45.男の蜜
「ちっ、何だと言うのかね、一体」
落胆したような、それでいて感情を持たない無慈悲な声だった。ゲイドリヒは俺の手を荒々しく振り切ると、再び歩き出した。もはや説得もなければ妥協もない。そのことを理解させるのに、それは十分な響きを持っていた。
しかしそれは俺も同じだ。何も語る気はない。ただ、俺に出来ることをするだけだ。
俺は静かに妄想を浮かべた。奴の姿が目の前にあり、そして玉筋部長と非常に似通っているのだ。ある意味、シチュエーションがイメージしやすいのは有難い。もはや奴を部長と同一視しても問題はないだろう。
背景は、ある日の夏の終盤、日暮れの頃。
外回りでくたくたになった俺は事務所に戻っていた。他の社員たちはもう帰ったようだ。夏の夕日は赤々と燃えて、午後六時を過ぎたというのに、空は明るく、未だ夏の盛りを謳歌しているようだ。
「おう裏袴、今戻りか」
「はい、部長」
俺は手に持った書類を机の上に放り投げると、蕩けるような眼差しを携えて、部長の席の前に辿り着く。
「もう仕事も一段落付いただろう、どうだ……と、おい、ちょっと」
「疲れましたよ、本当……」
俺は何の躊躇もなく、部長に胸に顔を埋めた。ほんのりと男の匂いがする。冷房の風を心地良く感じながら、その一方で、それがどことなく無粋であるような気がした。
周囲は全くの静寂だ。部長の胸の鼓動が聞こえる。
「おいおい、全く、可愛い奴だ……」
俺は部長の言葉に気を良くして、顔を近付けて彼の唇を奪った。朝はしっかり処理されていたが、夕方ともなると僅かに無精ひげが覗いている。
俺はそのまま抱っこちゃんスタイルになって、部長に抱き着いた。そしてシャツのボタンを一つ一つ外していく。
「な、何だ、むず痒いぞ、いや、変な気分だ……」
それは部長の言葉ではなく、ゲイドリヒの言葉だ。明らかに動きが鈍っているようだった。軽い眩暈を催したように、その場で頭を抱えている。
感情の複雑さという点では、俺はもう、この妄想をしてしまったら、後には戻れないというこの上ない恐怖がある。一方で、性を嗜む人間として、その方面に全く興味がない訳でもなく、好奇心さえ働いている。もちろん、それ以外にも様々な感情が蠢いており、それらが相乗して、俺の色欲力を高めていくはずだ。
俺の妄想は続く。
「部長、今日は係長と少し、ちょっと距離が近かったように見えましたよ」
「嫉妬するなよ、俺はお前だけだ」
互いに秘部を弄りながら、俺ははだけた部長のシャツに顔を突っ込み、舌を縦横無尽に乱舞させる。同時に、俺も上半身を、ゆっくりとはだけさせていく。
俺の近くで何か物音がした。ゲイドリヒが膝を付き、その場で悶えている。だがそれがどうした。妄想を止める訳にはいかない。
しかしながら、ゲイドリヒの様は俺にとって追い風ともなる。膝を付き、手を置いて、軽く四つん這いのようになっている。その姿勢を利用しない手はない。
「……部長、もう俺、我慢できません」
俺は妄想の中で、部長を椅子から降ろし、今のゲイドリヒと同様の態勢を作らせた。
「今日は私が受けか、アグレッシブだな……」
互いの呼吸が熱を持っている。オフィスの冷房の音が、たまに流れる沈黙を縫って囁いているようだった。
「そういう日だってあります……っ!」
俺は部長の背後に立つと、その逞しい横腹に両手を添えた。そして俺の逞しくなったものをそっと押し当てて、そのまま軽く小突く。
「ふんっ」
「ぬぐぉっ!」
ゲイドリヒの苦痛の喘ぎが聞こえる。
「はっ!」
「ぐわぅ!」
いつからか、何が妄想で何が本当なのか、少しずつ分からなくなっていくようだった。喘いでいるのは妄想の中の部長か、はたまた脇にいるゲイドリヒか。
詰まる所、これは俺にとっても危険な賭けであり、行為であった。確かに俺は部長に敬意を持っていたが、決して恋慕に結び付くものではない。ましてや俺はノーマルであって、男の娘なら少しばかりいけるかも知れないが、それ以外の、特に父にも近い年齢の男性は普通に無理だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺自身、無理を押して妄想を進めている。これは俺の喘ぎであり、苦しみの声だった。ゲイドリヒを相手にしている以上、妄想を止めることは出来ず、俺も非常に苦しい。今も妄想の助けになればと思い、ゲイドリヒを視界に収めつつ、自らも下半身に手を当てているのだ。
自らのモラルが破壊されていくようだった。
「……こ、小癪な、まさか、貴様が何かしている、のか……」
ゲイドリヒの冷たい眼差しが俺を捉えた。それは俺を妄想から引きずり下ろそうとする意思を持っていたが、しかしそう簡単に止まる訳にはいかない。
「違うぞ……」
「な、何が違う、ぐおっ」
「部長は、そんな目をしない……!」
「何を、おうっ……! はぁっ」
どの程度のダメージかは分からないが、ゲイドリヒは確実に苦悶の表情を浮かべている。もしかすると、この調子で行けば、考えを改めさせることが出来るかも知れない。
だが、俺が希望を抱いた瞬間、ゲイドリヒは短い叫びと共にその場に立ち上がった。
「ぬおおおぉぉぉ!」
怒号は俺の耳を劈き、一瞬、俺の妄想を途絶えさせてしまった。憤怒に染まるゲイドリヒの顔が、俺を見据えて離さない。
「はあ、はあ、下級神と思って油断した。貴様、一体、何者だ。……はあ、あまりに危険だ、もはや猶予ならん!」
息を荒げながら、ゲイドリヒは再びまっすぐに俺を見据えた。瞬間、全身を締め付けられるような圧迫感が俺を襲う。
俺は声にならない声を捻り出しながらも、何かしら対抗しようとしたが、しかし痛みで妄想をする所ではない。俺は地に這いつくばりながら、何を待つでもなく、何もすることが出来なかった。
意識が霞んでいく。
天界で過ごした記憶がゆっくりと巡っていく。思えば、非常に濃密な時間であった。俺のような者が、らしくない熱を抱いて、よくこうも動き回ったものだ。我ながら感心さえする。
風俗が作りたい、その一心で動き出したものは、いつの間にか俺の中で非常に大きなうねりを持つものになっていた。
未練がないと言えば嘘になる。だが、やれるだけのことはやった。俺としては十分だ。
死、もしくは消滅への恐怖もなくなった。俺はゆっくりと目を閉じた。そして、ゆっくりと感覚が鈍重になっていくのを感じ取った。
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「……く、次は誰かと思えば貴様か。相変わらず、あの方の顔に泥を塗りたくって生きているようだなっ……!」
ゲイドリヒの声が聞こえる。
「……くそ、遅かったか。だが、奴にあれだけのものを見させられたのだ、その意志を無駄にすることは出来ない、この先へは行かせませんよ!」
こっちはグラサンか? 良く分からないが、いつもの調子とはやや違って真面目ぶっているように感じる。
俺は死んだものかと思っていたが、僅かに失神した程度なのだろう。ゆっくりと目を開くと、タペストリの前で、二人が対峙しているのが見えた。
傍目に見ると、彼らの周囲に対し、特に派手なエフェクトは見当たらないが、周辺の空気の異様さは手に取るように分かるようだった。神々の力が衝突しているのだ。空間が陽炎のように揺らめき、オーラのような煌めきを放出している。
結局、俺はグラサンの正体を知らず仕舞いだったが、しかしゲイドリヒと互角に見える勝負をしている所を見ると、かなりの力量を持つ者なのだろう。
「……ああもう、なぜ、誰も彼も私の手を煩わせるのだ!」
「それなら、なぜ今回に限って出しゃばったりしたのです、あなたらしくもない!」
「ぶらぶらしている奴には分からんさ! このっ!」
ゲイドリヒの発奮と共に、グラサンが態勢を崩すのが見えた。互いに苦しそうに息をしているが、どうやらグラサンが劣勢のようだった。
しかし、グラサンがなんとなく放浪している感じが想像が出来て、その場のシリアスさにも関わらず、俺は小さく息を漏らしてしまった。
「ふふっ……」
「……!」
幸い、俺のその所作に気が付いたのはグラサンだけだった。戸惑いながらも、俺に対して背を向けているゲイドリヒに気が付かれないよう、そっと俺に視線を送る。




