5 ――シグライ――
深淵なる闇が支配する夜。不気味な静けさを持つそこには、ハイドの乱れた呼吸音だけが良く響いていた。
空には姿を見せない月がある。今日は新月であったのだ。
故に、その暗さは更に重さを増し、星々のささやかな灯りだけが頼りのそこで、ハイドは思わず足を止めた。
走り始めてまだ半刻も経たないが、ハイドは既に息も絶え絶えで、今にも倒れてしまいそうなほど疲弊している。
だが足を止めた理由はソレばかりではなかった。――――それは、目の前に街の明かりが見え始めたからである。
「……街はまだ無事か」
よかったと、ハイドは膝に手をついて呟いた。
一度、逃げながらハイドは街にはもう戻れないのではないか? と考えていた。それは、ハイドを追って魔族の彼が街で戦闘を始めてしまうかもしれないからと思考したから。
だが、恐らくハイドが居ても居なくても、このままだと街は致命的な壊滅を受けるであろうと、後に悟ったのである。
辺りを探しても居なければ、近くにあるこの街に逃げ込んだ可能性が大きい。だから潰す。仮に居なくても、仮にもハイドは勇者である。そんな一方的惨殺が起これば出てこざるを得ないだろう。
そもそも、ハイドが撒いた種なのだから。そして、やって来たところを殺す。
あの魔族の力があってこその、完璧な作戦である。
だからハイドはせめて街にこの事態を知らせようと帰ってきたのだ。
だが――――遥か後方では、巨大な魔力が動き始めているのを感じていた。だからハイドは余計な緊張感を背負って、余計な疲労を加えていたのだが……。
「街が見えれば、こっちのもんだ」
ハイドは自宅にある、歴代の勇者が残した技術書、魔導書等を読み漁って、その大半は頭の中に詰め込んでいる。扱えないのは、ただ知識としてしか覚えていないことと、単に魔力が足りないという理由。
だが、今1つだけ、今まで使う場面も状況も無かった魔法が扱える。
それは――――
「瞬間移動」
辺りに放出した魔力はハイドを包み、やがてそう呟くと、次の瞬間にはその姿をその場から消し去っていた。
――――見知った場所に一瞬にして移動できる、移動呪文。着地点を指定しなければならないために、訪れた場所しか移動できない。ハイドの場合は未熟なので、さらにその街が視界に収まっていないといけないのであるのだが、現在ではそれがずいぶんと重宝していた。
――――辺りから光が消え去って、次の瞬間。辺りは人工的な光に照らされた部屋の中へと景色は移り変わる。
木造の壁に、ベッドが1つ。その横の机の上には少し長い、紅い鞘に入った剣と、紅い盾。
そう、それはハイドの部屋であった。
落ち着く部屋の匂いに心を落ち着かせつつも、ハイドは全身の怪我を治す回復魔法を唱えながら、盾に腕を通し、剣を背中に背負って、部屋を出た。
「おい、部屋の電気が付けっぱなしだったぞ」
「ひゃっ!」
何気なく思ったことを口にすると驚かれた。椅子に座って寂しそうな背中を見せているノラはガタリと椅子から転げ落ちて、
「は、ハイドさん!? な、何故部屋から……っていうか、今まで何処に行ってたんですかっ! その傷も……、もうっ」
起き上がるなり言葉で攻めてくるノラを軽くあしらいながら、玄関へと足を進める。
すると、剣を持つ手を思い切り掴まれて行動を停止させられた。
「ちゃんと話してくださいよっ! それに、どこに行くつもりですか!」
「瞬間移動の魔法でラクラク帰宅した。今までは不良グループに拉致られてて、これからちょいと野暮用に」
「ちょっと理解しかねますが、とりあえず置いときます。その用とやらは一体……?」
そんな言葉に、少しばかり頭が良くなったなァ、コイツ、なんて感慨深く思いながら、ノラはハイドの力に抗えるはずも無く、そのままハイドと一緒に外へと出されていた。
「魔族に追われてる。確実にヤツはここにくるから、どうにか対処しなくちゃ行けないのさ」
肩をすくめて嘆息する。階段を下りて、やがてフォーンが住まいとしている3階部分へとやってきた。
そうして躊躇い無くインターホンを押す。中で「ピンポーン」という音が漏れてから、少々の時間を待たされて、
「はい。……あぁハイド君、どうしたんだい? そんな血まみれで」
「えぇ、実は――――」
実はこれこれこういう訳で大変なことになっておりますと、ハイドは魔族のことをかいつまんで説明する。追われた理由は、虚構を作るのが面倒だったし、相手が信頼できるフォーンなので包み隠さず、だが面倒な仕事斡旋などは伏せて話して聞かせると、
「……、魔族か。僕1人じゃ手に負えそうに無いな。人手が必要だが、そう多くても困る。……僕が君たちのパーティに入ったほうが、話が早いね」
「あぁ、だったら――――」
言葉を遮る轟音が、閉まっていた門を突き破って掻き鳴らされた。
一瞬前までは無かった魔力が、殺気が、そこにあって、そうして先ほどまではあったハイドの冷静な頭脳は消え去っていた。
異常なまでの早さ。街からかなりの距離がある場所で遥か後方に感じていたのに、まだ5分と経ってないのに既にヤツがここに居る。
この街に入るのを食い止めようと踏ん張る計画が全て破綻した。そして、ハイドは3階の外付け階段から飛び降りながら、即座に街に出る被害を最小に抑えようと言う思索が回り始める。
背中から剣を抜こうとするが、手の長さがたりなく、途中でつっかえた。しかたなく身体を屈めて、その勢いを利用して白刃を見せると――――その背中の上に何かが剛速で通り過ぎ、やがて背後の、ロイ鍛冶屋にその何かがぶち当たったらしく、烈しい音を鳴らしていた。
振り返ると、案の定1階部分が壊滅。さらに貫通したらしきその何かは奥の民家を破壊していた。
そこが火事になったらしく、民家からは赤い灯りが照らされ始めて――――魔族の彼はソレを見て、ふふんと鼻を鳴らす。
「随分と、運がいいものだなァ、ハイド=ジャンよォ……」
「ッったく。折角強くなったのに、強ェヤツが来ちゃ意味ねーんだよ。雑魚が来いよ、雑魚がよォッ!」
相手の身体能力は異常なものである。故に、魔法で肉体強化を行わねばならぬのだが、焼け石に水程度。だから、動体視力と、反射神経、それに伴う筋肉の発達を極限にまで上げて相対しなければならないのだが――――それは魔力を常に大上出しなければならない。
現在、魔力が足りないというわけではないが、長く見積もっても、もって3分。さらに完全な受身の状態で、カウンター気味の攻撃しか放てない。
街の被害も考えなければならない。そんな苦境で、だがハイドは1つしかないその作戦を、早速実行に移していた。
「――――あぁ、そうだったか。お前が、雑魚だったよな」
挑発。あくまで相手は自分だと、ハイドは誘うように不敵な笑みを浮かべて見せるが……。
「私にとっての雑魚は、腐るほど居るがなァ」
彼はそう言って虚空を撫ぜるかのように、目の前に手を這わすと、一定間隔で、黒く禍々しい掌サイズの弾が出現した。
自身から半円状に広がる弾は全てで10。そして、ソレが今から何をどうするか、ハイドには理解できてしまった。
「テメェ……相手は、俺だろうがッ!」
地面に向ける切っ先を空に。ハイドは『火炎竜の剣』を両手で構え、肩まで引き上げながら駆け出す。人間として十分すぎる速さ。だが、魔族が相手では到底通用するはずも無く――――魔族が指をならすと、それらは一斉に発射された。
四方八方へ。街を破壊せんと放たれたそれらは、一定の距離を飛ぶと突如として軌道を変え――――ハイドの全身を嬲った。
思わせぶりな弾丸は、街を狙うフェイントを見せるだけで、結局はハイドを狙ったものだった。ハイドの読みは浅く、鉄球ほどの重さを持つ剛速球を全身に受け、ハイドはぶざまにもその場に倒れていった。
「当たり前だ。私の相手は、最初から貴様ただ1人」
魔族は静かな足音を立てて、人民が逃げ惑う姿をよそ目に、再びハイドの頭を掴んで、顔の位置まで引き上げる。
「私の名は『テンメイ』。そして、私の能力は相手の死を喰らい、自分の力にする」
魔族は1人に1つずつ、魔法とは別の、特殊な能力を持っている。生まれつき持っているが、それを使いこなせるものはごく少数。カクメイの能力は、自分の傷を相手に移行するというものだったが、使いこなせていれば更に強力なモノとなっていただろう。
そして、このテンメイの能力は、相手の『死』を喰らい、その力を得るというもの。
「死喰らい。私の能力を使うのは、貴様で3人目だ」
人間ほどの口は、大きく開けると頬の方まで裂けはじめ、やがてそれは人の頭くらいなら余裕をもって口の中に放り込めるくらいの大きさとなる。
そうして、その口はハイドの頭を飲み込もうとする。臭気が漂うその中で、まだ切れていない意識を持つハイドは、だがその身体を動かせずに居た。
生きたまま感じる、死の甘美たるは想像を絶するのか……? そう考えていると――――空気を切り裂く音が迫って聞こえてきた。
やがて肉に突き刺さる醜音。喉の奥から直接聞こえるテンメイの叫び声の後に、ハイドはそのまま放り投げられ、地面に叩きつけられた。
――――どこからか放たれた矢が2本、テンメイの両目に突き刺さって、テンメイはその巨大な口で叫び声を上げながら両手で顔を抑えていた。
「た、助かった……」
胸から息を吐き出しながら呟くと、背後から足音が複数近づき、
「まだ戦いはこれから。そうだろう? ハイド君」
「ま、これくらいの相手なら余裕でしょうけど」
手を差し伸べるフォーンに、長い槍を杖のようにして寄りかかるシャロンがハイドの前にまでやってきた。
手を貸してもらって立ち上がりながら振り返ると、ロイ鍛冶店の屋根に、弓を構えるノラの姿。
ハイドはそれらを見て、回復魔法を掛けながら嘆息した。
「……足、引っ張らないで下さいね」
「おい調子に乗るなよ小僧が」
シャロンに尻を蹴られて一歩前へ。
「勇者様! 指示をくださいな」
ケラケラと、緊張感のないまま言うシャロンに、矢を引き抜いて、冷静さを取り戻しつつあるテンメイを見据えながら言葉を返した。
「ガンガンいこうぜ!」