8 ――お飾りの騎士――
仕事が始まる時刻は朝。朝といっても日が昇る頃ではなく、まだ草木が起き始めたような早朝である。
薄暗く、そのくせ空気は少しばかり生暖かい。朝はやはり、いくらか肌寒いくらいが丁度いいなと思いながら、ハイドは落ち着き無く左手に装備する真赤な盾を何度も微調整していた。
盾と腕の接触部分が落ち着かないのではなく、心が慌しいのだ。久しぶりに責任が問われる仕事の上、その使用者が街の一番のお偉いさんと来たものだ。
「でも、ビッツってどこかで聞いたことあるんだけどねぇ……」
「まぁ300年も昔じゃ忘れても仕方ないじゃないですか」
「んー、そんな昔でも無い気がするんだけどねぇ」
馬の蹄が地面を蹴る音が街に反響して耳へと届く。そんな不意に聞こえ始めた足音はやがてけたたましいものへと移り変わり、そうして静かに、やがてハイド達の前に止まった。
「どうも、よろしくお願いします」
2頭の馬はお世辞にも健康とは言いがたい風貌であった。薄暗い中でもその判別が付くのだから、気持ちの良い日差しの中で見たらどれ程のものなのだろうか。
だが馬車を引く位の力はあるのだから――――恐らく、魔族との戦闘を想定しての消耗を前提としているのだろう。
――――いや、待てよ。ハイドは1つの疑問を頭に過ぎらせる。
消耗を前提とするくらいなら、1番の強靭な肉体を持つ馬で逃げ切ればよいのではないか? 消耗すべきは雇用者であり、その為に雇ったのであるから、馬が貧相なのはおかしいのではないか?
ジェルマン公爵は頭が良い。先日の会話でソレが十分に把握できた。だからこそ、これに対し何かしら考えがあるのだろうという結論ではなく、彼はこのようなことは断じて実行しないと思えてくるのだ。
彼は驚くほどの偽善者だ。いついかなるとき、誰かが見ていなくとも命は粗末にしない。だから、最も急ぐべき状況でのこの馬の選択が、嫌なほど目に付いたのだ。
「――――ビッツ公爵。申し訳ないのですが扉を開けてはもらえませんか?」
失礼を承知でハイドは声を掛けた。御者は反応せず、ただ手綱を握り前を見据えるのみ。この時点で概ねの判断は完了したのだが、まだ確信には至らない。
シャロンがハイドを見る。それは失礼なのでは、と視線で訴えていたが、ハイドはソレを無視する。そうして少しの間が開いて、声が返ってきた。
「ええ、少し待っていてください。今開けます」
くぐもった音声。口調は良く”似ていた”。なのでハイドは迷わずに飛びかかるように扉を蹴破って中に入り込んだ。
扉が音を立てて破損する。金具が壊れ、外れたドアの下敷きになる公爵の上に乗り、
「ダウト、ビッツ公爵はそう呼ぶと必ず『ジェルマンで結構です』と訂正する。最も、お前等のような地位の人間は会話を交わすことすら許されないから知らんだろうがな」
背後でシャロンの気合の入った叫びと男の悲鳴が重なった。ハイドは下敷きとなった男を器用に引きずり出して外に蹴り飛ばすと、同時にその男を追うように馬車の中から弾き出て、その男を地面に押し付けた。
肌は浅黒く、全身生傷だらけで頭は禿げ上がり、大きな鼻が特徴的の――――ジェルマンとは似ても似つかぬ男は悲鳴を上げて、
「や、やめてくれ! いいだろうが、俺だって外の世界に逃げたって、いいだろうが!」
ハイドは地面と盾とで男の頭をサンドイッチする。徐々に重圧を掛けていく中で、男は次第に早口になっていった。
「見たんだよ! 昨日お前は! 助けただろうが! 俺たちと同じ奴隷を!」
ハイドは軽く掛けていた体重を一気に全て乗せる。男は悲鳴を上げることも出来ず、軋む骨の叫びだけが小さく聞こえてきた。
「ありゃ契約未成立だ。金だって置いてきたし……つーか、んな事を聞きたい訳じゃあない。わかるだろう? お前は頭が良い。何を話せばこのまま娑婆に逃げられるか……分かるだろう?」
頭の隅では大体の予測は確信へと変わりつつある。奴隷を用いたダミー。馬もこれほど貧相ではあるが、そう安い買い物ではない。
「ったく、どこの誰かは分からないけど、面倒なことをしてくださる」
やれやれと息を付くシャロンは、優しい手つきで興奮し、今にも暴れだしそうな馬をなだめていた。ハイドはそれを横目で見ながら、スラスラと吐き出される情報を頭の中に収めて、また分解し、再構築する。
程なくして出来上がりまとまった情報は、シャロンの言葉どおり、本当に面倒なことであった。
夜が明ける頃、突如待ち合わせが変更された事に疑問を抱きながらも、彼ならば何か考えがあるのだろうとジェルマンは考えていた。
食えぬ男だが、そこが良く、また面白い。故にジェルマンはハイドに対して高評価を与えていた。
今は朝。未だ日も昇らぬ時間。待ち合わせ時刻の変更は無かったので夜中の出発となっていた。
全身を鎧で包み、彼は愛用の剣を椅子に立てかけながら、正面の椅子に座る2人の護衛兵の緊張を解くような会話をしていた。
護衛兵と言っても、あくまで街で暴漢などから身を守ってくれるだけの存在である。それがいきなり想像も付かない街の外で、しかも死ぬかもしれない魔族の巣での仕事をしなければならないのだ。
これでリラックスしている人間が居たら、それはかなり肝の据わった者か、感情が欠落している者だろう。
街から出て既に1時間が経とうとしている。彼、ハイドが指定したのはその近くの森の入り口であるのだが――――。
護衛兵の顔に笑顔が戻り始めた頃、身体に伝わる振動は小さくなってきて、身体に伝わる速度がやがて消える。馬車が止まったのだ。
そう考えると間も無く、正面上にある、御者と言葉を交わすための小さな戸が音も無く開いて、
「公爵! お逃げください! 騙され――――」
彼は告げるべき台詞を最後まで口にすることも許されないのか、そこで口を閉ざした。変わりに降り注いだのは、彼の断末魔と、鮮血であった。
「な、あ……あああああぁぁぁっ!?」
顔に掛かった血を拭う。その手を見て、1人の青年が狂ったように叫び声を上げた。緊張のせいで堪っていたストレスがそんな血のりによって爆発し、彼は腰から外した剣を取ることなく馬車から飛び出すと――――その身体は外に出ることなく、飛び出した姿勢で停止した。
彼の体が大きく弾んで、止まる。肉を裂く生々しい音が聞こえて、青年はその背から血に塗れた白刃をは生やしていた。
「公爵様、お逃げください。道を作ります――――最期にわがままですが、彼の醜態をお許しください」
残った1人の青年はそれだけ一方的に言うと、徐々に外へと消えていく彼が置いていった剣と、自身の剣とを左右の拳で握ると、鋭い刃を生やす友人の背を強く蹴り飛ばした。
「んがっ」
男の舌打ちがやけに耳に通る。誰かの悲鳴が聞こえた。何度も何度も、刃同士がぶつかり合う甲高い音が響いた後――――何かが鈍く、崩れ落ちる音を立てて、また静寂が辺りを支配し始めた。
「随分とぉ、優秀な部下を持っているじゃあないですか!」
誰かが強く馬車を蹴る。否、車輪を切られたのだ。バランスを崩した馬車は大きく揺れて、だが完全に崩れることは無く、また落ち着く。
気がつくと聞こえる、馬蹄の音は後方に小さく去っていった。
「……四面楚歌、か」
懐かしい。ふと胸に過ぎる思い出が、まさかコレが走馬灯と言うものではないかと心配になってきた。
「出てきて下さいよ公爵様!」
街の近くの森の前。近いといっても馬車で1時間は相当遠くであるのだが――――その場所は、ジェルマンがハイドを雇った理由となる場所である。
だから、仮に私が命を失い事となっても、彼らに知らせておいたほうがいいだろう。彼らは死んでも構わないが、彼らが死ぬ要因となるであろうその情報を一方的に知っているのはなんだか、騎士としてフェアじゃない。
最も、貴族の力で騎士になったジェルマンは、その心持ちだけが偉大である。実戦は幾度と無く乗り越えてきたが、どれも守られてきた。
貴族にとっての騎士とは、肩書きなのである。悲しきことは、貴族は誰もが知らぬ事実で、また騎士である事を誇っている事。すばらしきことは、ジェルマンのみが、その事実を知りながらも未だ騎士の、人としての高みを目指し、それ相応の地位を手に入れたことである。
だから彼は、迷わず外に出た。
扉を開けて、不確かな平行を持つ馬車の床から、確かな平らさを持つ地面へと。途中で刃が飛んできても構わないと覚悟をしているのだが、何故だか、そんな時に限って何も起こらない。
――――馬車は、数人の男たちによって囲まれていた。半円状に。勿論馬は失いが、殺さずに逃がしてくれたところだけは感謝しよう。
真赤な地面に倒れる幾つかの死体には、先ほどまで笑顔で、先ほどまで勇敢だった護衛兵が雑じっていた。
「さぁすが貴族サマ。引き際がよろしいこって」
「ジェルマンで結構だが――――退く? 君たちは、少しばかり勘違いしているようだね」
彼は自分の、生まれつきの上品なその素振りが彼らの逆鱗に触れることを知りながら、意識してとめることなく、そのまま話を続けて見せた。
賊と思われた男たちは、どれもかれもが面識は無いが、見覚えのある顔であった。共通点は、資産家。
恐らく1人になったアンヌに息子を寄り添わせて席を居れ、徐々に支配していくという考えだろう。さすがのジェルマンでも嫌気が差した。
「退くべきなのは君たちだ」
「あぁ?」
凄む男たちに構わず、彼は鎧に引っさげていたホルスターから1丁の拳銃を抜いて、撃鉄を起こし、弾丸をはじき出す。
少し強い衝撃がジェルマンの腕を襲う。『天』に向けて放たれた弾丸は空中で弾け、巨大な爆発音と、網膜を焼き尽くす閃光を解放した。
暫く耳元で、さらに大声で喋らなければならなくなるほどに耳が麻痺する。眼を瞑っても見える光は、暫くの間瞳を閉じることを余儀なくした。
――――コレほどの騒ぎなら魔族も、仮に近くに居たならば起きて出てくるだろう。
ハイドへの合図にも為り得るし、目の前の男たちへの時間稼ぎにもなる。ジェルマンはある程度離れた位置まで逃げると、
「そこは魔族が出るから逃げた方が良い」
恐らく聞こえては居ないだろうから伝わっては居ないだろうが、それだけ言って、また駆け出した。彼の逃げ出す姿には最早、騎士である尊厳などは微塵も見えなかった。