賑やかな旅路、或いは一睡の夢
隣町は、半日も歩けば辿り着く。飯屋の店主にそう言われて目指したものの、太陽が地平近くなっても町の影は見当たらなかった。
どこかで道を違えたか。あまり逸れるような場所はなかった気がするが。一歩行く度に暗くなる景色に、ワタシは顔を曇らせた。間食用に買った焼き菓子以外、食べる物は持ち合わせていない。前の町を昼に出立したので、夜には次の宿を見つけているはずだった。
「ツイてないですねえ……」
思わず漏れ出たため息が、独り虚しく消え失せる。
緩やかな丘いっぱいのオリーブ畑。その間を通る細長い一本道。月が満ちていれば、それを眺めて夜通し歩くのも悪くない。けれども、今日の月は瘦せっぽっちで、星も見えない侘しい夜だった。人も獣も行き交わない薄暗い夜道。自分の足音だけがざり、ざり、と単調に聞こえてくる。
行儀よく並んだ木々の間を通って、乾いた風がさあっと吹いた。ワタシは埃っぽい空気に何となく顔を背けた。淡いオリーブの香りは、馬車にでも乗っていれば心地よいものだったのかもしれない。しかし残念ながら、今はそういう気分にはなれないのだ。
いっそ開き直って、道端で夜を明かそうかとも考えた。けれども地面は固く、寝心地が悪そうで、畑の木も背を預けるには低すぎた。
つまり、二進も三進もいかないと言うことだ。結局、町が見えるのを願いながら、歩みを進める他はない。
ワタシは久しぶりの失敗にうんざりしつつ、熟れた木の実を拝借してその苦みで気分を紛らわせた。
遠くからざわざわと音がして、また乾いた風がやって来る。
すると今度は、その終わりに僅かな煙の匂いが混じっていて、ワタシは顔を上げた。煙があると言うことは、火があって、人がいると言うことだ。ワタシは風が来た方向にじっと目を凝らし、整然と続くオリーブ畑の、奥の、奥の、そのまた奥に、糸のようにか細い煙を見つけた。
***
「いやあ、ほんと! 凄い速さで近付いてくるもんですから、野犬か何かかと思いましたよ」
「あははは、ふ、ふ。それは本当に、済みませんでした。行けども行けども町が見えなくて、とっぷり夜が来てしまったので焦っていたのですよ。お二人に会えて本当に良かったです」
「確かに、町の外で夜になっては焦りますよね。おそらく、玉霊さんの行く予定だった町は途中で海側に曲がった所だと思うのですが、ここは内陸に入った道です。この辺りはオリーブの木で道だか畑だか分かりにくいので、きっと見逃してしまったのでしょう」
「なるほど。道理で着かないわけです。ここでキャンプをしていてくれて、本当に助かりました」
オリーブ畑を通る別の道。玉霊が煙を見つけて走った先に、果たして焚火が燃えていた。
道端で休んでいたのはロマと言う旅の一座だ。彼らは歌や踊り、演奏などが得意で、祝い事や祭り事に呼ばれては披露しているらしい。今もちょうど次の仕事へ向かう途中で、たまたまこのオリーブ畑を通っていた。
玉霊を焚火へ招いてくれたのが座長のルボル。残っていたスープを分けてくれたのが妻ダリナ。座員はルボル一家と他二家族で、一頭立ての四輪幌馬車二台が家代わりだ。
ルボルとダリナ以外は馬車で眠っていて、二人は不寝番をしているところだった。
「ひとまず今夜は、うちの馬車で休んでいって下さい。しばらくしたら交代で、私たちも寝ますので」
「ありがとうございます。火に当たらせてもらってますし、ワタシは外でも平気ですよ」
「まあ、そう遠慮なさらずに。荷物があって手狭ですが、冷えた地面の上で寝るよりずっと良いですから」
「そうです、そうです。酔って外で寝た翌日の体ときたら……、そこら中痛くて演奏どころじゃないですからね!」
あっはっはっは、とルボルが口髭を大きく開いて豪快に笑う。
ダリナも呆れた顔をしながら、楽しそうに笑っていた。
玉霊は彼らの旅話に暫し耳を傾け、不寝番が交代すると勧められた通りに馬車で横になった。
次の日の朝。
昨日は延々と続いて憂鬱に見えた一本道が、見違えるほど明るく鮮やかだった。
白っぽい大地、点々と生えた草。両側に広がるオリーブ畑は深く暗い緑を茂らせ、隙間を通る風に爽やかな香りを追加する。空は晴れ晴れとしていて、青い緑柱石のよう。その中を、堆く成長した雲がゆるゆると流れていく。天を仰いでも、大地を嗅いでも、清々しい気分になれた。
玉霊は夜が明けて起き揃った座員たちに紹介され、朝支度を手伝った。
寝ているときには気付かなかったが、ルボル一座は総勢十四名と馬二頭の大所帯だ。
大人たちが手分けをして食事の準備や馬車の点検をする傍ら、年長の子供たちが年少の子らの支度をさせる。眠気眼のちびっ子たちは、少し目を離すと毛布の間に戻ってしまう。それを引き留め、顔を拭き、服を着せてスプーンを持たせると言うことは、想像以上に骨が折れた。この日は珍しい客人がいたことで多少大人しかったようだが、注目の的となった玉霊は小さな手で揉みくちゃにされてしまった。
年少の子らが食事を終え、その世話が大人に引き継がれる。玉霊は年長の子らと一緒に食事を取り、そこでやっと一息つけた。崩れてしまった三つ編みを直し、鍔の上がった帽子も定位置に戻す。
「お疲れ様です、玉霊さん。手伝ってもらえて助かりました」
「みんなこそお疲れ様。毎朝これなのでしょう? 大変ですね」
「大変ですけど慣れました! それに、ヤナたちも少しずつ成長してますし。もっと小さい頃は、一人で食事が出来ませんでしたから」
「うんうん。一人で食べられるようになっただけでも、大分マシなんですよ!」
「ねー」
薬缶で茶を注ぎ足しながら玉霊を労わってくれたのは、一番年上の子供、ヤンだった。彼は歌と弦楽器が得意で、座員として演奏にも加わっている。その弟がイヴォで、彼は笛が得意だと言っていた。最近、初仕事を果たしたばかりだと言うカルラは、大きな瞳が愛らしい女の子で、その下に弟のオットがいる。オットはまだ小さいので、可愛い動きで客引きをするのが仕事だった。
ルボルとダリナの子供は、この頼れる兄二人と長女、そして元気な末っ子だ。
ヤンたちの意見に頷いてみせたのは、副座長アルトゥルの子、エリクとベルタだった。エリクはヤンより一つ年下だが、すっと背が高く見栄えが良い青年だった。ベルタは長い縮毛が美しい少女で、踊りを担当している。二人には年の離れたバーラと言う妹がいて、彼女はおてんばな年少組の一人だった。
そして、ルボル一座には年少がもう一人。別のロマから加わった若夫婦の子、ヤナだ。現時点では三歳のヤナが一番年下で、そして一番目が離せない年頃だった。
年長組五人は日々助け合いながら、元気いっぱいな年少組三人の世話をしているらしい。玉霊は先ほど見たばかりのてんやわんやの大騒ぎを思い浮かべ、それでもマシになったと言う彼らに感心した。
朝の一仕事が終わり、一座は町へ向けて出発することになった。
玉霊はルボルに掛け合って、彼らの馬車に乗せてもらう事にした。彼の旅は行く当てがあって無いような道なので、辿り着く先が変わっても何ら問題ない。ルボルたちも子供を見る大人が増え、負担が減ると喜んでくれた。
ガラガラと進む馬車の中、荷物の間に座りながら歌の練習が行われる。教えるのは副座長の妻イザベラだ。彼女の声は優しく澄んだ響きで、しかし馬車の騒音にも負けないぐらい良く通った。単調な音を出す発声練習から始まり、一定のリズムを刻む抑揚練習、歌詞をつけての表現練習。それに地域の訛りやロマ独自の言葉、海の向こうの言葉まで操って、実に多様な言語で歌を歌った。
これから向かう町では、賑やかな夏祭りの歌を披露するらしい。言葉はメモーリア南部のもので、明るく軽快なリズムだ。席にいる人たちが一緒に歌えるよう、歌詞は繰り返しが多く口ずさみ易いものとなっている。
玉霊も聞いているうちに何となく覚え、練習に混ざって歌えるようになった。
一人きりの旅路とは違い、仲間がいると遠い距離も短く思える。それは馬車に揺られ、歌っていれば猶更で、太陽が真上に来る少し前には目的地が見えた。
小さく町を視認したところで、二台の馬車は脚を止めた。
「バサが見えた! ここで準備をするぞ! 着替えろ!」
御者をしていたルボルがそう声を掛け、一座がさっと動き始める。大人や年長組は勿論、年少のオットやバーラ、一番下のヤナまで全員が着飾る。座員でない玉霊は御者台に移動し、彼らが変身するのを待った。
歌と楽曲を担当する男たちは、刺繍の入った色鮮やかなジャケット。ちびっ子は袖のないベストに、短いズボンと帽子。踊りを担当する女たちは幾重にも折り重なったスカート姿。みな腰回りにはたくさんの飾りが付いていて、それが動く度にシャラリと鳴った。
化粧を施し、髪を結い、最後に香水を振りかけて身支度が完成する。
一座の芸は町へ入る前から始まって、歌とともに依頼主の家まで行くらしい。その間、玉霊は馬車の中で荷物と同化することになった。その後は前夜祭で歌と踊りを披露し、明くる日は町を回る大仕事だ。
賑やかな音楽を奏でながら馬車がゴトゴトと動き出す。
その音に気付いた住人たちが彼らを歓迎し、馬車を取り巻きながらついて来る様子を、玉霊は荷台からそっと眺めて楽しんだ。
***
祝いの一座が足を止めたのは、間口が一際大きな家の前だった。
出迎えてくれたのはこの町の若い町長だ。彼は今年就任したばかりで、この祭事が初めての大仕事らしい。家の前で一曲披露してから挨拶をしたルボルに、やや獣じみた手が差し出される。町長は獣人、かつて疫病を治療するために呪術で獣と融合した人間の血を引き、その見た目に猫の風合いが混ざっていた。
「マラビジョッソ! ようこそバサの町へ! 遠路はるばる、誠にありがとうございます! 噂に聞いたとおりの素敵な舞ですね! 私が町長のセリオです。こちらが妻のアダ。そして……ああ、いや、ひとまず、我が家へ入って頂きましょう。馬車は庭へ入れておきます。お寛ぎいただく部屋もご用意しておりますので、そこで祭についてのご説明を。ささ、どうぞ、どうぞ」
「手厚い歓迎ありがとうございます。私が座長のルボルです。この度はどうぞ、宜しくお願い申し上げます」
「ええ、ええ、こちらこそ、宜しくお願い致します!」
人のような耳ではなく、頭部に生えた三角の耳がぴこぴこと跳ねて喜びを示す。長い洞毛こそないものの、青い瞳と顔の中心だけが黒っぽい肌はシャムネコのようだった。
町長の使用人に馬車を預け、ルボル一座は屋敷に入った。玉霊もひらりと荷台から飛び降りて、仲間のような顔つきで入っていく。家は四角く中央に広い庭があり、一階の大きな部屋が客間として整えられていた。
セリオに勧められ、座長のルボルが席に着く。他の座員は後ろに並び、玉霊もその端に立った。
「改めまして、私はセリオ・カラスキージョ、この町の長です。この度は我らの祭に花を添えて下さり、ありがとうございます。バサの夏祭りは、先祖に町の平穏無事を報告する大事な行事です。町を飾り、祭壇に供物を捧げ、歌と踊りで我々が幸せに暮らしていることを伝えます。今日の前夜祭では、広場に設置した祭壇前で演奏して下さい。我々が幸せに栄えていることを示す内容でお願い致します。
それから、明日は一日かけて、町を回っていただきたいと思います。この夏祭りは町全体が楽しく歌い、踊ることで、天国にいらっしゃる先祖へ我らの幸福な姿を届けることが重要です。なので日があるうちは一周、二周と、何度も練り歩き、我らとともに楽しんでいただきたいのです。勿論、途中でお食事などの休憩は取っていただいて構いません。明日は町中に屋台が出るので、お好きなところで、お好きな物を食べてください! 皆様の飲食はすべて我が家付になるよう手配しておりますので、どこで何を食べていただいても結構です!」
若い町長はにこやかな笑顔と大きな身振り手振りで、祭事の概要を説明した。要するに、ルボル一座は夏祭りの盛り上げ役という事である。
定型通りの話が済むと、町長は最後に玉霊の方へ視線を向けた。彼だけが衣装を着ておらず、どう見ても座の一員ではないからだ。そもそも顔つきが東国風で、この辺りの人間とも思えない。青い瞳が説明を求めるようにルボルへ向けられたので、彼は立ち上がって玉霊を呼び寄せた。
「ご紹介が遅れました。彼は、道中で知り合った東からの旅人です。広いオリーブ畑の道を迷われていらっしゃって。この町までご一緒したところです。各地の行事や文化に興味があるとのことなので、出来ればお祭への参加をご了承いただきたいのですが」
過不足ない言葉でルボルが取次ぎ、玉霊はそれに合わせて一礼した。
事情が分からない間は不気味な感じがしたが、なるほど、紹介されてみれば笑顔の涼やかな男である。黒い長髪はきれいに編み込まれ、少し吊り上がった目元は知的な印象。大きな花が刺繍された東の装束は、すらりと伸びた背格好によく似合っている。
何より彼の声色は胸にスッと入り込んで甘く解けるようで、相手の不信感を瞬く間に消し去った。
「お初にお目にかかります。玉霊、と申します。東国で呪術を商いとしていた者です。バラクスの町から歩いていたのですが、途中で道に迷いまして。ルボルさんたちに助けていただきました。この町の御祭を、ぜひ見学させて下さい」
「ほう! 呪術師様ですか! それも、東と言えば呪術発祥の地ですね! それはそれは、是非、我が町の祭を見ていって下さい! ああ、それに、宜しければ厄除けの護符や、豊作祈願の紋様などを書いては頂けないでしょうか? 実は、こうして外の方を招いて祭をするのは初めてなのです。賑わいが嬉しい反面、外から良くないものが入ってこないかと、心配する町人もおりまして。町の入り口に魔除けをいただければ有り難いのですが」
「ありがとうございます。それでは、後ほど書いてお持ち致しましょう。町の形や、通りの数などを教えていただけますか?」
「ええ、勿論! 嬉しいです! 私の書斎に地図がありますので、移動致しましょう。……ああ、ルボルさんたちは、時間になりましたら使用人が呼びに参ります。それまでどうぞ、ご自由に。必要な物がありましたら、何なりと」
「ありがとうございます」
こうして挨拶を済ませた玉霊たちは、それぞれに準備をしながら夜を待った。
十字に広がった町の中心。今日明日は祭の中心ともなる大広場に、祭壇が設置されていた。一番上には祖先を象った像が置かれ、その下に花や果物、酒などが供されている。月は昨日と変わらず痩せぽっちだったが、いくつもの松明が焚かれた広場は昼のように明るかった。
人々が集まり、町長が最初の言葉を述べ、形式的な儀礼が済んだところでルボル一座が登場する。祭壇の前に立ったのはダリナとベルタだ。二人は正面に一礼、そして観客にも一礼すると、長い襞のあるスカートを花びらのように咲かせながら踊り出した。
広場に敷かれたタイルを叩く軽い足音だけが、タン、タ、タンッ、と静かに響く。大輪の花が咲いたり、閉じたりしながら大地を舞う。その無音で熱気のある舞が人々の注目を集めたところで、二人の動きがピタリと止まって曲が始まった。
天まで届くような歌声が、町の広場から端の端にまで響き渡る。踊りに目を奪われていた人々は、今度はその美しい旋律に耳を奪われ、皆息を呑んで演舞を見守った。先人たちの偉業を讃え、今この地が栄えていることが、朗々と歌われる。繰り返し感謝が述べられ、人々が幸せであることが告げられる。
歌詞が一通り巡ったところでダリナとベルタが再び踊り出し、素晴らしい盛り上がりの内に舞が終わった。
割れんばかりの拍手や歓声が沸き上がり、その様子を見たセリオがほっと胸をなで下ろす。若い町長の、革新的な試みがまずは成功に終わったのだ。彼はそこですかさず前へ出ると、ルボル一座に改めて礼を述べ、拍手を送った。
それから座員は一段高い舞台に上がり、歌と音楽だけを演奏した。広場は町の人々に明け渡され、皆が思い思いに体を揺らした。今し方見たダリナたちの踊りを真似る若者がいれば、昔ながらの振り付けを踊る年配者もいる。既に酒で酔い始めた千鳥足の踊りも、子供たちの可愛らしい踊りもあった。
玉霊は誰も知り合いがいなかったにも関わらず、あっという間に場に馴染み、振りを教えてもらったり、酒を飲んだりしながら一夜を明かした。
前夜祭の翌日。
初日から大いに酒や踊りを楽しんだ玉霊は、町長宅の心地良い寝床で目を覚ました。外では既に人々の動く気配があり、今日の準備が進んでいるようである。玉霊はそれを聞きながら、たくさん重ねられた敷布の上でぐうっと伸びをした。
話によれば、今日はいろいろな出店が通りに揃う。玉霊はそこでどんな物が見られるだろう、と期待に胸を膨らませながら部屋の外に出た。
顔を洗って、水を飲み、瑞々しいぶどうを一房つまむ。
そこにルボルがやって来たので挨拶をすると、彼からは思いがけない言葉が返ってきた。
「ヤナを見かけませんでしたかっ?」
「え、ヤナちゃんですか? いいえ、知りませんが」
明るい会話で始まると思っていた一日が、ふいに陰る。
ルボルはもう支度が済んでいて、今からでも町へ出られそうな格好であった。それなのに、焦った様子で一番若い座員ヤナを探していたのだ。
「見当たらないのですか?」
玉霊は状況に合わせて心配そうな顔をしてみせた。
「ええ、仕事のときにふさげたりはしない子なのですが……、どうにも、姿が見えなくて」
「外へ出たりは?」
「しないと思います。まだ、化粧をする前だったので…」
ルボルはそう答える間にも部屋の隅を見て回ったが、小さな影を見つけるには至らなかった。どうやら、ヤナは支度の順番待ちをしている最中に消えてしまったらしい。
ルボルについて庭に出ると、座員や町長たちが一ヵ所に集まり酷く狼狽えていた。
「あ、座長ッ! ヤナが! ヤナが攫われましたっ!」
「なにっ?」
叫び声を上げながら転がるように駆け寄ってきてきたのは、ヤナの父ミハルである。その手には一枚の紙切れが握られていた。
ルボル一座が祭への参加を取り止めて出て行くこと、ヤナを迎えに座長と町長が町はずれの林まで来ること。身代金の額。小さな手形。宛名も差出人も書かれていなかったが、それは確かに脅迫状だった。
ヤナの両親が、我が子を助けてくれと座長に縋る。
しかしその座長の腕に、若い町長も見捨てないでくれとしがみ付いた。
「この金額は私が工面しましょう! 指定の場所にも行きます! ですが、どうか、どうか出て行くことはしないで下さい! この夏祭りは、バサの町が変わる第一歩なのです! これを失敗する訳にはいかないのですッ! どうか興行を続けてください!」
「座長ッ、ヤナを!」
「祭を!」
「う、うううん……」
ルボルは両側から激しく懇願され眉間に皺を寄せた。
座員を助けたいのは勿論だが、町長の頼みも無下には出来ない。身代金は大した額ではなかったが、ここで路銀を稼げなければ、次の仕事まで生活が続かないのだ。ヤナを助けられても、それだけでは駄目なのだ。
祭の時間が迫っている。
迷っている暇はない。
「…町長さん、この町の衣装を貸してください。この町の服を着ていれば、きっと人混みで私たちだとは分かりません。アルトゥル、それで町へ出て踊ってくれ。服が変わっても、俺たちの演舞は人を楽しませることが出来る! 馬車は町から出して、俺たちが出て行ったように思わせよう! 町長さん、人手を貸してください。俺たちの恰好をして、馬車を移動させて欲しいんです。それから町はずれの林へ! どうか、これでお願い致します!」
「分かった」
「ああ……ありがとうございます! 直ぐに準備をしましょう!」
ルボルは思いつく限りの手を打ち明け、町長に協力を求めた。これで相手の裏をかけるかは分からないが、それでも両方を取るにはこうするのが最善だと思った。一番の問題はヤナをすんなりと返してもらえるかどうかだったが、こればかりは行ってみなければ分からない。
皆が大急ぎで支度をし、馬車が出発し、副座長たちが町へ出る。
不安で気が動転している若夫婦は、ダリナと一緒に屋敷に残った。
ルボルとセリオが、意を決して林へ向かう。
そこで、今まで人々の目に入ってこなかった玉霊が突然顔を出し、正方形の紙切れをミハルに渡した。どうやら呪符のようで、丸く紋様が入っている。だがそれがいったい何を意味するのか、彼にはまったく分からなかった。
「あの、これは?」
「お守りです。大事に、長椅子の上にでも置いておいて下さい。大丈夫。ワタシも、ヤナちゃんとはお友達ですから。彼女が無事に戻るよう、尽力しますよ」
「ありがとう…ございます……」
優しいとも、妖しいともつかぬ黒い瞳が、ただニンマリと弧を描いていた。
指定された林は町を出て少し歩いた先だった。ルボルはヤナのことが心配で、セリオは祭の成否が気がかりで、それぞれに気を揉みながら歩いていた。
二人の足取りは当然のように重い。
だが、その後ろについてきた玉霊のそれは、散歩のような気軽さだった。
「あの……玉霊さん…?」
そもそも、手紙で指名されたのはルボルとセリオの二人だけである。
玉霊は完全に部外者で、どちらかと言えばいないで欲しかった。下手に相手を刺激すると、ヤナの身が危ない。二人より三人の方が心強いが、ヤナの安全が第一だった。
しかし、そんなルボルの心が分からないのか、玉霊は飄々としていた。
「ご心配なさらずに。邪魔はしませんよ。ワタシの姿は、向こうからは見えないようにしてありますので。昨日、町長さんにお渡しした呪符はまじない程度のものですが、これこの通り、実戦的な呪術も心得ておりますので」
「…はあ……」
にこにこと独特の笑顔で話しながら、玉霊は胸元にかけた一枚の札を指した。それには確かに呪術的な紋様が描かれているが、ルボルたちには何の意味だか分からない。
そうこうしている内に林の入り口に着いてしまい、結局、玉霊は帰らなかった。
「ここが指定された場所です」
セリオは木々の間に消える小道の前に立ってそう言った。
なるほど、その辺りだけ背の高い木が乱立し、鬱蒼とした林になっている。中は見通しが悪く、悪事を働くにはうってつけの場所だった。本当にヤナがいるかどうかは、入って確かめなければ分からない。
ルボルとセリオは意を決して中に踏み入った。この薄暗い茂みのどこかに、ヤナを攫った犯人がいる。二人は注意深く目を凝らして歩き、林の中を奥へ奥へと入っていった。
枝を踏む音にドキリとする。
鳥の羽音に心臓が飛び跳ねる。
そうして林の入り口が見えなくなるぐらい踏み入った所で、ついに人影が現れた。仮面をつけた男が数名。その内の一人が、片手にナイフを、もう片方の手にヤナを掴んでいた。
彼女は猿轡を噛まされて、叫ぶに叫べない状態だった。
目元が赤く腫れている。
ルボルはずっと慎重に行動をしていたが、それを見た瞬間にカッと熱くなった。
「その子を離せ! 金だ! バサを出て行く準備もした! これで満足だろうっ? 頼むからヤナを返してくれっ! その子に酷いことをするなッ!」
思わず踏み込んだ一歩がばきりと枝をへし折る。ルボルはその音で我に返り、殴りかかりたい気持ちを抑えて金の袋を掲げた。
だが、男はヤナを離さなかった。
それどころか、語気を荒げたルボルを気に留める様子すらない。
彼らの目はその後ろにいる、セリオただ一人を注視していた。
「おい、良いのか? 町長さんよ。バサを革新するための第一歩だったんだろ? この祭が。……ハッ、何が開かれた町だ。何が発展だ! こんな部外者を大勢引き込んで! バサの伝統を足蹴にしやがって! バサの祭は、ずっとバサの人々の手だけで成してきたのに! 余所者が混ざった儀式なんぞクソくらえっ! お前みたいな若造が町長になったのが間違いだったんだ! どうせ裏で金でも配ったんだろう? そうでなけりゃ、お前みたいなヒヨッコが、人崩れの獣人なんかがバサの町長に選ばれる訳がないんだ! お前みたいなのが町長だなんて認めねえっ! あんな祭だって認めねえっ!お前を殺して、古き良きバサを取り戻すんだ! 死ねっ、クソ野郎ッ!」
「なっ…、ひいッ……!」
仮面の男は一頻り町長を罵ると仲間に合図を送った。手に刃物を持った男たちが一斉にセリオに飛びかかる。セリオはまさか自分が狙われているとは考えてもみなかったので、予想外の展開にルボルを置いて逃げ出した。
木々に隠れて、町長の後ろ姿があっという間に見えなくなる。
ルボルはしばし呆然としていたが、直ぐにヤナのことを思い出し、残っていた仮面の男に突っ込んでいった。
もう、どうにでもなれ。我が子同然の仲間が助かればそれで良い。
そんな決死の覚悟で、ナイフを持った腕に飛び掛かろうとした。
しかし、男のナイフは彼が奪うよりも先に宙を舞い、ヤナの体は彼が掴むよりも先にふっと消えた。
何が起きたのか分からない。ルボルも、仮面の男も目が点になり、ただ一人、玉霊だけが笑みを湛えていた。
「ヤナちゃんはもう大丈夫ですよ。今、ミハルさんたちの所へ送りました。後はセリオさんを回収して帰りましょうか」
「えっ……?」
「な、何だお前はっ? どこから、…ウぐッ!」
捕まえていたはずの少女が消え、男は驚きながら闇雲に腕を振るう。しかしそれはあっさりと避けられ、代わりに蹴りを食らって気絶した。
行き場を失ったルボルの拳が迷った末に下ろされる。
玉霊はまったく平然とした様子で、セリオが逃げて行った方向を指さした。
「ルボルさん、行きましょう。町長さんも助けないと」
「…あ、ああ……」
まるで白昼夢でも見ているかのような気持ちだった。ルボルの知っている呪術とは、まじないの類で、奇天烈な術でも小さな火を起こしたり、そよ風を吹かせたりする程度のものだ。それが札、ヤナが消える直前に彼女に貼られた一枚の紙切れで、人を消せるなど想像だにしなかった。それに大の男をすんなりと倒した身のこなしも、とても一介の呪術師とは思えない。いったい、彼は何者なのか? 自分はいったい何を見ているのか?
今の今まで何の疑問も持たずに一緒にいたが、玉霊という名前と呪術師であること以外、彼について何も知らなかった。
得体の知れない寒気がルボルを包む。
そして彼は逃げ惑う町長に追いつくと、またもあっさりと男たちを伸し、何事もなかったかのように町へ戻った。
***
「それでは、私たちはこれで」
「ありがとうございました。お世話になりました」
「…こちらこそ」
バサの夏祭りが無事に終わった明くる朝、ルボル一座は早々に町を出て行った。
ワタシは宜しければもう少し、と旅の同行を打診してみたが、それは即座に断られてしまった。ヤナちゃんの一件以来、ルボルからの視線が変わり、そのまま降られた形である。他の座員たちは篤く別れを惜しみ、歌を歌ってくれた。ちびっ子たちは馬車の荷台から身を乗り出し、元気に手を振っていた。
賑やかで楽しいひと時だった。
一座がいなくなってしまったので、ワタシも町長の家を辞して一人旅に戻った。
ひとまずは隣の町を目指す。今度は駅馬車に乗り、オリーブ畑を彷徨うことは回避した。
ガタゴトと車輪の振動が尻に響く。
昨日の名残りか、気のいい老人が酒を開け、一口ずつ回してくれた。
外はどこまでも深い緑が広がっている。何十本も何百本も並ぶオリーブの間に、点々と農夫たちの頭が見える。この沢山のオリーブはどこへ行くのだろうか。これだけ広いのだから、きっと油を搾ったり、塩漬けにしたりして、方々へ売っているに違いない。海を経由して、帝都の方にも出しているだろうか。
晴れた空を眺めているうちに、青い海が脳裏に浮かんできた。
西の海には友がいる。
「……油漬けの魚…」
ワタシはゴトゴトと馬車に揺られながら、次の手土産をそう決めた。
2020/9/5