Hush Little Baby
私の眠りは廊下から聞こえる物音で中断された。
薄目を開け、すぐに瞼を閉じる。私は寝起きが良い方ではないから、寝床からなかなか出られない。すると再び廊下から物音が聞こえた。気のせいではないらしい。
おっくうに思いつつも上体を起こし、燭台の蝋燭に火を灯す。
部屋が暖かい色で満たされ、目が光に慣れてくると濁りを帯びていた視界もハッキリしてきた。頬に手を当てて意識の覚醒に努める。
あの後、ノエルを慰めて。それから少し話をして、疲れていた私は先にベッドへ入った。
ノエルはまだ魔法のことが書かれた本を読んでいた。本を読んでいるならランプは点けたままで良いからね、と伝えたのを覚えている。そしてベッドから本を読んでいるノエルを見ているうちに眠くなって、それから――ノエルは?
ベッドには私の温もりしか感じられない。時計に目をやると、午前一時を指していた。
再び廊下から物音。それは廊下を足早に過ぎ去る誰かの足音だった。上掛を羽織ると扉の鍵を外して廊下に出た。そこには誰もおらず、ただ暗い廊下が伸びているだけだった。
足音が去って行った方へ、歩き出すしかなかった。
中央ロビーの方まで来ると、暗闇は薄くなっていく。いつ何時も、ここだけはランプを灯しているためだ。階段を下っていくと、ちょうど数名のメイドたちがバラけようとしている所だった。
「なにごと?」
「お嬢様、お休みになっていたのでは?」
私の声に一人のメイドが答える。その表情には不安が浮かんでいる。
「物音で目が覚めたの。それで、なにかあったの?」
「その、ノエル様がお発ちになりまして」
「ノエルが? こんな真夜中にどうして」
自分の声が大きくなったのがわかる。今夜はここに泊まると言い、あんな告白までしたノエルが真夜中に出て行ったことが解せない。不可解な行動に、胸が不安で溢れた。
「どうして止めなかったの。せめて私に一言伝えてくれれば」
「お黙りなさい」
背後から声が聞こえた。振り返ると母が立っていた。葡萄色のローブを纏い、無表情のまま私を見つめている。その視線に、体温が下がっていくのを感じた。
母が手を払う仕草を見たメイドは、一礼してその場を去った。
「母君が直々にお迎えにいらしたの。一晩は当家でお世話を、ということであったようですが、母君が娘の迎えに現れたのなら話は別よ」
「ノエルのお母さまが」
「そうよ。私もライプニッツ様の奥様とは面識があります、間違いなく本人だった。それをコゼットにとやかく言われる筋合いはない。さあ、用は済んだのだから早く部屋に戻りなさい」
その母親がノエルにどんな仕打ちをしているのか、この人は知らない。
この人には何を話しても無駄だ。ならば、確かにここにいる必要はない。
大人しく部屋に引き返すことにした。母の横を通り過ぎる時、「返事くらいしたらどうなの」と言われたが無視した。
危うい時こそ冷静になれ。エドワードはそう教えてくれた。
ノエルが連れていかれた。どうしたらいいのか冷静に考えないと、私がノエルを助けないと。
部屋に戻る途中で、はたと気づいた。
ノエルは今までどこにいたのだろうか。私の部屋にいて出て行ったのなら、いくら眠っている私でも物音や気配で気づく。まさか。
自室ではなく、客室へ走った。扉を開けてみると、確かに人がいた気配がする。灯っていた蝋燭が消された香り、僅かにずれている椅子やテーブル。ノエルはこの部屋にいたのだ。恐らく、眠る私を気遣い、客室へと移動したのだ。この部屋でランプを灯して本を読んでいた。そこに迎えが来た。
母親が来たと聞いてノエルは慌てたはず。魔法のことが書かれた書物を、そのまま持って行くはずがない。
ベッドの下を覗き込むと、ノエルの鞄が目に入った。鞄を開けてみるとやはり、魔法の書物とメモがそのまま入っている。鞄を掻き抱いた私は客室を後にした。
これは誰にも見られるわけにはいかない。
・・・・・・・・・・
皇歴 1798年 首都オーゼルより2マイル離れた街道にて
ノエル・ライプニッツ
コゼットの住む古城からオーゼルまでの道は全て舗装されています。それでも馬車は時折、大げさなくらいに揺れます。街道に生えている木の根が、舗装された道にまで侵食しているためでした。
舗装されているとはいえ、田舎道には違いありません。ガス灯もここまでは設置されていませんでした。
揺れる馬車の中にノエルはいました。隣には母が座っております。
真っ暗な道を進んでいるため、母の顔がどんなふうであるかノエルにはわかりません。母はただ真っすぐに前を向いていました。
再び馬車が揺れました。同時にノエルも震えあがり、思わず身を竦めます。
「ノエル」
母の声にノエルの心音は高まります。
「何を恐れているのです? どうしてそんなに震えているのです?」
「なんでもない」
「なんでもないことはないでしょう? 恐いのでしょう? 大丈夫ですよノエル。あなたが恐れるようなことを私はしませんよ」
そこでノエルは母の顔を見ました。
木々の枝の間を縫って、月明りが一瞬だけ差し込みました。その光は馬車の窓を通し、母の顔を照らし出します。
母は微笑んでおりましたが、瞳は空虚でした。まるで目に穴が空いているようです。その穴には一切の光がありません。どこまでも深い森の闇が、瞳に宿っているようでした。
「あのね、ママ。ノエルは――」
ノエルの小さな口は母の手で塞がれました。
「ノエルが昼間に何をしていたのか知っていますよ。ママやパパの目を欺けると思ったのですか?」
母は微笑んでおります。
「ああ、ノエル。あなたの体にはきっと悪いものが入っているのです。神は敬虔な者を愛しますが、あなたのように穢れた人間を愛しません。聖印を体に焼き付けるだけでは甘かった。帰ったらゆっくりとパパと私があなたを祓いましょう。時間はたっぷりとあります。だからゆっくりと、ゆっくりとね」
母の指は頬に食い込むほどの力でした。けど、これから始まることを思うと、ノエルは痛みを感じませんでした。
「恐怖を感じてはいけませんよ。恐いことではないと思いなさい。これはあなたが生まれ変わる儀式なのです」
ノエルの瞳から零れ落ちた涙を、母は微笑んで見つめていました。
いつになったらゆりゆりが始まるのだ、と思っているそこのあなた。なかなか鋭い。
まだです(どん!)