9 ――目標の回収――
「おいおい、これで死んでたら俺は一体誰から金を貰やいいんだよ!」
貧相な馬は手綱を引かれて一心不乱に道を駆け出した。街灯の立つ道は明るく、危なげな様子は無いのだが、ハイドの心は焦っていた。
御者台で中腰になって馬を操るシャロンに叫ぶが、彼女は他の事に集中しているために、返事をする余裕は無かった。
天井と壁の部分を引き剥がされた馬車は凄まじい突風にさらされている。ノラはその中で弓を構えたまま、前を見据えていた。
ガタガタと揺れるたびに外に弾け出されそうになる身体を支え、ハイドは落ち着かずにまた口を開いた。
「ったく、一体どこに――――」
言葉は顔面に降り注ぐ鋭い裏拳によって強制的に遮られてしまう。鼻筋に強烈で鋭い痛みが走り、脳に浸透する衝撃はハイドを無防備にし、馬車から落とそうとするが、そんな身体を背後から支えられて、なんとか耐え切った。
「もうっ、何をしているんですかっ」
「助かった、悪いな。シャロンさん、一体何を……」
「風切り音がただでさえやかましいんだから、少し黙ってなさい!」
彼女が叫ぶと、ハイドはようやくシャロンが何に専心していたのか理解した。大声で話してもその半分以上を脳内補完で補わないといけないそこで、彼女は全方位からの音を拾っていたのだ。
そう遠くまでは無理であろうが、少なくとも、この暴風の中でも通常の人間並みの聴力を持つ。道中にまだ新しい馬蹄の跡があったので、ジェルマンがこの道を進んだのは間違いないと探っているのだ。
ハイドは状況の流れを読める男である。そのまま黙って、彼は空を見上げた。
右手側の空からは鈍い光が差し始めた。雲で覆われる空は沈鬱であって、ハイドはそんなお天道様を眺めては、息を吐いた。街灯は気がつくと、自らの輝きを消していた。
生暖かい空気はいつしか寒々と冷え、彼らの表情を凍らす。大気は加速度的にその温度を下げていた。
「――――前から2頭の馬が来るわね」
ぼーっとしていたわけではないが、突然言われると無意識の内に体が驚いたようにビクンと弾む。ハイドはソレを恥じながら、
「足音でも聞こえましたか?」
「……ぼーっとしてないで、前を見なさいな」
暴風に負けんと大声で彼女は告げる。促されて前を見ると、前方から凄まじい速度で迫ってくる馬が居た。2頭、遠目からでも健康的な肢体であると見て取れる。恐らく――――それが、ジェルマンの馬車馬なのだろう。
気がつくとソレは道の左右に分かれてすれ違い、一瞬にして背後へと回っていった。さすが馬、これほどの速さを持っていなければ馬車馬としては生きていけないだろう。
「あの馬とっ捕まえてこの馬車引かせればよかったんじゃ?」ハイドが言うと、シャロンは苛ついたように嫌味ったらしく言葉を吐いた。
「じゃあ捕まえてきて見せなさいな、あの速さの馬を、自力で。この一刻をも争うという状況下で可及的速やかに」
「いやに突っ掛かるじゃないですか。落ち着いてください」
シャロンが不機嫌なのは時間が無いという状況と、五感が不自由なのに加えて、そんなことを言うハイドにもあった。
「人に奴隷の始末をさせて、その間も急かすし、御者役まで押し付けといて良く言うわね――――よく覚えときなさいな」
殺気籠る口調はハイドの胸を突き刺した。そんな迸る緊張感だけでもハイドは一瞬にして数多の脳細胞を殺されたので、もう十分だとまた口走りそうになるが、今度そんな事を言ったら本当に馬車から放り出されそうな気がしたのでハイドは口を閉ざすしかない。
「でも、発言は好きにさせてください。自由な発言が子供の情操教育を豊かにするんです」
「子供って……、君いくつ?」
「18」
シャロンは呆れたように肩を落とした。それから顔に掛かる長い髪を後ろに送って、また前を見る。
彼女は顔を上げるなり、驚いたように手綱を引いて、それから細やかに操ると馬は次第に速度を落とし始めた。その代わりに馬車は激しく揺れるので、ハイドはノラの手を握って馬車に張り付いた。
馬が嘶く。馬車が停止すると、シャロンは御者台に固定してあった藁を毟って放り、飛び降りた。
「ハイド! 君も早く!」
何やら慌てたような、興奮するような声に一体誰が死んでたんだと思いながら、ハイドは上に乗るノラをどかしてシャロンを追う。
最早慣れてしまった振動が無くなり、平和すぎるほど平らな地面を踏むのが久しいような感覚であったので、ハイドは思わず尻餅をついてしまった。
シャロンはまた呆れたように溜息をつくと、こちらに手を伸ばす――――が、ハイドが掴んだのは、その脇から不意に出てきた手甲であった。
「大丈夫かい、ハイド君?」
「び、ビッツ公爵! そちらこそ大丈夫でしたか!?」
彼は酷くくたびれたような顔で軽く頷くと、
「ジェルマンで結構。私自身は大丈夫だがね、他は皆死んだよ」
いや、参った。彼はそう笑った。その笑顔がいつもの和ませるような顔だったので、ハイドは胸が痛んだ。
「申し訳ございません。俺に非は無いと思いますが」
「ああ、私の早計が悪かった。いくら君でも、待ち合わせ場所の変更という大事なことを手紙のたった1枚で済ませるようなことはしないだろうからね」
「随分酷い言い様ですが――――それで、資産家は皆殺しに?」
「目くらましを使って逃げてきた。運が良ければ――――いや、悪ければ、魔族によって全滅しているだろう」
彼はまた笑う。悲観している様子も無く、従者の死を引きずっている素振りも無い。隠しているようにも見えないのは、ジェルマンもまた食えない男だからであろうか。
曇った空は明るさを全面に広げていた。間接照明のような明るさを持つ寒空は、今にも雨滴を落としそうな雰囲気である。
ジェルマンは馬車を見るなり、軽く息を吐いて、
「まあ、たまには風通しの良い馬車も良いものだ」お世辞にも聞こえないお世辞を吐き捨てた。
鎧が擦れる金属音を鳴らしながら彼は馬車に乗り込む。狭いそこは、天井と壁の半分を取り除いてある事により、割合、快適に乗ることが出来た。
「そういえば、帰りはどうするんですか?」
手綱がぴしゃりと音を立てた。馬は再び嘶いて、その足を動かし始める。景色が流れ始めた。
「待っていてくれるかい?」
悪戯っぽくジェルマンが聞く。ハイドはあからさまに嫌な顔をして、
「まさか」また少し考えるように顔を俯かせて、「嫌ですよ」
ハイドは少し迷って結論を出した。ジェルマンは残念そうに仕方ないと頷くと、前を見据えた。シャロンへと、大声を上げる。
「森が見えたら、そこが私の危惧した場所です。十分気をつけてください!」
「了解!」
彼女が上機嫌に返事をすると、また手綱が音を立てる。馬は声を荒げて、風はまたそれぞれの全身を嬲り始めた。