Dark Road
皇歴 1798年 首都オーゼル 宮廷内のアカデミーにて
コゼット・バルヒェット
ノエルが私の家から去って二日が経った。
先生が本を手に熱弁を振るっているが、内容はまるで頭に入ってこなかった。隣の席は空で、窓から差し込んだ陽ざしは誰もいない椅子を照らしている。ノエルは今日もアカデミーに来ない。
体調不良でしばらく休学。ライプニッツ卿からアカデミーに届けられた文書にはそうあったという。昨日の帰り道、馬車に乗り込む前に御者に頼み、ノエルの家へ寄ってもらった。約束もなく、突然やって来た私を、メイドたちは丁重に迎え入れてくれた。思った通り、バルヒェット家の者が「お見舞いとご挨拶も兼ねまして」と、訪ねて来れば無下にはできないのだ。
分厚い絨毯と天井から釣り下がるシャンデリアに、座り心地の良いソファ。通された応接間は、私の城のものと変わらないほどに豪勢な作りだった。枢機卿という立場であれば、高貴の人も招き入れなければならない。彼らの中には、何もかもが豪勢でなければ侮蔑と嘲笑を浮かべる者もいる。そのための処世が、ありありと浮かんだ部屋であった。
しかし、ここは本当にノエルの家なのだろうか。彼女が私に見せた全てはここで育まれたとは思えない。むしろ、吸いとられてしまいそうな。
何かがおかしいと感じる。居心地の悪い空気が屋敷全体に溢れている。
座り心地の良いソファに背筋を伸ばして座っていると、間もなくノエルの母が現れた。
「お待たせいたしました。初めてお目にかかります、ベルト・ライプニッツです」
「コゼット・バルヒェットです」
私たちは互いに挨拶を交わした。
「突然お邪魔しまして、失礼いたします。友人であるノエルが体調を崩されたと伺いましたので、アカデミーの帰りに寄らせていただきました」
「ご足労、痛み入ります。あなたのことはノエルから聞いていますよ。どうかいつまでも娘と仲良くしてあげてくださいね」
「ノエルは、会えますか?」
「先ほどようやく眠ったところです。せっかくですが、本日の所はお引き取りを。あなたが来たことはノエルに知らせておきますよ」
ノエルの母は口では笑みを浮かべていたが、冷酷な目をしていた。目を光らせ、私の体を隅々まで観察しているようだ。
「では失礼いたしますわ。またの機会に」
「ええ、ごめんなさいね」
帰ることを告げるとノエルの母、ベルトは偽りではない笑みを浮かべる。聞き分けの良い私へ向けて出た、一瞬の心の綻び。それを見落とす私ではない。なぜ私が帰ると言った途端に安堵する?
ノエルは病気などではない、この屋敷のどこかに監禁されている。
「また是非いらしてね」
「はい、近いうちに。この次は手土産を持って来ますわ」
「まあ、楽しみだわ」
私の言葉にベルトは笑っている。
今日ここへ来たのは、ノエルに会うためではない。建物内部の構造を可能な限り頭に入れるためだ。
私はベルトに微笑んで別れを告げ、帰路についた。
今日。もしかしたらと思ったがやはりノエルはアカデミーに来なかった。
コゼット、そう呼び掛けてくれた声を思い出すと、彼女の訴えが蘇った。
二日前。うちに泊まりに来たノエルは、魔法のことを調べていたことが両親にバレたら殺されると言った。あの時は冗談だと思っていた。けれどあの背中の焼き印。意味あり気なベルトの冷笑。
私の予感が正しかったとしたら。アカデミーに来ないのではなく、来られないのだとしたら、もう時間がない。
ノエルの無事を確認し、もしもの場合は救出する。その手段を考えなければならない。
常套手段は警察に相談し、ノエルの安否を確認してもらうことだが、恐らく彼らは役に立たない。絶大な権限を持つ巨大宗教、その枢機卿であるノエルの父は権力を持っている。警察の追従など小虫を払うよりも容易なはず。それに警察は信用できない。いつだかお父さんが嘆いていたのを耳にしたことがある。安い賃金で働かされる鬱憤晴らしに、賄賂を受け取ったり、裁判前の容疑者へ暴力を振るったりとする人たちだ。そんな人たちに何ができる。
ではアカデミーの先生はどうだろう? それとも、うちの両親に頼んでみるというのは? そのようにして様々な方法を考えたが、どうやってもノエルの父が枢機卿というのがネックになる。目には目を、ということで他の枢機卿に助けを求めることを考えたが、嘆願書を送っても目通りが叶うには数日を要するだろう。
もう時間がないし、誰も頼れない。やはり、私がやるしかない。
だって私は。私はノエルの友達だから。
きちんと作戦を練れば、一人でもできるはずだ。
どうせ聞いても頭に入らない授業など、聞いているふりをするだけでも無駄だ。紙とペンを取り出し、ノエルの家へ潜入、救出までに至るあらゆる可能性を書きだしていく。考えられる限りの障害を書き、それを排除するための方法を編み出し、一つ一つ消していく。
アカデミーが終わり、帰路につく馬車の中でもペンを走らせて作戦を練った。
ノエルの家までは辿り着けるが、問題は内部に侵入してからだ。昨日確認できたのは一部に過ぎない。建物の見取り図を入手できれば良いのだが時間がない。可能な限りの情報を事前に入手しておきたいが、諦めるしかないだろう。
侵入するなら夜がいい。そうなれば闇に紛れるための服、侵入する道具としてロープ、鍵はずしのピックツールがいる。こうした道具は訓練の時にエドワードからもらったものがあるから何とかなる。念のために武器も必要だ。手製の弓に、小型のナイフくらいしか集められないだろうが十分だ。
状況と装備の確認をし、侵入のシミュレーションを頭で数回行った。
決行は今夜と決めた。
城全体が眠りの空気に包まれるのを待ち、ベッドを抜け出した。
夜の闇に紛れる黒、かつ動きやすい服を求めてクローゼットを漁った結果、ハンチング帽にマロリージャケット、キュロットとタイツを見つけた。全て黒一色のそれらを身に纏う。
弓矢を背負い、ロングブーツの中にはナイフを忍ばせた。ショルダーバックにはロープやピッキングツールを詰め込んである。
誰にもバレないよう、慎重に城を出なければならない。それから馬小屋へ行って一頭の馬を調達、後は裏門から出ればとりあえず外出は成功となる。
城の中は知り尽くしているし、メイドや警備の人たちが時間に合わせて移動するのを知っている。この時間、キッチンには誰もいないことも。キッチンの裏手にあるドアを開け、外へ出るのはなんなく成功した。
と、鼻先を水滴がかすめた。
驚いて上を見上げると、黒々とした雲の下腹から大粒の雨が降り始めた。この時まで、雨が降るなんて思いもしなかった。
それは真冬に降り注ぐような冷たい雨だった。熟れた果実の匂いも、草の香りもない。ただ身を刺す冷たさの粒が、凶暴な重量を持って全身に襲い掛かるだけ。季節は秋であったが、いつの間にか冬へと変わったのではないかと錯覚させるほど、瞬く間に周囲は冷気で包まれた。
既に全身が濡れていて、寒さは確実に体温を奪っていることが感じられる。まるで私の決心を挫こうとしているようだ。
ジャケットの襟を立て、慌てて馬小屋へ走った。
「夜中にごめん、お前の力を貸して」
騎乗訓練でいつも乗る愛馬。鞍をつけるのに思いのほか手間取ったが、なんとか跨って誰に気づかれることなく馬小屋を出ることができた。
愛馬は雨の中でも果敢に走ってくれる。蹄で水たまりを弾く音が力強く、弱っていた心に勇気をくれる。この子と一緒なら大丈夫かもしれない。
裏門に差し掛かると、門番が不在だった。急な雨にやられ、雨具を取りに城へ戻っているのだろう。悪天候は悪いことばかりではなかった。内側から難なく門を開け、再び愛馬に跨って手綱を握りしめた。
「急ぐの」
自分に言い聞かせるように愛馬を駆り、街道を疾走する。
雨が木々の葉を叩く音と風の音が大きい。それらを凌駕して鼓膜を刺激する巨大な音が響いた。背後で雷鳴が轟いたのだ。
雷に驚いた愛馬は立ち止まり、虚空を見据えて嘶いた。首を撫でてやり必死に宥めていると、再び青白い閃光。闇に沈んだ夜の森が一瞬だけ姿を現して消えた。直後の雷鳴に再び愛馬が驚き、前足を上げて背中の私を振り落とそうとする。
「落ち着いて!」
私の声なんてまるで届かない。
悪天候に脅える愛馬、目的地であるノエルの家まではまだ半分も来ていない。
こんなことで立てた作戦はうまくいくのだろうか。焦りと不安が生まれた時、胸に苦いものが込みあげてきた。
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突然、コゼットの心臓が音を立てて鳴り始めました。これは恐怖に捕らわれた者が奏でる心音であると、コゼットは理解しております。
この時、コゼットの心に嫌な記憶が蘇っていたのです。忘れようと努める記憶は、心が弱っている時にすぐ蘇るものです。
まず蘇ったのは数年前の父親と母親の会話でした。二人は喧嘩の絶えない日々を送り、毎晩のように相手の心を裂くための言い合いを続けておりました。終には、結婚などしなければよかった、コゼットなど産まなければ、そのような言葉までもが堂々と城内に響くようになりました。
次いで友人と思っていた少女に言われたことが蘇ります。もうコゼットとは遊ばない、との言葉は突然でした。理由を聞くと、態度を改めないからであると言います。コゼットはわけがわかりませんでした。友人であるのなら私の父の会社に援助をするよう父親を説得しろ、ということでした。富豪であるバルヒェットの名のもとに成り立っていた偽りの友情は呆気なく終わりました。
皆がコゼットに向ける冷たい視線は瞼の裏に焼き付いております。
けれど、一人だけ温かく微笑んでくれている少女がおります。ノエルだけは、あの目でコゼットを見ませんでした。
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心が萎んでいき、やがてパチンと弾けた。
急に視界が広くなり、体が軽くなった気がした。この窮地が、度重なる悪条件が、かえって私の魂を揺さぶった。
「ノエル」
この状況はノエルに会いたいのなら試練を越えてみせよ、という誰かの意思のように感じる。負けず嫌いの心に火が点いた。刺激された心は脈打ち、血とは異なる活力を全身に送り出す。
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家でも外でも一人であるコゼットは茫然自失な日々を送っておりましたが、そこへ情熱を注ぎこんだのがエドワードです。逆境への耐性を教えたのも彼でした。
同じ年齢の子は両親に甘えたり、友達と遊んだりして過ごす時間がありますが、コゼットにはそんなものありません。苦しみから逃れるため、与えられた時間の全てを鍛えることに費やしました。身に着けた技は裏切らない。それを知ったコゼットは快感に浸りました。怒涛の勢いで知識を蓄積し、数々の術を我が物とするその姿にエドワードは感心と驚きの瞳を浮かべ、またその中に畏怖を混ぜてもおりました。
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これしきの逆境では挫けない、絶対にノエルの所へ行く。その思いが体に力を漲らせる。
「さあ走って! オーゼルまで!」
何度も揺さぶられながら、必死に手綱をとって夜道を走った。もう雨も風も、雷の音も気にならない。
そうして馬を走らせ、どれくらいが過ぎたのか。ようやくオーゼル街の灯りが見えてきた。ここまで来ればもうすぐ、そのように気が緩んだ瞬間、風の中に鋭い警笛が混じった。振り返ると警察が背後から馬に乗って迫って来ている。
怪しい奴、止まれ
そんな言葉が途切れ途切れに耳に届く。
黒一色の全身、背中に弓、確かに私のいで立ちは怪しすぎる。短い髪のせいで女児とはわからないだろうから、恐らく窃盗などを生業にする少年とでも思っているのだろう。捕まれば終わりだ。
手綱を引き、ガス灯の光が及ばない薄暗い路地へと駆けこむ。
「ご苦労様、家に帰りなさい」
愛馬に告げ、鞍から飛び降りた。私が路地裏に張り巡らされた物干しロープに飛びつくと、ちょうど馬に跨った警察が路地裏に入って来た。主のいない馬とは知らず、すぐに後を追って走り去っていった。薄暗い路地と大粒の雨音を味方につけ、警察からは逃げることができた。
ロープから飛び降り、すぐに路地裏を走った。また警察に目をつけられてはかなわない。
なんとか逃げられたが、おかげで馬を失った。これで帰れるのか。そんな不安を振り払うようにして、闇の中を走った。