8 ――いい船旅、夢気分――
村人たちを埋葬し、魔族の死体を細切れにしてから海に捨てると完全に日が暮れてしまう。
「――――明日の昼くらいですかね」
存外にまともであった船長。彼は報酬を得ることで、人身売買を黙認していたらしい。だが、その報酬がなくなったから、今度はハイドたちに金をせびるなどということはない。
「夜は魔石で光を点けて航海します。魔物が近寄らない魔法も船自体にかけてありますが――――極端に強い魔物には効きませんからね。現れたら、責任取れません」
「不安ね……」
薄ら暗い、大破した港で、無精ひげを生やした男は豪快に笑う。彼は盗賊団と関係を持ちながらも、大した恐れはなかったと言うし、逆に口止め料を請求するほど肝が座っている――――健全な男である。
ノラは船室寝かせてあり――――倒れたハイドは医療室へ。ハイドは熱を出していたためである。
残ったシャロンは、仕方なく2人の乗り賃と自分の分を支払い、ソウジュたちもまた、代金を払って船に乗る。
与えられた部屋はノラと同室。恐らくハイドは向こうに着くまで寝たきりだろう。
それよりも――――テンメイと対峙した際の、あの生き生きとした表情。シャロンが考え、嫌な予感を滾らせると、
「申し訳ございませんでしたっ!」
明るい照明が点々とする狭い廊下、客室が並ぶそこで、青いマントをフワリと浮かび上がらせながら、女の子が深く頭を下げていた。
彼女は『アオ』。つい先日まで、シャロンとノラが捕らわれている地下牢で何やらいかがわしい行為に励んでいた『竜聖院幹部』である。
謝るのは、そうした事を反省しているからだろう。――――あれほどのことをして、たかが謝罪の1つで済むわけもないのだが。
シャロンは未だ鬱憤を晴らせては居ない。だからといって、常にイライラとしているわけではない。一部の感情の高ぶる沸点が極端に低くなるだけである。
「ああ……、気にしないでいいわ」
振り返り、ちらりとソレを見て、また前を向いた。片手を上げ、ふらふらと左右に揺らしながらその場を立ち去る。何日もまともな睡眠を取れていない。ノラはハイドが居たために無理をしてあれほど元気な様を見せてはいたが、口数の少なさから、やはり限界だったのだろう。
歴戦の勇士、ある程度名が知れているシャロンとて違いはない。すぐそこに行けば休めるのに――――アオは、シャロンの態度を見て『怒っている』と勘違いしてしまう。
彼女は慌ててシャロンの前に立ちふさがり、また頭を下げた。
――――脅していた際の口調はいつのまにか消えている。恐らく、根はいい子なのだろう……が、今だけは勘弁して欲しかった。
休める、そう期待してしまったせいで、押さえていた疲れがどっと押し寄せているのだ。今、倒れてしまってもおかしくはないほどに。
「だから、もう気にしてないから……」
適当に突き放して、指定の番号が振ってある部屋の中へと逃げ込んだ。
電気が点けっぱなしの部屋。窓があるが、外は暗い。扉の外からは「ご、ごめんなさい」としょぼくれたような声が聞こえて、少しばかり申し訳ない気持ちになる。
「……、眠い……」
その上に凄まじい眠気が覆いかぶさった。鍵を閉めたシャロンは、適当に服を脱ぎ捨てながら、並んだベッドの、空いている方に、倒れるようにして潜り込む。
下着以外の全てを脱衣した彼女は、妙に肌触りの良い布団に包まれると――――1分と経たない内に、寝息を立て始めた。
意識が朦朧とする。目を開けると光は全て闇に吸い込まれているためか何も見えなかった。
脳みそがグルングルン揺れていると錯覚し、さらには地面さえも揺れているように感じ始める。
――――死ぬのか? ハイドは地味にやってくる恐怖に身を強張らせた。
ベッドの上に寝ていることさえも気づけず、ただ猛烈にやってくる頭痛と、吐き気と、視線の先の闇が遠ざかるように小さくなったり、接近するように大きく見える、妙な感覚がハイドを襲う。
そして、夢の中で意識を覚醒したのではないかと勘違いするほどの、現実感のなさ。自分周りに薄い膜が張ってあって、そこを境界にして夢境と現世とを隔てているのではないか、と無駄な思考が冴え渡る。
だが、ハイドは自分で何を考えているのかわからない。考えたことが、留まらずにすり抜けていようだった。
「論理的には俺の常用句はアルトバイエルン……」
口走って、激しく咳き込む。喉の奥の皮膚が引き裂けるような痛みに、全ての体力を費やした。
「……起きたか」
不意に来た、誰かの発言。低い声はハイドにもしっかりと聞こえ――――驚いたハイドはベッドから転げ落ちる。
頭を強打する。上半身だけをベッドから落としたハイドはそのままの姿勢で、頭に血を上らせ、さらに胃液を逆流させ始める。
そんなところを、他者の力でまたもとの姿勢――仰向け――に戻された。
「ありがとう」顔も知らぬ人よ。続けたくても続けられない言葉を飲み込むと、
「気にするな。あれほどの相手を退けたんだから、疲労から発熱なんてことになっても仕方がない」
彼の声は穏やかであった。どことなく、父性というモノを無意識の内に感じていると、更に言葉が続いた。
「向こうに到着するのは明日の昼。薬は頭の近くの机の上だ。俺はもう戻るが――――電気は点けておくか?」
足音が遠ざかる。声も小さくなっていき、聞き取りにくくなる。疑問文だと言う事だけが分かったので、
「頼む」
声のするほうに顔を向けてそう返事をする。
カチっと音がして、突然照明が輝いた。部屋を照らす代わりに――――ハイドの網膜を焼き潰した。
なんという目くらましだ。一体何の恨みがあって――――。
胸の奥から、猛烈に何かが押しあがってきた。腹の底が、命令しても居ないのに何かを押し上げ、胃酸の激流が食道まで上った。
それを防ぐために首を絞める。だがそれは苦しいだけで、留まることはなかった。逆に吐き気が増進された気もする。
「気持ち悪い」
名も知らぬ男――ソウジュ――が言った、机の上に視線を向けると桶を発見。
ハイドはそれを素早く手にして、顔を突っ込んだ。
熱いソレは喉の奥から滑る様に口から吐き出される。呼吸が出来ずに苦しく、またその中で鼻腔を刺激する吐瀉物は酷い悪臭がした。
ある程度吐いて、呼吸の為に無理矢理止める。胸いっぱいに空気を吸い込むと、同時に一定にまで抑えられたソレの匂いが、さらに鮮明になって臭覚を麻痺させる。
そんな事に気を取られる暇もなく、ハイドは再び桶に顔を突っ込んで――――。
そうしてハイドの、最悪な船旅が始まった。