恋
『あなたに届くことを信じてこの手紙を書きます。
私は名前や歳も分からないあなたへ恋をしてしまいました。
分かっているのは、声とうっすら見える顔だけ。
あなたとはただ、挨拶をするぐらいの些細な関係。
もちろん、きちんと話したこともない。あなたは不思議に思うでしょう。
どうして、そんな関係で好きになるのかって。
小学生ほどの小さな女の子が、お母さんに頼んでこの手紙を書いてもらったのかもしれない。
そう思うかもしれません。でもそれは違います。
歳は言いたくありません。私のことを詮索されたくないので。
あなたとお付き合いしたいとか、そんなおこがましい考えは持っていません。
私はこれまでのように、あなたのことを見守ることが出来ればそれで良いのです。
それ以上は望みません。では、なぜこんな手紙を書いてしまったのか?
それは、正直私にも分かりません。どうしても書かずにはいられなかった。
理由をつけるとするなら、きっとそんなことになるでしょう。
どうしようもないこの気持ちを、書くことでしか抑えれなかったのです。
こんな手紙を受け取ったらきっと、あなたは困ってしまうでしょう。
名前や顔も分からない女に、急にこんなことを言われて。
だから、宛名も私が誰であるかも記しません。
ただ、これだけは知っておいて欲しい。
あなたはきっと私のことを知っているということを』
「ねぇ、これどうする?」
困った顔をしながら、亜紀が茶色い封筒を手にこちらを見てくる。
その封筒には、何も書かれていなかった。宛名も送り主の名前さえも。
「どうするって言ってもな」
夏休みの期間、幼馴染の亜紀と一緒に郵便局のアルバイトを始めたのだった。
郵便局に集まった封筒や葉書を選別する作業をしていた。
「これってやっぱりイタズラなのかな?」
少し非難するような声で、亜紀が言ってくる。
「中身を見ればもしかしたら、差出人が分かるんじゃないか?」
きょとんとした目を亜紀がこちらに向けてくる。
そんな考えに至らなかったみたいだ。
中には便箋が一枚入っていた。
まるで、おばあちゃんが書いたような綺麗な字だった。
誰かへのラブレターの様だった。ただ、こちらを見ても差出人が分からない。
「うーん、イタズラじゃなさそうだね」
亜紀が、中身をのぞき込みながら言ってくる。
確かにイタズラにしては、手が込み過ぎている気がした。
「誰か差出人に心当たりはないの?
優斗が配達している地区から集められた中に入っていたんだけど」
「そんなこと言われてもな。一体どれだけの人達に配達してると思ってるんだよ」
「この字からきっと品がある大人の女性だと思うんだよね。心当たりない?
ねぇ、少し前に言って無かったっけ?
優斗が配達した時に泣き出してしまった女性がいたって」
確かにそんなことがあった。歳は母より少し若いくらいの女性だった。
僕の顔を見た途端に泣き出してしまったのだ。
困っている僕に対して、ごめんなさい何でもないのと言いながら荷物を受け取ったのだ。
「もしかして、その女の人が差出人だったりして。
そしてその相手っていうのはもしかして優斗だったり・・・」
亜紀がそそのかしてくる。僕を困らせて、楽しんでいるのだ。
「そんな訳ないだろ。いい加減なこというなよ」
「そんなむきになって怒らなくても良いじゃない。あくまで可能性の話よ」
ふくれっ面をして僕を見てくる。
いつも亜紀の方からちょっかいを出してくるのに、最後は僕が悪者になるのだ。
小さいころから、決まって親から怒られるのは僕なのだ。
亜紀とは結局、大学まで同じ学校に通うことになってしまった。
しかも、学科やクラスまで同じって、どこまで腐れ縁なのか。
インターホンのチャイムを押すと、綺麗な透き通った声が聞こえてくる。
例の女性の家への配達だった。表札には小鳥遊という文字。
なんて読むのだろう。あとでネットで調べてみよう。
女性が玄関から顔を出してくる。
まっすぐな長い黒髪に、血管まで見えるほどの白い肌。
森を流れる綺麗な小川みたいな人だなと思った。
気のせいか、目が潤んでいるように見えた。
亜紀の突拍子もない考えが影響し、対応がぎこちなくなってしまう。
声も裏返り、伝票も綺麗に切り取ることが出来ない。
ふっと女性の笑い声が聞こえてくる。
「どうかしましたか?なにかいつもと様子が違うみたいですけど」
眩しいほどの笑顔をこちらに向けてくる。
「すみません、この前のことが気にかかっていまして。
僕が何か気に障ることでもしたのかと」
作り笑いをしながら、頭を掻く。得心したように女性の顔がぱっと明るくなる。
「あの時はすみませんでした。あなたは全然悪くないの。
どうか気にしないで下さいね。悪いのは私なんだから」
丁寧に謝られると、こちらが恐縮してしまう。
「そうですか。それなら良かったです。あの・・・」
女性がまっすぐに僕を見てくる。
僕はそれから先の言葉を言うことが出来なかった。
「いえ、何でもありません。今後もよろしくお願いします」
ゆっくりと玄関をしめ、2階建てのアパートの階段を降りる。
とても聞けなかった。あの手紙を書いたのはあなたですかなどとは。
「どうだった?やっぱり差出人は小鳥遊っていう達筆おばさんだった?」
亜紀が目を三角にしながら聞いてくる。
おばさんという言葉に少し腹が立ってしまう。
達筆は事実だけど、小鳥遊さんはおばさんではない。
亜紀におばさんと言ったのはまぎれもない僕なのだが・・・。
「だから違うに決まってるだろう。
もし小鳥遊さんが差出人だとしても、俺宛とは限らないし。
それに小鳥遊さんはおばさんじゃないよ」
亜紀が驚いたような顔で見てくる。
少し声に怒りが混じってしまったかもしれない。
「あれ、どうしたの?やけに小鳥遊さんの肩を持つのね。
もしかして、好きになってしまったとか?まさか、そんな訳ないよね?」
亜紀が僕をせかすように詰め寄ってくる。僕に対して、怒っているように見える。
「馬鹿なこと言うなよ。そんなことあるわけないだろう。
もう、この話は止めよう。きっと誰かがイタズラでこんな手紙を書いたんだ。
亜紀が言うようなロマンチックな展開なんてないんだよ」
僕は持っていた手紙を丸めてゴミ箱に捨てる。
それを亜紀が少し悲しそうな顔で見ていた。
2階建てのアパートを夕日が赤く染めていた。
同じ日にここへやって来るとは思わなかった。
しかも、手にあるのは荷物ではなくあの手紙。
亜紀に見つからないように、そっと拾っておいたのだ。
ああいう風に言ったものの、やっぱり差出人が気になっていた。
なぜ、小鳥遊さんは僕を見て泣いたのかも知りたかった。
小鳥遊さんの部屋にはテレビが無かった。
あるのは、本棚と小さなテーブルくらい。柑橘系の匂いが部屋を包んでいた。
小鳥遊さんはキッチンでコーヒーを淹れている。
こんな状況になるとは思わなかった。
玄関が開くと共に、やっぱり小鳥遊さんが泣いた理由が知りたいというと、
部屋に上がるように優しく促されたのだ。
大学生の男子が、知らない女性の部屋にあがるというのは、まずいのではないか。
もうすでにあがってしまっているので、もうどうすることも出来ないのだが。
「私が泣いてしまったのは、あなたが死んだ弟に似ていたからなの。
すごく似ていてね。生まれ変わりじゃないかって思うほどだった」
コーヒーをそっとテーブルに置き、小鳥遊さんは話を始めた。
小鳥遊さんは、10歳離れた弟を交通事故で亡くしたのだそうだ。
とても仲の良い兄弟で、その日も夕食を一緒に食べる約束をしていたという。
弟はスクーターで待ち合わせ場所に向かう途中で、トラックに衝突してしまったのだ。
小鳥遊さんは今もその日のことを後悔している。ご飯の約束をしなければと。
涙ながらに語る小鳥遊さんを見て、僕は何も言えなくなってしまった。
手に握られた手紙について聞くことは、とても出来る状況ではなかった。
「そんな辛い過去があったんですね。
小鳥遊さん、僕と友達になるというのはどうですか?
流石に弟にしてとは言えませんが。もしそれで、小鳥遊さんがよろしければですが・・・」
僕は自分が何を言っているのか分からなかった。
自分が導きだした答えに、小鳥遊さんが喜んでくれるとなぜ思ったのだろう?
「優斗君、面白いこと言うのね。じゃあ、お願いしちゃおうかな」
思いがけず、小鳥遊さんは笑ってくれた。それが何よりの救いだった。
それがきっかけで、話は弾んだ。内容は僕の悩み相談みたいになってしまったが。
「最後にこの手紙なんですけど。小鳥遊さんが書いたものですか?」
細く長い指先で、手紙を受け取り、小鳥遊さんが便箋を確認する。
「いいえ、私ではないわ。こんなに綺麗な字、私には書けないもの」
おどけるような顔をしながら、小鳥遊さんが言う。
不覚にもそれを可愛いと思ってしまった。
アパートの階段を下りた先に、亜紀が立って待っていた。
非難するような目で、僕のことをじっと見つめている。
「あの手紙を書いたのは、小鳥遊さんじゃない」
亜紀は知っていた様にすっと頷き、黙っている。
「あれを書いたのはお前だったんだな。
おかしいと思ったんだ。どうして小鳥遊さんの名前を亜紀が知っているのかって。
手紙の差出人を小鳥遊さんにしようとしたんだな。
まさか俺が本人に聞きに行くなんて事は、想像していなかっただろうけど」
亜紀が冷めた目で見てくる。
こんな亜紀の表情を初めて見た気がする。
「どうしてこんな事をしたんだ?一体なんのために・・・」
呆れた様な顔になり、亜紀は鼻で笑う。
「それは優斗が一番分かってるんじゃない?
私の気持ちに気づいてないわけないよね?」
亜紀の真っ直ぐな視線に、僕の目は泳いでしまう。
これまで亜紀の気持ちに気づかないふりをして来た。
まさかこんな形で問い質されるとは思わなかった。
長い沈黙が流れる。
「私の気持ちは手紙に書いたわ。それにどう答えるかは、優斗に任せる。
手紙の内容が全て本当だとは言わない。
だけど、このままの関係は耐えられない。
だから、ゆっくり考えて結果を教えて欲しい」
亜紀はそれだけを伝えると、背を向けて帰っていく。
僕はそれを黙って見ていることしか出来なかった。
夕日に包まれたアパートを、冷たい風が吹き抜ける。
微かにコオロギの鳴き声が聞こえてくる。
もう秋がそこまでやって来ていた。
[完]