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Candle in the Dark 【lightness】  作者: WAKA
Dark Seeker
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Sneaking Admiration

 次の日、ノエルに「ごきげんよう」と声をかけられたコゼットは、なんとも満ち足りた気分になりました。「ごきげんよう、ノエル」と言い返すと、ノエルは人懐っこく微笑みます。


 胸に浮かぶ感情が自分でも理解できないため、コゼットはノエルをじっと見つめてしまいます。見続けるうちに、色々なことがわかってきました。

 ノエルはコゼットとは違い、アカデミーで多くの友人を作りました。ノエルの周囲には常に幾人かの生徒がおりましたので、休み時間ともなれば自然と二人は離れてしまいます。誰にも平等に笑顔を振りまくノエルですが、時折コゼットの方へ視線を向けます。惑わされてなどいない、と証明するかのような視線です。


 “私の理解者はあなただけ。ここの人たちとは何も共感できない”


 そう言っているように、コゼットには思えました。


 “ノエルとなら、仲良くなれるかも”


 そんな思いを込めて、コゼットも視線を返します。そして誰にも悟られないよう、そっと視線を読みかけの本へと戻すのです。

 ノエルはコゼットと話した内容を誰にも共有しません。コゼットと何を話すの? と友人達に聞かれても、うまく話を逸らしているのです。コゼットと二人だけの秘密を大切にしているようでした。

 

 こうしたノエルの行動の一つ一つが、コゼットの心に染みました。

 アカデミーが終われば一緒に帰るのは、もう当たり前のことになっていました。

並んで歩いていると時折、指先や肩が触れます。その度に、コゼットの胸の奥にツンと染みるような甘い痛みが生まれました。それがとても心地よいのです。何気ないいつもの風景が、輝きを帯びている気がします。


「どうしたのコゼット?」


「別に、なんでも」


 今日もコゼットはノエルを見ていました。


 手入れの行き届いている長い髪も、しなやかな体躯に合わせたドレスも、澱みのない心も。全てが相まってノエルという女の子はいるのだと思いました。


 その夜、コゼットの夢にあの女性が現れました。

 いつものように、女の人の膝の上で目を覚ましたコゼットが見上げると、自分を見下ろす女の人と視線が絡みます。それは疑惑の目でした。怒っていると言うよりは、拗ねているような表情で、髪も撫でてくれません。コゼットが女の人の手に触れようとすると、彼女はそっぽを向いてしまいました。


 そこで目が覚めます。


 気が付くと暗い天井を見上げています。またあの夢を見た、と思いました。

 女の人の目はいつもより、ひんやりとしていたことが思い出されます。どうして冷たくされたのか理由を考えていると、なぜかノエルが浮かびました。


 教室の窓から差し込む朝日を受けたノエルは、今日も綺麗でした。彼女の赤い髪は艶があり、真っすぐに伸びています。それが陽を浴びると、鮮やかな白い曲線に変わるのです。その美しさに、ある種の憧憬を抱いてしまうコゼットでした。


 そう、最近はノエルのことを考える機会が増えております。


 これではまるで、恋をしているようでは?


 その問いかけは、コゼットの心に明確な感情を刻むことになりました。それと同時に納得できました。だから女の人は自分に冷たかったのだ、と。



・・・・・・・・・・


 アカデミーが休みの日。私は朝からエドワードと共に体術と乗馬の特訓に励んだ。体が柔軟な私は体術もそつなくこなし、騎乗姿勢も簡単に身に着けられる。エドワードは私の方がお父さんよりも呑み込みが早いと褒めてくれた。称賛に対し「ありがと」と、素っ気なく返答した私を見てエドワードは首を傾げた。


 午後は部屋で読書をした。次の休日に読もう、と楽しみにしていた本であったのに、内容がちっとも頭に入ってこない。


 気が付けば私は棚の奥にある、違う本を取り出していた。


 “魔女たちの歴史”という表題である。


 魔女たちは魔法で怪人を生み出して国を襲わせたとか、聖教者達を石に変えてしまったとか。その凶悪な魔女達を神の使徒達がどう打ち滅ぼしたのか、などが書いてある。嘆息し、半ばで本を閉じた。

この城の書物部屋の中で、魔法や魔女とタイトルにある本はおおかた目を通した。どれもおとぎ話のような内容で非現実的だった。こんな本が読みたいのではない。


 あの日、ノエルと図書室で見た本は違う。魔女達が残したという本はかなり高度な技術で作成されていたように思える。


 何の変哲もない紙であったのに角度を変えて見ると、うっすら”透かし”が浮かび上がった。線が折り重なることで見える地図は、精密なオーゼル街の俯瞰図だった。


 透かしを可能とする紙の作成、線を折り重ねることで地図に見せる技術、空から見たとしか思えない精密な俯瞰図。町という構造物を観測する技術の根本は数学にあるはず。

 同時に浮かんだ文字は、魔女達が独自に用いる暗号文章だ。誰でも読める文字だが、それを解く鍵が必要となる。三十近い文字を多表式暗号にすれば、多表の数はとんでもない数になり解読は困難だ。


 これら全てはおとぎ話ではなく、極めて現実的な技術の結晶だ。

 魔法は夢物語ではなく、確かな技術として存在しているのではないだろうか?

 その世界のことをノエルは知っているのだ。彼女は今何を見て、何を考えているのだろう。わからない。魔法のことを――ノエルのことをもっと知りたい。


 枕を抱えた私はベッドに身を預ける。


 魔法のことと同じくらいに、ノエルのことを考える機会が増えた。いや、魔法よりも多いと言っても良いかもしれない。


 ふとしたきっかけでノエルのことがよぎり、体術も読書も身が入らないのだ。

 こんなにもノエルのことを考えてしまうのだから、私はノエルのことが好きなのだろう。けれど、この気持ちは何だろう。


 どこまでが友情で、どこまでが愛情? 恋と友情の境とは何だろう。


 お互いに気持ちを理解しあえて、一緒にいられるのが嬉しいというのは恋だろうか?

確かにノエルのことは好き。何気ない景色が眩しかったり、悩んでいたことがノエルの微笑み一つで解決したりもする。


 そう、ノエルと一緒にいるのは好きだ。例えば底抜けの空から伸びる夕日が街路樹を照らす時。一緒に並んで歩いて、何でもないことを話すことができて、ときどき肩や指先が触れる程度の触れ合いがあれば私は満足だ。決して唇に触れてみたいとか、そんなことはない。


 その時、ノックの音で潜り込んでいた意識が現実世界に引き戻された。


「お嬢様、よろしいでしょうか」


 執事の声だ。


「何かしら?」


「ご学友がお嬢様を訪ねておいでです」


「学友?」


 胸がドキンと跳ねた。私を訪ねる学友など、思い当たるのは一人しかいない。






「来ちゃった」


 応接室にいたノエルは私の姿を見ると、いつもの人懐こい笑みを浮かべた。


「どうして私の家に?」


「友達じゃない。今度遊びに行くねって言ったし」


「そのうち、って意味だと思ったから。今日、急に遊びに来るなんて」


「あ、えっとね。遊びにじゃなくて泊まりに」


「泊り?」


「そ」


「こんな急に?」


「急に。いいでしょ」


 ノエルが私にだけわかるように目配せする。視線の先には、彼女が持ってきた鞄。その中に何かある、とすぐに察した。図書室で見せてくれた魔法に関する何かがある。集めるべきページを全て揃えたのだろうか。


「いいわよ、泊まれば」


「やたっ、ありがとコゼット!」


 ノエルが抱き着いてくる。彼女の香りが鼻腔をくすぐり、少しだけ焦る。だが、すぐにノエルが耳元に口を寄せてきたので、何らかの含みがあると察した。私も彼女の肩に顎を乗せ、唇を耳元の近くへ寄せる。


“何か必要なの?“


“ノエルは今日、朝からここにいた。そういうことにしてほしいの“


“ご両親への言い訳ってこと”


“うん、バレたら殺される”


“冗談はいいから。遣いを出しましょうか?”


“お願い“


 互いに耳元で囁き合い、私たちは誰にバレないよう笑顔を見せる。

 すぐそばに控えていたメイドに声をかける。


「エドワードはいるかしら?」


「先ほど食堂の方でお見掛けいたしました、言伝をいたしましょうか」


「直接話すわ、私の部屋へ来るように言ってくれる? それとお客様のお荷物を客室に――」


 そう言いかけるとノエルが割って入った。


「ノエルはコゼットの部屋に泊まりたいな。今夜はね、一緒にお話ししたいの。ね、コゼット。仲良しだもんね」


 ノエルは私の手を握り、これ見よがしにメイドへ視線を送っている。どこか有無を言わさぬ勢いで、遠慮というものがまるで感じられない。急に押しかけてきてそんなことを言うなんて、呆れを通り越して笑えてしまう。だが、私の微笑みは翳を孕むものではない。自然と表情が緩む類のものだ。天性とでも言うべきか、どこか憎めないものがノエルにはある。


「いいわ、わかった」


 気が付けば私は首を縦に振ってしまっていた。


「悪いけど、私の部屋に運んで」


「かしこまりました」


 メイドは一礼すると、ノエルの荷物を持ち上げた。

 私の心は弾んでいた。無理な願いを聞くというのは、友人同士の醍醐味であるように思える。それに、わが家へ友人を招くのは初めてのことだった。




 部屋に着き、ノエルに事情を聞こうとしたところで扉がノックされた。完全に締まりきっていない扉の隙間から、ゴツゴツした拳が見える。それを見たノエルが身を竦ませる。傷だらけで大きな軍人の手は驚異だろう。


「エドワード」


「やれやれ、片足が義足のジジイに四階まで昇らせるとは。お嬢様にはかなわんよ」


 老人は扉を開け、ノエルを一瞥すると私の方へ視線を戻した。


「この可愛いお嬢さんはどなたかな」


「友達よ」


「友達がいたのか」


 エドワードの口から素直な感想が飛び出した。嫌味ではなく、本当に驚いているようだ。


「初めまして、ノエル・ライプニッツです」


 スカートの裾を摘まみ、ノエルは挨拶をした。エドワードは少し面食らいながらも、簡単な挨拶を済ませた。そうして会話を区切るように片手を上げて私たちを制し、廊下に顔を出した。誰もいないことを確認し、扉を閉めた後、再び私たちに向き直った。


「他に聞かれてはまずいことだろう、コゼットの頼みというのは」


「今日の午前中、私とノエルは二人でエドワードに騎乗訓練をしてもらっていたということにして。それと、ノエルの家に知らせを。今夜は我が家でおもてなしをさせて頂く、と伝えてもらえないかしら」


「その通りにして、お前たちに危険はないか?」


「ないわよ、ただちょっとした嘘。遊びみたいなもの」


「お前たちに危険がないなら文句はない。それと騎乗訓練ではなく乗馬の方が良いだろう、お友達のお嬢さんにはそちらの響きがお似合いだ。バルヒェット家としてライプニッツの家へ遣いを出しておこう」


「ありがとう」


 用件だけ済ませるとエドワードはさっさと部屋を後にした。ノエルがお礼を述べたが、背中で受け止めただけだった。ドアが乱暴に閉められ、部屋の四方に音がこだました。


「あの人、怒ってない?」


「別に、いつもあんな感じよ。元軍人で、粗暴な所があるけど怒ってはいないわ」


「今の人がこの前話してくれた軍人さんなんだ。お願いもあっさり通っちゃったな、理由を聞かれると思ったけど」


「エドワードの仕事はこの家にいる人たちを守ることだから。それさえ守られれば、あとは大抵のお願いは聞いてくれるの」


 不安そうだったノエルは安心したように胸を撫で下ろしている。


「それでどうなってるの?」


 私が言うと、はて? という顔を浮かべるノエル。


「私にここまでさせたんだから事情くらい聞かせなさいよ」


「ああ! そうだったそうだった」


 ノエルは鎖骨にかかっていた金色のチェーンを指で摘まみ上げた。チェーンに引かれ、彼女の胸元から現れたのは青銅の鍵であった。ノエルの掌に収まるくらいの大きさであるのに、表面の滑らかな輝きを見た途端、胸に不安がよぎった。ただの鍵ではないという直感があった。


「はいご覧あれ、午前中に一人で大冒険をして手に入れた鍵です」


「それ何の鍵なの?」


「知らないの」


「ちょっと」


 私が小突こうとしたのをノエルは体を捻り、ひらりと避ける。


「コゼットにも見せた地図、あれが示していたのはこの鍵の在り処だったの。鍵が何であるかを調べるのが当面の問題。でも、その前に直面している問題があるの」


 わざとらしく指を立て、さも重要なことであるかのように言う。


「今日はパパとママが朝からお出かけしたんだ。慈善パーティーに招待されているから夜まで戻らないってことだった。だからノエルは鍵を探しに出かけたの。鍵を見つけて、お昼ごろに帰るとパパとママは家に戻ってた。パーティーが中止になって、帰って来たみたい。黙って家を出てきたから、パパとママはノエルを探してたよ。今日はもう家には帰れない。ノエルが家にいなかった理由を説明しなきゃいけなくなる。まさか魔法の鍵を探しに行っていたなんて口が裂けても言えないの」


「それで私の家に遊びに来ていた、というアリバイ工作を思いついたのね」


「そうなの。ピンチな状況でもノエルは機転が利くので」


「まったく」


 肩をすくめると、ノエルが伺うように身を乗り出す。


「ごめんねコゼット、利用するようなことして。でも、これは貸しだよ。コゼットに何かあった時は絶対にノエルが守るから」


「私は一人でも自分を守れるわよ」


「そうかもしれないけど、何が起こるかわからないでしょ? もしもの時はノエルが守るから。ねえ、だめ?」


 意気揚々と話していたかと思えば、捨てられた子犬のように縋る目をする。よくもまあコロコロと表情が変わるものだ。特に悪い気もしていないのだが、せっかくなので交換条件を出すことにする。


「一つ条件があるわ」


「条件?」


「ノエルの知っている魔法の知識、私にも教えてくれない? 気になって」


「いいけど――ねえコゼット」


「なに?」


「少なからず覚悟がいるよ」


「ええ」


「魔法は世の中から消えかけてる。ほとんどの人が信じていない。けど、今でも魔法を使う人はいるし、魔法を嫌う人たちもいる。そういう世界に足を踏み込むってことだよ?」


「危険って言いたいの?」


「うん」


「その時はその時。冒険無くして得るものなし、ってことよ」


 にやり、と笑って見せる。


「やるからには半端はなし。魔法のことを詳しく教えて。それが今日ここに泊まる条件よ」


 危険は承知の上、それでも魔法のことを知りたい。違う、ノエルの世界のことを教えてほしい。そうした思いは口に出さずとも伝わったらしく、ノエルの表情が緩む。


「いいよ、お安いご用。ほら私のカバンに本が入ってるから見せたげる」


 ドレスの裾を翻し、ノエルは鞄の方へ走った。


 鞄にはびっしりと書物が詰め込まれていた。良く見ると本だけではなく、小さなメモ書きや丸めた用紙まである。


 ノエルは次々と本を取り出し、特定のページを開いて本を仰向けに並べていく。丸めた用紙は床に広げ、四隅には部屋にあったペーパーナイフやペンダントを重石の代わりに乗せていく。


「わあ・・・・・・っ」


 驚愕が漏れた。


 記されていたのは魔法使いが用いる文字の仕組み、文字と図形を重ねることで組み上げる陣の形であった。見たこともない言葉や記号で溢れているが、ノエルのメモ帳に文字の成り立ちや意味まで細かく記されていたため理解することができた。

 魔法とはこれらの文字を組み合わせて唱え、または複数の図形を円の中に描くことによって効果を発揮するらしい。


 ノエルのメモを見る限り、文字には複数の組み合わせが存在し、魔法円は記号として周囲の長さが厳密に決められている。ただ唱えれば良いという単純なものではないようだ。


 また、魔法には特定の条件を満たさなければ効果を発揮できないものもある、と記されている。

 例えば屋内でしか発動しない、と場所が限定されている場合。この”屋内“の定義がかなり詳細に定められている。建物内部の体積が数値化されていて、この数値に近いほど魔法は強力になるという。効果を上げるためには、条件を満たす建物を素早く見極めるための計算が必要になる。


 続いては一定の風量がなければ発動しない魔法。これなどは自分の立ち位置を観測地点とし、風況を計測する計算式が必要だ。

 思った通り、魔法の行使には極めて現実的な技術がいる。論理的思考、文字の読解力、数学知識。私が見たかった魔法は、絵本のような夢物語ではなく人々が作り上げた技術の結晶。それが今まさに目の前にある。


「すごい」


 心が躍った。


「魔法、これが。ねえノエル、この本やメモ書きの通りにすれば使えるようになるってこと?」


「違うよ。そもそも魔法が何であるかを知らないと」


「それはどこに書いてあるの?」


「魔法が何であるか、っていうのは文字に残さないんだって。強力な魔法使いから口伝を授からないと駄目なの」


「そう」


「残念だけどノエルはまだその域には達していないの。だからコゼットには――コゼット?」


「静かに、考えさせて」


 机の引き出しから手帳を取り出し、そこへ魔法の文字を書き写してみる。自分でも何がしたいのかよくわからなかったが、とにかく僅かでも知識を頭に入れてみたかった。


「凄いのね魔法って。ただ唱えれば何でも思い通りになるものだと思ってた」


「それができるのはかなりの熟練者だよ。ノエルみたいなペーペーは、こうやって地道に円を書いたり文字を覚えたりしてようやくできるの」


「これがノエルの見ている世界なのね」


「そうだよ」


 魔法の文字や記号を見ていると、生み出した者の強い意志を感じ取ることができる。どれにも思想や願いが込められていて、編み出した者の想いが心の奥底に響いた。純粋に知識を追求し、完成された術式などは美しいとさえ思えた。

 

 私の心に響くものがある。魔法を編み出した者と私の心が重なるようだ。

 なぜこんなにもしっくりくるのかと不思議に思ったが、あぁそうかとすぐに納得できた。

 エドワードに教わった軍人思考と似ているのだ。

 

 軍人の思考、プラグマティズムは実証から得た経験と数学的な理論から成る。戦術の組み立て、武器の製造、身体能力の向上は全て成果を出すためにストラクチャーが可能だ。私はこの考え方が好きだ。対策を立て、隙を見せなければ強くなれる。とても理にかなっている。


 この魔法書に書かれていることと何が違う。


「楽しい?」


 ノエルが微笑む。


「ええ」


 私も笑みを返す。


 私の知らない世界はまだまだある。それをノエルに教えてもらったことが嬉しかった。

 それから私たちは魔法について語ることに没頭した。頃合いを見計らってメイドがお茶とお菓子を運んでくれたが、それを受け取る余裕がなかった。夕食は部屋で取ることにして運んでもらったが、魔法のことを話すのに夢中で、気が付けばすっかり冷めてしまっていた。

 私たちは冷えたサンドイッチやクッキーを頬張りながら、多くのことを話した。同世代の子とこんなふうに話せたのは初めてのことだった。


「ねえコゼット」


「なにノエル」


 そのとき私は魔法の円をメモに描き写すのに夢中で、彼女の顔を見なかった。紙の上をペンが滑る音が心地よくて気づけなかったけど、もしかしたらノエルはしっとりとした瞳で私を見ていたのかもしれない。


「ノエルたちはこれからも一緒にいるのかな」


「これからも一緒でしょ」


「コゼットはノエルのこと好き?」


 まるで好きな食べ物を聞かれる時のような。その言葉の温度はそのくらいだった。ノエルの質問は重々しいようでいて、とても軽かった。


「好きよ」


 だから私も軽く返事をした。


 インクの香りの間を縫って、ノエルの匂いが鼻先をかすめた。不思議に思って顔を上げた瞬間の出来事だった。


 唇に吐息がかかったと思いきや、柔らかなそれが重なる。


「んっ!」


 ノエルが私にキスをした。

 唇と唇が重なる、正真正銘のキス。


 完全に不意をつかれた私は、瞳をぱちくりさせつつ凍ったように動くことができなかった。

 全身の血液が激しく流れていく。荒い息を吐き出したくなるところを必死でこらえた。


 体の自由だけではなく、思考すらも奪われた。今この世界に、過去へと続く光も、茫漠と横たわる未来への時間も存在しなかった。

 この世界は、ノエルの温かな唇の感触と香りだけで構成されている。


 やがてノエルが唇を放した。去り際に出た彼女の吐息が頬に触れ、ビクリと震えてしまった。


「んふっ、私もコゼットが好き」


 両手を床について前のめりになっていたノエルは、微笑みながらサッと身を引いた。指先で自分の唇に触れてみると、先ほどの感触が蘇るようだった。


 キスはほんの一瞬だった。その一瞬が、この薄暗い部屋に流れていた穏やかな時間をかすめ取っていった。ノエルは鼻歌交じりに本のページをめくる作業に戻っている。私の視線に気づくと、歯を見せて微笑んだ。その笑顔の意味さえ、今の私にはわからない。


 どうして私にキスを?


 聞くのは簡単なのに、今それを尋ねるのは野暮であるように思えた。


 ノエルとキスをしたという事実は、ゆっくりと確実に――まるで苺のジャムのようにゆっくりと、甘く胸に滲みわたっていく。


 私はノエルのことが好き。でも――キスをするほどでは――いや、キスをしてみたかったのかもしれない。考えるほどにわからなくなる



 あのキスが今後なにをもたらすのか不明である以上、取り返しのつかないことをされたようでもあり、さして気に留めるほどのことでもないように思える。


「コゼット」


「な、なに?」


「ほら、ここ。さっき言ってた魔法のことだよ」


「あ、ああ。それね」


 考えもしていなかったことが起きると、今まで容易であったことが途端に難しくなる。ノエルのことを意識しすぎるあまり、彼女との会話に踏み込めない。もじもじしていると、察したノエルが顔を綻ばせた。


「急にあんなことしてごめんね。コゼットのこと好きだから、つい」


 私はなんと答えて良いかわからず、俯き加減にコクリと頷いただけだった。


「ノエルのこと怖い? 嫌いになった?」


「そんなことないっ」


 瞳に力を込めて答えた。私の赤い瞳と、ノエルの淡い水色の瞳が重なる。目を会わせた私たちは、数秒の沈黙をもって互いを理解した。


「そっか。そっかそっか。ありがと。えへへへ」


 ぱっと顔を輝かせて笑うノエル。

 ノエルを嫌いになることはない、その気持ちが伝わったのだろう。


 思い合う二人の心はいつだって目と目が会えば十分。言葉は不要だった。アカデミーの教室でも、ずっとそうだったではないか。それを思い出せた私の心は軽くなった。

 

「コゼット。ノエルの秘密を話すね」


「秘密って、まだなにかあるの?」


「ノエルが魔法を覚えたいのは、自分を守るためだって前に言ったよね。その話の続き」


 ノエルが立ち上がった。



「ノエルのママは、ノエルよりも神様が大切なの。ママには神様の教えが全て、他の人の言うことなんて聞こうともしない」


 話しながらゆっくりとドレスを脱ぎ始めた。私が不可解な視線を送っても気にしない。話は続いた。


「ママは言うの。神様に愛してもらえるようになるには、証明しないといけないって。それは痛いことだけど、やれば神様に愛してもらえるからって」


 床にノエルの来ていたドレスが落ちた。下着すら取り始めたので、窘めようとしたのだが。無言のままこちらへ歩み寄るノエルに気圧された。


 彼女はその場で半回転し、私に背を向けた。


 それを見た私は声を失う。


「こんなことするの」


 ノエルの背中には焼き印があった。

 小さなものではなく、背中全体を覆いつくすほどの巨大な焼き印だ。


 印は宗教の紋章、即ち神の紋章である。


「もうこんなのいや。普通でいいの、普通の暮らしがしたい。その気持ちを・・・・・・ノエルの声をママに届けたい」


 息を呑んだ。

 ノエルは表情を崩して微笑んでいる。しかし、瞳からは涙が雫となって零れ落ちた。


「普通に言ってもダメ。でも、魔法ならできる。ノエルの声を聞いてほしい。そのために魔法を覚えたいの」


 どこか弱々しく微笑むノエル。その裏に毒のナイフが隠されているような気がして、思わず尋ねた。


「声を届ける、それだけよね? 物騒なものじゃないわよね」


 私の疑問にノエルは答えず、かわりに首をかしげて微笑んだ。


「コゼットは本当に察しがよくてまいっちゃうの」


「ノエル」


「大丈夫。ノエルのお母さんだもん。魔法で痛いことしたくない、ほんとだよ」


 あの雨の日の書庫で聞きそびれたこと。ノエルは誰に怯え、自衛のために魔法を使おうとしているのか。それがようやくわかった。

 自分の母に使おうというのだ。

 


 私はどんな顔をしていたのだろう。


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