌ですわハイド様。お恥ずかしいわ」
「何も恥ずかしがることは無いだろう。『本当』の事なのだから」
「お義父さ――――ジェルマン卿は案外親バカなんですね」
「ははっ、良く言われるよ」
そんな、久しぶりに感じる家庭の温かさを感じていると、次第に頭に上っていた血も下がって、アンヌに対する恋心はたんなる勘違いであることに気づいた。
――――こんな事に随分と時間をとられてしまった。正気に戻ったハイドは思って、ジェルマンに手を差し出した。
「それでは、私はコレで失敬させていただきます」
「ですが、もう昼になる。どうです? 一緒に食事なんて……」差し出す手を握り返しながら、ジェルマンは渋り始めた。
どうやら随分と気に入られた様子のハイドであったが、これ以上ノラたちを待たせるのも悪い気がしたので、
「折角のお誘いですが、仲間を待たせておりますので」
「そうですか……。仕方がありません。また私がこの国に居るときにでも立ち寄ってください。その時にまたお誘いします」
申し訳ございません。ハイドはそう頭を下げて玄関へと向かった。
彼はそこまでの見送りであったが――――老紳士とアンヌは門までやってきた。
そうして、去り際にアンヌはそっと、ハイドに耳打ちをする。
「差し出がましいようですが、どうか、お父様を守ってあげてください。嫌な予感がするのです。道中ではなく――――いえ、ごめんなさい。小娘の戯言だと、聞き流してください」
ハイドの仕事は帝国に向かう道のりの護衛である。故に、ジェルマンの仕事を手伝う義理は無く、彼女はソレに気づいたのであろう。ハイドは金で雇われているという事に。
だから、恐らく、これ以上言う事は迷惑だと考えたのだ。金で雇われているといっても、ハイドは善人間だからやってくれると勝手に思って――――だが彼女の聡明な判断が、自分の父を思う感情を抑えたのだ。
ハイドは勿論、それに気づいていた。割合に、人の感情には敏感なのが彼の良いところでもあり、悪いところでもある。
「大丈夫です。公爵を危険な目にはあわせませんよ。この街に帰ってくるまで、絶対に」
故に、そう口走ってしまう。言葉には責任というものが鬱陶しいくらいにまとわりつくので――――必然的に、ハイドはジェルマンに付きっきりになるという事になってしまった。
「あ、ありがとうございます!」
口だけでも、そう言ってもらえるのが嬉しかったのだろう。彼女はなりふり構わずに頭を下げた。
だが腐っても貴族か、彼女はそれでも高貴な姿を隠せてはいない。
ハイドはそんな姿を背に、ジェルマン公爵の屋敷を後にする。
「な、なんだってーっ!?」
帰ってくるなり、宿屋の一室で高らかな声が響いた。
「いや、だからノラがまだ帰ってきてないって話よ」
「なんで着いていかなかったんだよ!」
「……ごめん、寝てた」
「ばっかやろーッ! 寝てて済めば戦争なんかとっくの昔に終わってんだよ!」主に一方的な攻撃による国の壊滅によって。
それから調子に乗ったハイドの罵倒が始まったが、それは数分と持たずにシャロンの鈍いボディーブローによって終結。
「どっかで遊んでんじゃないの? 心配しすぎよ」
「心配するさ! だって昨日のトールだかハンマーだか知らねぇが、あんな薄ら寒い典型的なナンパ野郎が居る町だぞ」
街に到着するまでは、奴隷階級がいるのだと思っていた。だが存外にそんな存在が見えないところを見て、さらにテールと出会って、またマスターの人間性や、ジェルマンなどを知って確信する。
資産家こそが底辺であると。
金を持っているから貴族に媚び、貴族はその得た金で街を潤す。
資産家は、金こそ持っているが、貴族のような高貴さや情熱、思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さを持ち合わせて居ない。心が貧乏なのだ。
考え方を変えれば直ぐにでも救われることを知らずに、決して届くことの無い高みを、卑下た思考で醜く奪おうとする。
そして恐らく――――資産家こそが従えているのだろう。奴隷階級の人間を。
「テールだってば」
「……ちょっと探して――――来ようぜ。嫌な予感がプンプンする」1人で行こうとして、ハイドはシャロンの痛い視線を受けて台詞を変えた。
アンヌが感じていたものはコレか。ハイドはそう感じて、ベッドの上の剣を取って部屋を飛び出した。