ならば拳で語りましょう
すっと手が挙がる。
あまりに洗練された動作に、一瞬「手が挙がった」ことにも気づけないくらいだった。
「発言してもよろしいでしょうか」
そう口に出したのはジャネット・マクレイ公爵令嬢。先々代の王弟が興した公爵家の姫だった。
そしてまさに今、婚約者である第二王子に婚約破棄を突きつけられた令嬢でもある。
王子の突然の暴挙にも関わらず全く動揺していない様子の公爵令嬢に周りはざわめいた。
一方で王子自身はふんと鼻を鳴らした。彼の横にいるのは小柄な少女――子爵家の令嬢で、腕に胸を押し付けられていても咎めもしないのは婚約者のいる男としては眉をひそめられる態度だ。けれどこの学園ではもう見慣れられた光景であり、口に出すものはいない。
「発言だと?今更何を言いつくろうつもりだ。お前のやった悪事は全て暴かれた。黙って裁かれるがよい!」
子爵令嬢の肩を抱きながら王子は上から目線で言い放った。弁明すらも許さない態度に良識のある幾人かは顔を見合わせたが、王子の腕の中の子爵令嬢は頼りがいのある王子の姿に目を輝かせているし、王子に付き従う男子生徒たちはうんうんと頷きあっていた。
一方でジャネットはなるほど、とその光景を眺めていた。彼女は王子が言ったような、子爵令嬢を虐めてけなすようなことをした覚えはない。というかそもそも、顔を合わせたこともない。ジャネットは普段ほとんどの授業に出席していなかった。試験で点数さえとれば卒業できるゆるゆるな制度のおかげである。
とにかく、冤罪をかけられて黙っていろというのは酷だ。だが相手は王族。公式の場では許しを請わなくては声をかけることすらできない。婚約者であるジャネットはそれを免除されているはずだったが、王子本人に「俺の許可がないのに口を開くな!」と言われてからはずっとそうしてきた。
なので言葉にして抗議することはできない。ジャネットは拳を握った。
そして一瞬で間合いを詰めると、グーで王子の頬を打ち抜いた。
「ぶへっ!?」
「きゃあ!」
不意打ちでぶん殴られた王子は吹っ飛び、そのままテーブルに激突する。並べられていた皿が落ちて飛び散った。一方で王子の腕にまとわりついていた令嬢はすっ転んだ。
わりと頭に血がのぼって反射的に殴っていたので方向に気を遣えていなかったジャネットは、まだ食事の準備がされる前でよかったわ、と思いながらぶっ飛ばされた王子に歩み寄った。
突然の暴力に誰も動けず、静寂に王子の呻く声が響く。ジャネットは割れた陶器の散乱する中でうずくまる王子の胸倉を掴んで片手で持ちあげた。
「き、きさま……一体なんのつもッぐは!?」
ジャネットは微笑んで王子の腹に一発キメた。そこでようやく我に返った子爵令嬢が尻餅をついたまま悲鳴を上げる。
「きゃああっ!エイドリアン様っ!」
その悲鳴に他の者も我に返った。王子を取り巻いていた男子生徒のうちの何人かが儀礼剣を抜く。中には王子の護衛も兼ねた者もいたが、すでに二発ぶち込んだ後だしジャネットは素手でも今すぐ王子を殺すことくらいできる。なっていなさすぎる。
「マクレイ公爵令嬢!いったい何のつもりだ!」
彼らのうちの一人にそう問われてジャネットは黙ったまま首を傾げる。何のつもり、とはこちらの台詞である。
「うおお!」
振りかぶってくる男子生徒たちにジャネットは王子をぶん投げた。慌てて剣を下ろす彼らに近寄って、一本一本丁寧に腕と足の骨を折っていく。ジャネットは親切なので、きれいに折ってやることにした。恨まれたくもないし。
この段になるともう周囲は阿鼻叫喚のありさまで、ジャネットの暴挙に気の弱い者は卒倒する始末だった。邪魔ものがいなくなり、ジャネットはまた王子を見下ろす。
「ぐ、げほっ、何て女だ……ひいっ!」
悪態をついた王子だったが、ジャネットが一睨みするだけですくみ上った。
一方でジャネットはこれからどうしましょうと呑気に考えていた。婚約を破棄するのは当たり前だけれど、王子を更に締め上げるか、それとも愚かな娘に土下座でもさせるか。
しかし見回してみても子爵令嬢の姿は見当たらなかった。骨を折られて動けない令息たちが散らばっているというのに薄情なものだ。いや、逃げ出せるだけ骨のある令嬢ということか。
「閣下!」
静まり返ったホールに声が響く。声を発したのは二十代中頃、学園の生徒たちよりも年上の青年だった。がっしりとした体格と身に着けた濃紺の衣装が彼が軍人であることを物語っている。
「探しましたよ。……って、何をしていらっしゃるんです?」
死屍累々の現場にひょいと入り込む青年に、ジャネットはうつくしく微笑んだ。
「冤罪をかけられたから晴らしていたの」
「はあ、閣下に冤罪ですか。一体どんな?」
「わたくしがそこの男の妾を虐めていたんですって」
「そこの?ああ、第二王子殿下。お顔が変わっていらっしゃったので気が付きませんでした」
青年はけろりと応えて、顔を腫らした王子は呻いた。
「貴様、不敬だぞ……!」
「おっと、失礼いたしました。顔がパンパンに腫れている殿下を見る機会がこれまで一度もなかったものですから。あ、発言してもよろしいですか?」
ニコニコと見下ろしながら拳を握る青年に、王子は殴られた痛みを思い出したのか小さく悲鳴を上げて「許す!」と叫ぶように言った。
「許すから早くその女を捕縛せよ!この私に手を上げたのだぞ!」
「そりゃあ、ちんけな冤罪をかけたら閣下だって怒りますよ」
「なんだと!私を誰だと思っている!」
「第二王子殿下ですねえ。というか殿下、殴られてやられっぱなしだったんですか?護衛も機能していないとは嘆かわしい」
「それは……」
青年はこれ見よがしに肩を竦めたが、もちろんジャネットの実力は知っていた。学園に通っている尻の青いお坊ちゃんがどれだけ束になってもジャネットにはかなわないだろう。
「はあ、それで?何の用かしら、ルシウム」
王子を睨みつけるのに飽きたジャネットが顔を上げた。ルシウムと呼ばれた青年はそうだった、と手を打つ。
「招集がかかりましてね」
「わかったわ。行きましょう」
「待て!なんだその、招集というのは!」
まだまだ元気にわめく王子にジャネットはあと数発殴っておいた方がよかったかな、と後悔した。しかし喋る許可を得られていないので完全に無視して歩き出す。
代わりにルシウムは親切に応えてやることにした。
「おや、殿下は閣下のお仕事をご存じない?」
「仕事、だと……」
「王国第二師団の師団長ですよ。学園でのんびり過ごす暇など本来ないお方です。殿下に合わせて入学させられていますが、当然殿下の妾とやらにちょっかいを出すなんてことしてるわけありませんからね」
「ルシウム、わたくし婚約を破棄されたの。だから学園にももう通わなくていいようよ」
ジャネットがいくらか先から足を止めないまま告げる。ルシウムは朗らかに頷いた。
「それは重畳。ああ、このことはマクレイ公爵閣下にもお伝えしておきますので、安心してくださいね。第二王子殿下」
マクレイ公爵家は代々近衛師団長を務める家系だ。現近衛師団の師団長もマクレイ公爵であり、王国軍の総帥でもある。そして爵位を継ぐ前は第二師団長だった。
その軍人一家の一人娘であるジャネットも父の後を継いで師団長を務めている。そして師団長になる以上はと武術の手ほどきも受けていた。素手で熊を殺せる猛者である。
残念ながら、その事実は学園では全く知られていなかった。そもそもジャネットが学園にほぼ通っていないせいで知り合いが少なかったし、ジャネットは見かけは普通の令嬢である。マクレイ公爵家の役割を知っていても、若い令嬢自身がすでに役職を持っていると信じられなかったのが実情だ。王子ももちろん聞かされてはいたが、婚約者のことに興味がなく聞き流していた。
ルシウムを引き連れて馬車に乗ったジャネットは口を開いた。
「で?例の組織の件かしら」
「ええ。カリムが所在地を突き止めたようです」
「ご苦労。状況は?」
「押さえていますが人通りが多すぎます。夜まで待ったほうがよいかと」
「地図を見て決めましょう。セシリアは何と?」
「防壁を張ればある程度カバーできるが難しいと」
「わかったわ」
そこでようやくジャネットは肩の力を抜いて背もたれに寄りかかった。はあ、とため息がこぼれる。
「あの男、馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、あんなに馬鹿だったとは思わなかったわ。陛下に責任を取ってもらいましょう」
自分がいないのをいいことに好き勝手してくれた子爵家の娘にも相応の報いを受けさせねば。ジャネットはこめかみをおさえた。
「そうですね。しかしこれで閣下も無駄なことに時間を使わなくてよくなるとは喜ばしいことです」
「別にあの馬鹿に大して時間も労力も割いてはいないかったけれど。ああ、婚約を破棄したらまた別の労力が必要になるわ」
「婿探しですね」
第二王子の婚約はもともとそういう意図だった。軍務を担う公爵家に王族を送り込みたかったのだろう。不幸にもそれを全く理解していない馬鹿が台無しにしてしまったのだが。
「こうなったら好きな人を夫にできるように交渉しようかしら」
「おや、閣下にはお慕いされている方がいらっしゃる?」
「ええ、わたくしも年頃の娘ですもの」
つい先ほど婚約者だった男をボコボコにし剣を抜いた男子生徒たちの骨を折って再起不能にした年頃の娘はにっこりと笑みを浮かべた。そうしていると可憐な少女に見えるのがこの師団長の怖ろしい魅力であるとルシウムは思った。
「でもほら、わたくしこれでも軍人ですし、わたくしより弱いことで夫にいじけられても困ってしまうわ。師団長を妻にしてもよいという殿方などあんまりいないでしょうね」
「そうでしょうか?うちの男共はみな閣下を慕っていますから、誰でも二つ返事で了承すると思いますが」
「あら、ルシウム。あなたも?」
「ええ、もちろん」
閣下もそんな悩みを抱くのだなあと呑気に思っていたルシウムは即答した。
「それはよかったわ。ではよろしくお願いするわ」
「はい。……はい?」
ちょうど軍部に到着し、ジャネットはひらりと一人で馬車から降りてしまった。令嬢の恰好をしていても軍人であるジャネットはエスコートなど待たない。
ルシウムは目を白黒させて、ジャネットの言葉の意味をどうにか噛みくだいて顔を真っ赤にし、慌ててその後姿を追いかけた。