1 ――いつもの旅路――
朝になる。眩しい日差しが瞼を通り抜けて、強い光線を受けてハイドは目を覚ました。
身体を起こす。その動作が、非常に行い難い事を疑問に思いながら立ち上がろうとすると、足の骨が軋んだ。
正確には膝である。
「痛いな」
呟きながらそこへと視線を向けると、肌は麻色。しかもただの麻色ではない。それはコクがあるのだ。
いつもより少し濃いその色は、その実、肌の色ではない。ハイドはソレに触れて確信した。
「ドロだ! こいつぁ乾いたドロなんだ!」
疑問が解消された。だがすっきりというわけには行かない。
この状況ではドロが流されて初めてすっきりになるというものだ。ハイドはドロに身動きを制限されながらも懸命に立ち上がり、眠ったお陰で回復した魔力を、空気中に発散する。
魔力は空気中、それと足元のドロの水分を綺麗に浄化させて一定の高さまで運ぶ。宙に、まるで反重力で弾かれた水溜りみたいに浮かぶ水の塊が出来たところで、ハイドはそれを頭上に移動させた。
指を鳴らす。ドロでコーティングされた指はスカっと乾いた音を鳴らすだけであったが、それでも音に反応するように、水は蛇口を捻ったように、頭上から一定量を流し始める。
頭に張り付くような髪型を強制されていたが、ドロは水に溶け、そして体の節々もやがて自由になってくる。
ある程度のドロを流し終えたハイドは、最後に残った水を一気にかぶり、仕上げを行った。
「ふーっ、すっぱりした」
「すっぱり……?」
不意に、自分とは別の声が背後から聞こえて心臓が跳ね上がる。びっくりして振り向くと、その声の主はノラであった。
シャロンは未だ夢の中。この調子だと昼ごろまで眠ってしまいそうな勢いである。
「さっぱりしてすっきりしたを略した言葉だよ」
身体を覆う毛布を剥いでシャロンにそっと掛ける。薄ら寒いそこで大きく伸びをして、ノラは立ち上がった。
「おはようございますっ」
「ああ、おはよう。ってか全然話聞いてないね」
洗ったはいいが拭くものがない。仕方なく手で水気を払っていると、ノラはなぜかハイドの前に立った。
ニコニコ笑顔には可愛らしいものがあった。久しぶりに見るものだったのでハイドは癒されていると、ノラはハイドの手を取って、ぎゅっと握る。
眼が覚めてハイドがココに居る。ソレを実感する手っ取り早い方法を実行したノラだが、その意図をハイドは理解していない。
純真な瞳がハイドを捉える。じっと、笑顔で見つめられ、ハイドは照れくさくなって視線をずらす。――――すると、その奥、ブルーシートの上で横になっていたはずのシャロンが上半身を起し、ニヤニヤと口の端を吊り上げながらハイドを見ていた。
「おはようございますシャロンさん、そんな笑顔ですが、何かいいことでも?」
「君がおきてここに居るから、かな?」
不敵に笑む。ハイドは「そうですか」と簡単に返して、
「それじゃ、起きたのなら早速前に進みましょうか」
程なくして準備が終わり、歩き始める。ノラはずっとハイドの手を握ったままで、それを真似してふざけるシャロンが空いているもう片方の手を握っていた。
「なんですか、俺は連行されるウチュージンですか?」
「わかってるくせに」
シャロンが肘でわき腹を小突く。分かってたまるかとハイドはにらみ返した。
反対側では、ノラが頬を赤く染めていた。ハイドは風邪でも引いてしまったのだろうかと勝手な解釈をして、
「ノラ、大丈夫か? 顔赤いぞ」
「だ、大丈夫ですっ」
今度は顔全体が紅色へと変色し始めた。
「まだ初初しいわね」
シャロンが茶化す。ノラはどこか遠くにトリップしているのか聞こえていないようだった。
「……あ、魔物ですよ」
ハイドは、呟きながら2人の手を引き剥がし、駆け出す。1歩、2歩。走ったと思ったら、次の瞬間には既に、その姿は消えてなくなった。
――――遠く、真っ直ぐ広がる何もない草原の風景の中で、ようやくその姿が肉眼で捉えることが出来るくらいの距離。
だがハイドにとっては、それで十分であり、最適である。
瞬間移動で魔物にまで迫ったハイドは、背中から剣を抜きながらその魔物を袈裟に切り裂く。
地面と同化するような、下半身がドロで、上半身が老人の姿をした魔物は悲鳴を上げるが――――まだ、反撃の余地があった。
手を差し上げる。ハイドが避けようと息を吐く瞬間、黒い影が掌から吹き出て、ハイドの顔面を殴打する。
鋭いパンチに似た感触は、乾いた泥の塊。当たった瞬間に砕けたソレは、図らずともハイドにとって眼くらましとなった。
「くそっ」
眼を瞑る。乱暴に、そこに居るであろう魔物に対して剣を振るが、何故だか当たらない。
距離を置きながら、顔からカピカピのドロを払ってそこを見る。すると――――その魔物は既に絶命したらしく、完全なドロになっていた。
そこで一息を付く。油断してしまった自分を戒めようと大きく深呼吸をしようとすると、
「ハイドさんっ」
ノラが、そんな声と共に激突した。
「もう、1人で行かないでください! ずっと、ずっとわたしのそばに居て下さいっ」
思わぬタイミングで、プロポーズじみた台詞。だがハイドは、元気なフリをしているが、まだ昨日までの心の傷が治っていないのだろうと納得する。
「わかった」
気軽に首肯して見せると、シャロンがソレを見て小さく息を吐いた。
また何か、勘違いしているのだろうと考えたからで、恐らく、それが紛うことの無い事実であるからだ。
平穏、平和。何もない日常が過ぎていく、ハイドはそれを肌に感じながら、どことなく、複雑な感情を抱いていた。