Inheritance
自然と目が覚めた。
窓から差し込む昼下がりの光が、閉じた瞼の裏でちらついて眩しい。そよ風が鼻先をかすめ、浮き上がった毛先が頬にあたってくすぐったい。一つ一つの小さな刺激が、私を目覚めさせてくれたのだ。
うっすらと目を開けると、水の中から世界を覗き見るように視界がぼやけた。
「ここ、どこ?」
世界が輪郭を帯びずとも、自室でないことはわかる。私の部屋は薬品のにおいはしないし、白い壁で覆われてもいない。
窓の外からサッサッ、っと一定のリズムが聞こえてきた。この軽い音は箒の音だ。誰かが庭を掃除しているようだ。その音で私の関心は部屋の外側へ向いた。外を見れば、ここがどこかわかるかもしれない。
寝返りを打とうとしたが、全身に力が入らなかった。「くぅ」なんて情けない悲鳴が零れて、肩に張った力が抜けていく。
体が重く、意識もはっきりとしない。これでは起き上がることなどとても無理だ。
けれど、視界は徐々に戻ってきた。床の木目に映った木の影が見える。窓の外には木が生えているようだ。
首に力を込めると、なんとか頭だけは動かせた。これなら窓の外を見ることくらいはできるだろう。首を伸ばして外の様子を伺おうとした時、ドアが開く音がした。反射的に音のしたほうへ目を向けると、エドワードが立っていた。
見知った人の顔を見て、ひとまずホッと胸を撫でおろす。
エドワードは私を見て目を大きく見開いている。元軍人で肝の据わった彼らしからぬことだが、よほど驚いているらしい。驚いたのはこちらの方だ。女の子の部屋にノックもなしに入るなんて。
「おはよう、エドワード。ノックくらいして」
そう言った私を見て息をのんでいる。
「変な顔してるわよ」
あまり見る機会のないエドワードの動揺に可笑しくなった私は、思わず笑みをこぼしそうになった。悟られぬよう口元を手で隠そうとした時、指が包帯に触れた。掌で頬に触れてみると、私の顔一面に包帯が巻かれていることがわかった。
「なに、これ。あっ」
よく見れば手も包帯で覆われている。
どうして包帯なんて。大怪我をしたわけでもないのに、怪我ならノエルの方がーー
その瞬間、筆舌し難い頭痛に襲われた。太い錐で頭蓋の奥まで貫かれるような激しい痛み。それと同時に、あの夜の記憶が蘇った。
これまで聞こえていなかった風のざわめきや、雨の音がうるさいほどに鼓膜を刺激する。夜の闇と水飛沫の中、私はそれと対峙していた。地下室から飛び出した黒い影が、ジッとこちらを見ていた。記憶の中で雷鳴がとどろいた。雷光の明滅があまりに眩しく、目を閉じたところで体を揺さぶられていることに気づいた。
「コゼット! しっかりしろコゼット!」
エドワードのごつごつとした手が肩にある。
「エドワード、私はーー影が、雷が鳴って、ノエル。ノエルはどこ?」
私は自分の体を抱いて震えていた。
「落ち着け。自分の名前を言ってみろ」
「コゼット・・・・・・バルヒェット」
「母親と父親の名は言えるか?」
「・・・・・・もう大丈夫、落ち着いた」
エドワードの手を払い、無理矢理に体を起こした。鮮烈な記憶から帰ってきたためか、精神は極限まで昂っている。体の重さなど吹き飛んでしまったようで、先ほどよりは動くことができる。
足を床につけたところで、咎める声と共に手が差し出された。
「無理をするな、とても動ける体じゃない」
「うるさい、ほっといて」
苛立ちから意地を張ったが、生まれたての小鹿のようにガクガクと足が震えた。これが自分の足であることが信じられない。目端に涙を浮かべ、唇をかみしめて耐えた厳しい訓練。手に入れたはずの引き締まっていた太ももは、ケーキのスポンジのように脆く感じる。
「動きなさい」
太ももを拳で強く叩いて血管を刺激する。なんとか立ち上がって歩くことはできたが、感覚がおぼつかない。特に左足が酷く、引きずらなければ歩けなった。
ドアから外に出ようとしたら、壁掛けの鏡に全身が映っていることに気づいた。レース編みが施されいてる、白い木綿のナイトガウンを着させられていた。そこから出ている腕や足、果ては首から顔までは包帯が巻かれている。
「まるでミイラね」
自嘲めいた笑みがおもわず零れた。
「全身やけどを負っていたんだ。当然の処置だろう」
エドワードの一言に記憶が再び蘇る。
雷に打たれたことを覚えている。大気を震わせるほどの爆音は、そうそう忘れられるものではない。思い出すだけで背筋があわ立つ。
「こんなにぐるぐる巻きにしてくれて。怪我の状態はひどいの?」
「発見された時は全身が炭のように真っ黒だった」
「炭、ね」
エドワードの歯に衣着せぬ物言いは、かえって私を落ち着かせた。これほど包帯で巻かれているということは、よほど醜い容姿となり果てたのだろう。遅かれ早かれ、いずれは見ることになるのならいっそ今の方が――
「おいおい」
エドワードの静止を無視し、顔に巻かれていた包帯をむしり取った。
鏡に映る顔を見た私は、息をのんで押し黙った。
爛れた皮膚が現れるかと思いきや、そこには以前と変わらない自分の顔が映っている。指先で頬に触れてみたが、きちんと弾力もある。肌はむしろ以前よりも綺麗になっているような気がする。
「どういうこと?」
冗談を言うにしても、これは嗤える類のものではない。私はエドワードを睨みつけた。
「俺だって信じられんさ。落雷で枢機卿の屋敷が火事になってな。火の煽りを受けたお前は酷いやけどを負っていたが、今は元通りだ」
そんな馬鹿な話があるものか。火傷を負った者の肌がどのようになるかなど私でも知っている。皮膚がこのように回復することなどあり得ない。エドワードは私をからかっているのだ。
「大した怪我でもないのに包帯なんて巻いて。私のコートは? あるでしょ」
エドワードが視線を向けた先に、備え付けのクローゼットがある。苛立ちながら扉を開け、目についたコートをつかみ取ってドアの外へ出た。
私が歩くと、そのあとをゴツゴツとした音が続く。義足と杖の音を響かせて、エドワードが無言のままついてきているようだ。
「ここは病院?」
「そうだ」
「私はどれくらい眠っていたの」
「かれこれ1か月だな」
「もう十分寝たわね」
もつれそうになる足を必死で動かした。少し歩いただけなのに、疲労で頭が重くなる。眠気が瞼の上に重くのしかかり、視界が揺れ始めた。休息を求める体を叱咤し、フラフラになりながら歩いていくと、廊下の突き当りに一階へと続く階段があった。手すりに掴まりながら、木製の階段を下りていく。私が板を踏む時はおとなしいが、後ろに続くエドワードが踏むとギイと軋む音がする。
ギイ、ギイ、ギイ、と。あの時の音が聞こえてくる。
「ノエル」
ノエルのことを考え、思わず思考が停止した時だった。一瞬だけ意識が途切れ、足を踏み外してしまった。見えていた景色が急に傾いた。手すりに掴まろうとしたが、今の私の握力は赤子にも劣るだろう。体が傾き、階段の板が目の前に見えた時、腰のあたりをぐっと掴まれた。
「愚かな小娘だ」
倒れかかった上半身が引っ張られ、気が付くとエドワードの腕の中にいた。彼は戦地で片足を失い、杖なしでは歩行できない体でありながら、不安定な足場の階段で軽々と私を抱きあげた。老齢の割に筋骨猛々しいためか、単に私が軽すぎるのか。驚いて目をしばたたいていたが、すぐに羞恥と屈辱の念が沸き上がった。
「降ろして」
「馬鹿が、何を意地になっている」
「エドワード」
「睨んでも少しも怖くないぞ。それに、すごむのなら額の冷や汗を拭ってからにするんだな。今は意地を張る時ではない。ほら、どこへ行きたいのか言え」
「病室に連れ戻すんじゃないの?」
「それが無駄なのは知っている。ならば一緒に行ったほうがいい」
「・・・・・・屋敷へ。ノエルの家に連れて行って。お願い」
「わかった」
体からはすっかりと力が抜けていた。意地を張り続けることにも疲れた。ただ黙って、エドワードに身を預けていればいい。
エドワードは誰に咎められることもなく、しれっとした顔で病院を出た。そうして待たせておいた馬車に私を乗せ、目的地を告げた。
席に座ると、重い疲労が肩にのしかかってきた。くたびれて、今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうで、気が付けば壁に頭を預けてしまっていた。前の席に座るエドワードが呆れて嘆息している。
「ごめんね、エドワード」
「かまわん」
「そうじゃなくて。あの、夜のこと。黙って抜け出してごめんなさい」
「・・・・・・優秀すぎるというのも考え物だ。警備の目を盗んで抜け出すとは」
「警備は? クビになっちゃた?」
「俺を含めてクビにはされていない」
「よかった・・・・・・お父さんとお母さんは?」
「トーマスは仕事が忙しくて見舞いに来ていない。お前のかあさんは――まあ、しばらく会わないほうがいいと思う」
「また大暴れしたんでしょう? 夜中に家を抜け出して、怪我して入院するような子供を罵ったんでしょう?」
「・・・・・・とにかく、しばらくは会わないほうがいい」
肩を竦めたエドワードは、それから何も言わなかった。
気を使わなくたっていい。母に嫌われているのは知っているし、今更なんとも思わない。
窓の外は快晴だった。澄んだ空気で満たされ、どこまでも青い空。淡い色の空を鳥が飛んでいくのが見える。
どうして世界は、こんなにも美しいのだろう。ノエルのいない、この世界はどうしてこんなにも。
あの豪勢な邸宅は今や見る影もなかった。
赤レンガの壁と白い屋根は焼けて黒く変色し、鏡のように磨かれていた窓ガラスは砕け散っていた。風が吹く度、邸内は軋むような嫌な音を立て、窓辺からは塵のようなものがパラパラと吐き出されていた。
あたりは午後の穏やかな陽気に包まれている。火事などなければ、この庭園の芝生は日差しを受けて輝いていたはず。真新しい館だって――きっとそこでノエルは、陽気に過ごせたはずなのに。
雷が落ちなければ。
いや、違う。あの母親のせいだ。行き過ぎた宗教観を娘に押し付けさえしなければ。
私が、助け出せていれば。
私は泣きたくなった。理不尽に友を奪われた歯痒さと、自らの無力さが許せなかった。
こんなにも寂しい場所で、ノエルは生涯を終えたのだと思うとやり切れなかった。
無邪気に私の手を引き、密やかなるものを共有し、笑いあった大切な友達。その彼女は大雨の夜に地下室で果て、肉体はこの家と共に灰となり、魂はあるべき場所へと還っていった。
「夜中の火事でな、ほとんどの人は火にやられた。お前の友達もな」
エドワードの言葉は茨となり、私の胸に突き刺さった。あの夜に轟いた雷が再び蘇る。戦いて後ずさりをすると、炭の塊を踏んだ拍子に尻もちをついてしまった。
「ああ、ノエル」
自らを叱咤するのに精いっぱいで、瞳から零れ落ちる涙を拭う暇はなかった。私は思うままに生きるため、訓練を積んできた。大切な友達一人守れなくて、なんのための訓練か。
「それ見たことか。まだここへ来るのは早い、心が持たんだろう。病院へ戻るんだ」
後ろにいたエドワードが手を差し伸べている。振り向いた私は、あるものに釘付けになった。ごつごつとした皺だらけの指の隙間から、イチイの木が見えていた。
その時、庭内に風が吹き抜けた。あおられた芝草は黒焦げになった先端を一斉に木に向ける。灰の臭いを孕んだ風が白いナイトガウンの裾を翻し、背中を押すようにして流れていく。
呼ばれている気がした。
私は立ち上がり、足を引きずりながらイチイの木へと向かう。
『庭のイチイの木。その根元に鍵を埋めた』
ノエルがそう言っていたのを思い出し、心がさざ波だった。
『あの鍵は魔法に繋がってる。あれを託したいの。もしもの時はきっとコゼットを守ってくれるの。鍵だけ持って行って』
途中で何度も転んで、顔が泥と煤だらけになった。涙に顔を歪ませながら、ノエルの言葉に縋ってよろめき歩いた。大きなイチイの木が葉をざわめかせて私を呼んでいる。庭園にまで燃え移った火災であったが、この木は悲劇に見舞われていなかった。力強く佇み、天井から黄金の木漏れ日を降らせていた。
やっとの思いで木の根元までたどり着くと、さっそく両膝をついて土と向き合った。土の中に指を入れて掘り返す。見つかるまで手当たり次第に掘り返してやろうと思っていたのに、それはあっけなく見つかった。掘り返した土の臭いがした時、指先に何かを感じた。両手ですくい上げるようにして、何かを引っ張り上げる。
金色のチェーンの先に、青銅の鍵があった。最後にノエルとあった日、彼女の胸元にあったものだ。
「ノエル・・・・・・隠したのね、大変だったろうに。捨ててしまうこともできたはずなのに」
親指と人差し指でカギをつまみ、木漏れ日に掲げてみた。光を浴び、宝物のように光るそれはノエルが最後に残してくれたもの。他でもない私にくれたものだった。
「どうして私にくれたの? ねえノエル、この鍵はなに?」
私はそれをかき抱き、蹲って泣いた。
なぜか、初めて見たノエルの笑顔が思い出された。前歯を覗かせ、目を細めて笑う姿が、とても可愛らしかった。つられて私も微笑むことができた。これまで一人ぼっちだったのは私だけではない、ノエルもそうだったから私たちは惹かれ合ったのだ。初めてできた本当の友達。
「あんたが私に残してくれたもの。これがなんなのか、絶対に突き止める」
涙声で述べた誓いの言葉。
土の臭いの上を爽やかな風が吹き抜けていく。一瞬だけ木の葉がざわめいたが、それきりしんとなった。もう風は吹かなかった。