9 ――牢獄地下2階――
「おい! ここから出してくれよッ!」「俺もだ!」「俺のほうが先だ!」
地下2階、1つしかない扉を開く前に、そんな多くの台詞が漏れて聞こえた。
そして凄まじい打撃音。衝撃に床が僅かに揺れていた。まだ戦闘中か、そう息を吐きながら剣の柄に力を込めて――――そこを蹴破って中に入り込む。
次の、瞬間――――目の前に広がるのは薄暗い景色ではなく、人の広い背中。さらにそれは迫ってきて、やがてハイドにぶつかり、ハイドは通路へと押し戻される。
重量級の人物の下敷きになるハイドは、それを蹴ってどかし、立ち上がる。
その男は苦しそうに短く呼吸を繰り返し、ハイドの行いに文句を垂れるというわけでもなく、ただ前を向いて、扉の向こうの空間へと戻っていく。
――――隆々とした筋肉を纏う男は全身に切り傷を作り、そこから血を流していた。手にはモーニングスターを下げ、そして、駆け出す。
まるでハイドの存在に気づいていない男は、目の前の、一回りも二回りも巨大な”犬”へと飛び上がり、3つある首の1つにメイスを振って顔面を殴打した。
顎から下が吹き飛んで、男はさらに振り上げると上あごにメイスが貫通。引き抜いて、着地する頃には右端の頭はだらりと力なく垂れていた。
同じように、左端も垂れ、残るは1つ。
その犬の姿は、見た者は少なくとも、有名である。竜の尾っぽと、3つの首を備えた怪物。その名を『ケロべロス』。地獄の番犬と呼ばれる強大な魔物である。
生息地は不明。魔族の住む魔界とも呼ばれ、大抵、この地上では魔族と共に発見されることが多い。
ケロベロスは1つの頭から火を吐き、また1つの頭からは氷を吐き、また1つの首からは、猛毒を持つ毒を吐くという。
天井に頭のつく程大きいソレは既に首が一本。対して男――メアリー――は相対する余力は十分に残されていた。
メノウの姿が無い。恐らく、先に進ませたのだろう。
ハイドは大まかの状況を把握してから中に入ると――――。
「おい、そこのアンタ!」
両端に並ぶ鉄格子の牢屋の中から声を掛けられた。
ハイドは無視する。そのまま前を進むと、何かが視界に入り込んできて、ハイドは足を止めて身体を仰け反らせると、眼前を石が横切っていった。
「危ねぇだろ。すっこんでろカス共。手前らには自分を守る鉄格子があるじゃねーか」
目もくれず、それだけ告げる。ハイドはそれから、動きの無いメアリーの下へと急いだ。
「すまん。雑魚に手間取った」
大きく振るわれる肉球を、見た目不相応というくらい華麗に避けるメアリーに声を掛けると、
「良いニュースと悪いニュースがある、どっちから聞く?」
ケロベロスの射程外にまで出て、メイスを杖に息をつきながら口を開いた。
「悪いニュースから」
「あと10分ほどしたら幹部2人と部下が数十名の援軍が来るらしい」
「良いニュースは?」
「ここは3階構造で、メノウは先に下へ向かった」
「……状況は芳しくないですね」
「まぁそう言うな。3人でココまで来れただけでも十分凄い」
メアリーは武器を肩に担いでそう言うが、ハイドはそれより一歩前に出て台詞を否定するように首を振る。
「過程なんてものは当てになりません。どんなに頑張っても目的が達成できなければ意味が無い。そうでしょう?」
その、血に塗れる後姿と、その言葉を重ね合わせて視るメアリーは、どことなく説得力を感じて、らしくないなと、頭を振った。
それから、横に並んで、口を大きく開いて氷のつぶてを鉄格子や、人造石の床に叩きつけるケロベロスを眺めて、
「さて、んじゃさっさとこの犬っコロを躾けて先に進むか」
メアリーはなんでもないように言いながら、メイスを投擲。氷の塊に当たることなく宙を突っ切るソレは、頭の眉間辺りに直撃。
肉が弾け、血が飛び散る。
断末魔のような叫び声をキャンキャンと上げるケロベロスの頭のメイスは、柄の半分ほどまでソレをうずめて勢いを止めた。
そうして、膝から崩れ落ち、大きな衝撃と共に倒れ、絶命。
メアリーは身軽にソイツに歩み寄って、メイスを引き抜いて、トゲトゲに付いた脳髄や血液を振り払って、ハイドを手招いた。
――――収容されている男たちの、歓声が空間を支配し始める。
「すげぇ!」「なんなんだこいつら!」「もっとやっちまえ!」
先ほどとは一変。だが、二言目には「ここから出してくれ」と続く大合唱。2人はそれを無視して下へと向かおうとする。
だが――――。
「……こいつは、やっちまったかなァ」
扉が存在するであろう場所に、ひっつくケロベロスの尻。メアリーはソレを見て、溜息をついた。
「押しましょう。俺向こうから押すんで、メアリーさんはこっちから押してください」
「任せとけ」
――――ハイドは死骸に乗って向こうへと渡り、剣を握ったまま押す。向こう側を見ると、メアリーも同じく押していた。
足が床を滑る。血管が切れそうなほど押しているのだから少しは進みそうなものなのだが――――それは一向として、進む気配を見せない
一体何がたりないのか? それは力である。ハイドは結論付けて、さらに力を込めようとすると、ふと閃いた。
というか、気づいたのだ。自分たちの、決定的なまでの間違いに。その愚かさに。醜さに。空虚さに。
――――両側から、向かい合って押しては意味が無い。無いというか、最早、阿呆の領域である。
だからハイドは、再びメアリーに元へと死骸を渡って、その隣に立つ。すると、
「おい、何サボってんだよ、しっかりしろ!」
「アンタがしっかりしろ! 同じ方向に、一緒になって押さなくっちゃ意味が無いんだよ! 力が相殺されちゃうんだよ!」
「竜流斧」
――――メアリーと、仲良く見える押し問答の中で、透き通る声が大合唱をすり抜けてハイドへと伝わった。
その瞬間――――ケロベロスの死骸が、瞬く間に縦真2つに切り裂かれ、バランスが悪くなったソレは、ハイドたちを押し倒すように崩れていく。
2人は慌てて走り出し、ケロベロスの正面へと回る。その中で、地下1階へと続く扉に立つ、1人の姿が見えた。
「道は開けた。だが貴様等は進めない。なぜならば――――この俺が、その道をふさぐからだ」
銀の白刃が鈍い照明に煌めいた。長い、それを扱う主に匹敵する長大な刀。少しばかり長い銀髪を掻き揚げて、男は続けた。
「だが俺は1対1でしか”まとも”に相手が出来ん。どちらかが残れば、1人は先へ進んでもいいぞ……?」
その言葉に、真っ先にメアリーが動いた。ハイドの胸倉がつかまれ、強すぎる力にハイドは身動きを手放してしまう。
力に引かれたハイドは――――そのまま、背後へと投げ飛ばされる。上下が反転する景色の中、野蛮な雄たけびを上げながら、勇猛に駆け出すメアリーの姿が映っていた。
男は抜いて下げたままの刀を、ゆっくりと縦に振り上げた。刃を上に、峰を下にして――――メアリーはそれに激情して、叫ぶ。
「舐めんな――――」
峰打ちで俺を相手するなんて、その緩慢な動作で十分だと見定められるなんて――――その、害虫を見るような眼で俺を見るなんて。メアリーは様々な思惟をその頭に宿したまま叫んで、だが、その言葉を最後まで続けることが出来なかった。
その直後に、意識がなくなったからであった。
――――ハイドが床に叩きつけられて見るそこは、酷く凄惨とした景色。
自分を助けるために、前に進ませるために特攻した、勇猛な戦友が、ケロベロスと同じく、真っ2つに崩れていく。
腹から内臓が漏れ、脳みそがたれ、やがて手に持つモーニングスターと一緒に床に叩きつけられ――――頼りがいのある、筋肉の鎧を纏ったメアリーは、瞬く間に『残骸』へと姿を変えた。
ハイドが、副所長・シノダにした事と、同じように。
「…………んだよ、ソレ……」
仲間が1人、殺されて、命の重さがようやく理解できた。精神の幼いハイドは、1つ呼吸を置いて、
「なんで……、な、ん――――」
「こちらが聞きたいな。何故シノダにアレほどまでする必要があった? 俺は仇討ちをしたまでだ」
全く同じ事をしてやったぞ。男の心の声が聞こえた気がして、ハイドは言葉をつぐむ。
「だが、お前も”堕ちた”な。こんな奴等とつるむとは」
言葉では、ハイドは心の内を全てぶちまける事は出来ない。――――この男が、幹部の1人で、こいつを倒してもまだ残り1人の幹部と、数十名の部下が残っている。ハイドはその考えを全て捨てた。
無論、『目的』も、全て余すことなく。
全ては――――男に相対するために。
「こんな状況じゃなきゃ、お前とはいい好敵手になれただろうに……、なぁ、そう思うだろ? ソウジュ!」
「確かに。酷く残念だが――――お前は、俺にとっての障害に過ぎなかったという事だな」
「舐めんな」ハイドはメアリーの言えなかった言葉を続けた。「殺すぞ」
ソウジュは髪を掻き揚げて――――冷めた眼で、ハイドを睨む。
「そうか、”もう一度”死にたいのか」
互いの間に、それ以上の言葉は不要と、2人はそれぞれ武器を構える。
気がつくと――――鉄格子の中は静まり返り、誰もがその結末に息を呑んでいた。