1.ある日の風俗帰り
俺は裏袴風好。自分で言うのも何だが冴えない中年サラリーマンだ。30代になっても部下の一人もいない零細企業で、毎日ぼろ雑巾のように扱き使われている。
いつから人生の歯車が狂ってしまったのか、そんなことはどうでもいい。ただ一つ、心の拠り所にしていることがある。
とにかく世の中には俺みたいな奴はごまんといる。上を見てもきりがない、下を見てもきりがない。つまるところ、俺は中庸を歩いている。俺は全ての中間値、平均だ。そう考えると決して悪いことばかりじゃない。
自分でもたまに情けないと思うこともあるが、どうにもならないことはどうにもならない。悩んでいても疲れるだけだ。
日曜日の夕方過ぎ。その日、俺は風俗の帰り道だった。どういう結果であれ、それは第二の心の拠り所だ。俺という枯れそうな草木に水を遣るが如く、とにかくこれがなくっちゃ始まらない。昔は色々なジャンルを開拓したが、結局のところ、今ではオーソドックスなものに落ち着いた。
一つ二つ白い溜息を浮かべながら、俺はとぼとぼと歩く。明日は仕事だ。身を打つ風も随分と冷たく感じる。
行きは良い良い、帰りは辛い。出会いは時の運と言うが、生憎その日の冒険は失敗だったようだ。たまにはタイプを外して、と考えたのだが全く裏目に出てしまった。サービスが良かっただけに悲しみがこみ上げる。
侘しい気持ちを抱えながら俺は歩いていた。繁華街を抜けると、しっぽりと包み込むように、路地が無表情に口を開けている。別にそこを通る理由はなかったのだが、さながら人生の暗闇に飛び込んで、道を切り開いていくようで気持ちが良かった。
酒も少し入っていたから、時にはそういう気持ちになることもあるだろう。
陽気な気持ちを抱えて、路地を抜けて再び大通りに出る。ぱっと視界が開けて、俺はたちまち喧騒に呼び戻された。
交差点の向こうを大きなトラックが走っていた。ああ、あれに轢かれて、安くて質の良い風俗店が一杯ある異世界に行きたいな、とか思いながら、ぼんやりと歩いていた。
すると、そのまさか、のようなことが起きた。
そう、俺はトラック、ではなくタクシーに撥ねられた。大きなトラックを眺めていたら、すぐそこのタクシーに気が付かなかったって訳だ。
実際に轢かれてみると分かるが、ああこれで俺も異世界行き決定だ、とか考えるような余裕はない。
痛い、それだけしか考えられない。いや、痛い、もなんか表現が軽くて違う。その時は、全身もだが、特に胸を強く打ち付けたようで、上手く呼吸が出来なかった。とにかく苦しい。
だが、助けてくれ、っていう感情は不思議と見当たらなかった。もう、別にそういうのは良かったんだ。俺は図太いように見えて、昔は真面目に自殺だって考えたことがある。人間とは何だろうとか、人の存在、生き死について真剣に考えたこともある。
だけど、もういい、俺も頑張った。
多分、それが最後に感じて、考えたことだった。呼吸困難に陥りながら、俺はそう思って意識をそっと閉ざした。
― ― ―。
― ― ― ― ― ―。
― ― ― ― ― ― ― ― ―。
声が聞こえる。
「……ン、ドルンドルン!」
俺は誰かの声に気が付いた。低音だが男の声ではないように思う。すんなりと目を開くことは出来なかった。体が自由に動かない。ただ、声はより明瞭に聞こえるようになっていった。
「ドルンドルン!」
その声は俺に向かって来ているようだ。ドルンドルンに心当たりはない。何かの店名かとも訝ったが、しかし思い当たる節はない。
ただ、とにかく不思議な感覚だった。記憶はあるが、寝ぼけているように、上手く頭が回らない。まともな感覚は聴覚だけ。ただ、そうしている内にうっすらと他の感覚も戻って来た。
体はまだ激痛が走ることもあるが、呼吸をする度に少しずつ癒えていくようだった。
手先が動く、匂いを感じる、足先が動く。どうやら俺は背中を地に付けて眠っているようだった。
俺は動く範囲をゆっくりと拡大させていった。俺が目を開くことが出来るようになるまで、その「ドルンドルン」という呼び掛けはずっと続いていた。
そして俺は遂に半身を起こして、じんわりと目を開いた。
「おお、ドルンドルン、気が付きましたか」
女がいた。色々と小ぶりな女だが、顔は良い。人によって好みはあるだろうが、まあ当たりの部類で間違いない。黒い髪は輝くように透き通り、肌は日本人みたいにちょっと色が付いている。顔は小さい。髪は耳に掛かるくらいのショートヘアで、目が大きい。
俺を見る瞳がきらびやかに輝いていた。その点は俺と正反対だろう。つい最近のこと、君の目はいつも濁っているね、と取引先の相手に真顔で言われたことだってある。
ただ、その女の俺に対する態度だが、ちょっと距離が遠いというか、なんというか、明らかに見下しているような感じが気になった。
まず、俺がこうして横になっているというのに、女は膝も曲げず、ぴっしりと直立して俺に冷たい目を向けている。服は白く、ひらひらした一枚の布のようなものを、左右非対称にしてオシャレに巻き付けていた。腰には金の帯。足元にはアンクレットが二重三重に巻き付いている。足元はサンダルだが、その質感は金属のように白く輝いていた。
俺は上手く働かない頭を手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。この女は誰だろう、全くけしからん服だ。
すると、その誰に向けたものでもない俺の問いかけに答えるものがある。
この女の名前はルナータ、女が来ている服はぺプロス、男版はヒマティオンというらしい。
はあ、何だ、この情報?
俺は飛び上がらんばかりに驚いた。少なくとも俺にそんな知識はないはずだ。急に頭の中に流れ込んで来る情報を前に、俺は人知れず狼狽した。
「何でこんな所で寝てるんですか、こけて頭でも打ったんですかぁ?」
さっきも感じたが、それは俺を心配するような口調ではない。明らかに小バカにするものだった。
なんだ、サービス地雷か。
口に出したつもりはない。だが、どういう訳か、その声ははっきりと漏れて、俺の口から飛び出していた。俺は慌てて口を押さえたがもう遅い。
「ハァッ、何なのアンタッ!?」
瞬間、目にも止まらぬ速さでビンタが飛んで来た。パンッと心地よい、軽やかな音が静まり返った中に響き渡る。俺はその場によろめき、倒れそうになった所を、精一杯の力で踏ん張った。誇張ではない。それは、実に躊躇のない一打だった。
ルナータはイラつきを隠さず、足音を立てながら俺の前から立ち去ってしまった。
一人になった後で、ようやく俺は気が付いた。俺もまた、ルナータのように白い布に身を包み、さながらギリシャ神話の神々のような出で立ちをしていることに。