In search of identity
久々に侵入した図書室は、ノエルと訪れた時と大して変わりはなかった。四角く区切られた巨大な部屋は、地下室のように暗い。等間隔で配置された本棚、丸天井に描かれた絵画は記憶のままだ。
「コゼットちゃん」
「ん?」
「あの天井近くの本はどのようにして取れば?」
リズは壁に沿って高く伸びる本棚を指さしている。
「ああ、梯子がないと無理よ」
本棚の隙間にある梯子を取り出し、先端を棚にひっかけて固定してあげた。
「はい。落っこちないようにね」
「ありがとうございます、それにしてもこんなに大きな本棚を作るなんて。入口よりも大きなものをどのようにして入れたのでしょう」
「分解してから入れて、中で組み立てたんじゃないの」
「なるほど。天井付近まで本棚を作るというのは私にはない発想です」
リズは梯子の先端まで登りながら言う。
「それはまあ、欲望のままに本を集めればこれくらいになるってことよね」
「これらは欲望の数ですか」
「そうよ。それにしても暗いわね。本が陽で傷むから窓は少なめ、火の持ち込みは厳禁。昼間でも暗い部屋なのに、普段はどうやって本を探してるのかしら」
「小窓から入る僅かな光を頼りにしているのでしょうか……私たちはこの暗さでも見渡すことができますけど」
ゆっくりと梯子を下りてきたので、どうやらお目当てのものが見つかったらしい。手を差し出すと、彼女を柔らかく握り返して、優雅に着地して見せた。
「あったの?」
「ええ。これに間違いないでしょう」
「どうしよっか、二三日借りていく?」
「いいえ、ここで読みます」
リズの胸に抱かれている本は黒い革張りで、表紙には先住民たちが神と崇める四足獣の頭蓋骨が描かれていた。ページも厚くかなりの重量がありそうだが、彼女は苦も無く片手で抱え、もう片方の手でページを捲り始めた。
「神ではなく魔物、ですね。熱病や災害ではなく……人を蝕むもの」
白い指先が素早くページを捲っていたが、それがピタリと止まった。
「ありました」
示したページには、筋骨猛々しい男の絵があった。顔には狼の面、手にはハチェットを握りしめて森の奥からこちらを覗いている様子が描かれている。薄気味悪くなり寒気がした。
「カルーム」
絵のタイトルである。添え書きはこうだ。
“カルームは先住民たちが恐れる狼の悪霊である。黒い風に乗り、殺戮と飢饉をもたらす悪霊の王であったが、祈祷師により狼を象った木彫りの面に封印された。仮面は封印されている”
ページを捲るが、カルームの記載はそれ以上なかった。
「これだけ? もっと情報があると思ったのに」
「先住民たちの信仰です。彼らは信仰を外部の者に伝えたりしません……ここまで記録してあるだけでも大したものです。カルーム……さて……とりあえず」
リズは本を棚に戻し、扉の方へ向かって歩き出した。
「正体とか弱点とか、そういうのが分かると思った」
「調べる方法はあります」
重苦しい扉が開かれると、廊下は華やかな夕陽で溢れていた。最後の名残りとして輝く陽は強烈であったが、やがて西に聳える棟の方へ沈み始めた。リズは扉を閉めた直後、素早く魔方陣を組み立てる。すると、閉まった扉から金属的な錠のかかる音がして、それは甲高く廊下に響き渡った。鍵を不要とする魔方陣も存在するらしい。
迷いのない足取りで歩き出したリズの後を追う。
「方法って?」
「パインデールは、まだありますか?」
「あるけど」
「そこへ行きます」
「え」
パインデールとはオーゼル街の北西にある地名で、この土地の先住民達が多く暮らしている場所だ。先住民であるガリイと呼ばれる種族と、私たちの祖先はかつてこの地で戦い、多くの血が流れた。祖先が勝利したおかげで皆は今のような暮らしをしているが、この土地はもともとガリイの民のものだ。争いの後も怨恨は続き、ガリイには平等が与えられなかった。狭い地域に押し詰められた彼らの住むパインデールは、決して治安が良いとは言えず、夜の帳が下りてあの区画へ足を踏み入れる者は少ない。
「今から?」
「はい」
「あんたね、あそこがどうゆう場所か知ってるの?」
「はい……その言い方から察しますと、未だにガリイ達と和解はできていないようですね」
「こればかりは、色々と複雑みたいよ」
「陽が出ている時間帯では、私たちのように肌の白い人はかえって目を引きます。夜の方が好都合……ローブを纏い、闇に紛れて行きましょう」
「パインデールも広いのよ、何かあてはあるの?」
「ありませんが……ヴァンパイアは便利な目を持っています」
いつか中年の警察官を骨抜きにした時と同じように、マリンブルーの瞳が淡く光った。首筋に寒気を感じた。
オーゼルが闇に沈んだ頃、私たちはパインデールへ足を踏み入れた。この地区にガス灯はなく、暗闇の中でも月明りを頼りに歩くしかない。ランプはこの地区に住む者たちにとっては高級品なので、おいそれと持って歩くことはできない。金持ちであることをアピールするようなものだ。
オドで視界を強化すれば町の闇を取り払うことはできるが、視界が良好であるからと言って優雅に歩くことは憚られる。気品ある歩き方もまた、彼らの目に留まるに違いない。
数か月前、パインデール地区を通った白人の男が複数の先住民たちに喧嘩を吹っ掛け、果てに暴行を受けた。男は所持していた金品を全て奪われたが、この事件で警察が動くことはなかった。遡ること数年前の事件があるためだ。或る白人がパインデールに訪れ、その際に先住民の娼婦を勢い余って殺害してしまった。男はその場で先住民たちによって捕らえられ、殴打されて死亡した。殺人事件は明るみになり、警察官たちが武器を手にパインデールへ押し寄せたが、先住民達も応戦し双方に多くの死者が出た。結果、パインデール地区のガリイの民に挑むことは危険であるとオーゼル街の市長と市警本部長は判断。共同で声明を出した。
“パインデールで起こることは全て法の外にあり、我々は関与しない。だがガリイの民が今後も我々に危害を加えるのであればその限りではない”
長々とした文章を簡潔にまとめるとこのような意味になる。
この声明によって、パインデールは無法地帯も同然だ。パインデール地区の境界線を警察官たちは越えてこない、故に暗殺や死体遺棄などの場所として犯罪者達からは好まれる場所だ。ガリイの民とは怨恨があるものの、基本的に危害を加えなければ襲われることはない……はずである。しかし、無法地帯で息を潜める犯罪者たちからはいつ襲われてもおかしくないのだ。背後にあるオーゼル街の光が遠のいていくと、気分が落ち着かなかった。多くの人の恨みを買う地区で、この暗さと人気のなさでは自然と肩に強張りが生まれる。
「いくら目を引かないからって言っても、昼間の方が良かったんじゃないの」
「大丈夫ですよ、私がいます」
「身の安全はわかるんだけど。無駄な争いはしたくないってだけ。巻き込まれるだけ損じゃない」
「わかりました。警戒を怠りませんので安心してください」
その言葉の中には、緊張は相手に伝わってしまうという窘めも混じっているかもしれなかった。ため息をついて肩の力を抜き、普通を意識した姿勢で歩くことにする。陽が沈んで空気も冷えてきた。冷気を肺腑に取り入れる度、暖炉の火が恋しくなってくる。
「あ……ちょっと行ってきますね」
リズが向かう先には路地でたむろしている男たちがいた。
見ていると、一言二言の言葉を交わしただけで一人が路地の先を指さした。その先はパインデールの中心の方だ。この地区には足を踏み入れたこともないので、中心街がどのような場所なのか想像もできない。お礼をして、戻ってきたリズは「もう何人かに話を聞く必要があります」とだけ言って歩き出した。その後も、通行人や露店の店主などに声をかけ続けた。初めて訪れた場所で指示された道順とは難解なものである。
私たちは複雑な路地を右へ左へと進んでいく。帰り道を忘れないようにと頭で道順を整理していたが、あまりにも複雑な地形のため何度目かの路地に入った時にはもう手順を忘れてしまっていた。
そうこうしているうちに、目的の場所へとたどり着いたらしい。リズは「ありました」と小さな声でつぶやいた。
そこは路地の奥にある酒場だった。レンガ造りで、窓からは暖炉の火がホロホロと零れていた。木製の戸を開けると、戸の開閉によりベルが小気味よく鳴った。パイプ草の煙と、数名の談笑が押し寄せてくる。リズはカウンターにいる男へ何事か告げた。男は驚いていたようだが、外で待っているように告げた。いくつかの貨幣をカウンターへ置き、リズは私の背を押して外へ出るように促した。
しばらくすると、裏口のドアが開く音がして若い女性が姿を現した。どこかで給仕の仕事に就いているのか、メイド服を着ている。服の素材は上質なもので、酒場でつぎはぎのぼろ布を纏っていた男たちとは違う。顔立ちが良いので、オーゼルに住む貴族にでも気に入られたのだろう。
「それで……どっち?」
女性が何を言っているのか理解できなかったが、
「私です」
リズがそう言ったのを聞いて、何か取り決めのようなものがあるのだと察した。
「あんたか……それで、何が知りたいの?」
女性の目は冷たく、鋭かった。私たちが誰であれ興味はなく、このような話は早く終わらせたいであろうことが伺えた。にこりともしない相手に対し、リズは微笑みを浮かべていた。弱者が媚びる際に浮かべるような愛想笑いではなく、家族にむけるような穏やかな笑みだ。
「祈祷はまだ続けていますか?」
「祈祷? そんなのやっちゃいられないよ。それで飯が食えるわけじゃないんだから。そんなもんばあさんの時代でとっくに終わったよ」
「あなたは……祈祷を習うことはありませんでしたか?」
「少しね、やったこともないけど」
「カルーム、という魔物を知りませんか?」
「カルーム……カルームね、知ってるけど。どこで聞いたのそれ」
女性はエプロンのポケットから紙巻きたばこを取り出し、マッチをこすって火をつけた。自らを落ち着けるように深く息を吸って煙を吐く。冷たい空気の中に、紫煙の香りが漂った。
「文献で知りました。今この町で何か良くないことが起こっています、あなたたちの恐れる魔物と何か関係があるのかもしれません」
リズはいくつかの貨幣を女性に手渡した。女性は受け取ると、無言のまま貨幣を裾の中へ隠した。
「わずかでも情報がほしいのです。こんな印を、見たことはありますか?」
リズが取り出したのは一枚の紙。そこには魔方陣らしき印が描いてあった。投擲されたハチェットに刻まれた魔方陣に見覚えがあると言っていたが、このことだろうか?
「狼と精霊の印だね。私たちガリイはこういうマークを作って神様に祈ることもある。戦士たちは武器に印を刻んで、戦いに勝利できることを信じた。まあ、おまじないの類だよ。こんなのどこで覚えたの?」
「色々と、詳しい方がいまして」
「ふーん。印は神聖なものだから、あまり他の人には見せないんだけどね」
神聖な印を知っていたことで、私たちを見る目がいっそう疎ましくなったような気がした。
「特例もあるのでは? それより、カルームのことを教えていただけますか」
「何が狙いか知らないけど、カルームの話なんて面白くないよ? よくあるモンスターの話だ。子供たちを怖がらせるような類の話。前のめりになって聞くような話じゃないさ」
「ゴーストストーリーではすまされません、狼が町の中に入り込んでいます」
「なんでそう言い切れるの?」
「昨晩……獣の匂いがこの町に漂っていました……猫や犬ではありません。あれはもっと厄介な獣の匂いです。その獣特有の呼吸も聞こえました」
女性はじろりと鋭い目を向けた。口を閉じろと言わんばかりの目線であり、何かにイラついてるに違いなかった。
「オーゼルのどこで?」
「中心街に近い場所です……子供が一人亡くなっています」
「この町じゃ毎日誰かしら死ぬ。聖職者ばかり狙う通り魔だっている」
「それとは別です。あの暗闇……黒い霧と言い換えても良いかもしれません。邪悪なものを感じました」
「霧って」
女性は明らかに動揺していた。リズの話す内容が、彼女の探られたくない心を丸裸にしていくようだった。
「まさか見たの?」
「私が見たのは、今お話ししたことで全てです。正体がわからないので、あなたに助言をいただきに参りました」
「仮面、狼の仮面は見なかった?」
今度は女性が前のめりになって聞いてきた。
「暗闇が濃すぎて何も見えませんでした……私の話に、何か思い当たることがあるのでは? あれはまた現れ、誰かを殺めるのではないですか? それなら、誰かが止めなければ。情報がほしいのです」
貨幣を受け取っておきながら、女性は話すことにためらいを見せていた。
パインデールで、白人に加担したと噂を広められたくないのだろう。しかし、その一方で好奇心や義務といった感情も生まれているようだった。狭間で揺れ動く感情が、表情に見受けられた。
「あなたが私たちに話すことは、誰にも伝わりません。どのようにして、私たちがあなたにたどり着いたかは知られないようにここまで来ました。この店の主人にも、あなたが務める屋敷からの遣いであると話してあります。あなたがカルームのことを話したことは誰も知らない、だからあなたに被害がもたらされることはない。私が首を突っ込むのは、この町で人を殺している者を止めたいからです。力を貸していただけないでしょうか?」
リズは相手の感情を巧みに読み取って話し、次に何枚かの紙幣を手渡した。女性はそれを受け取ると、紫煙を吐いたのちに言った。
「本当に、私が話したってことは漏れないんでしょうね?」
「誓って」
「……私は見たことない。けど、婆さんの代に現れたって。前兆は暗闇と、獣の匂い、それと狼の呼吸音。姿を見た人は少ないけど、狼の仮面を被っている。小型の斧が武器で、その威力は鋼鉄にも深々と食い込むって話だよ」
昨夜、私たちが知りえた者の特徴と、ピタリと符合する。
「狼の仮面は木彫りのもの、露店に売ってるようなものじゃないよ。私もどんな仮面かは知らないけど、婆さんが言うには美術品としても見られるほど立派なものだって。その仮面は、清められた土地で眠ってる。でも這い上がって来るんだ。人間の欲望とか殺意につられるんだって」
「仮面はどこに埋められてたの?」
黙っていられず私も聞いてみた。
「イタスカって場所だ……あんたらが”ノーマンズランド”って呼んでる場所」
ノーマンズランド。そこは半砂漠地帯で、巨大な砂と岩石、枯れ草が入り乱れている場所だ。
「呪われた土地だから、気味の悪い仮面を埋めるのにも良い場所でしょ。イスタカのどこに埋められているのかまでは本当に知らない。部族の長ならわかるかもしれないけど、もうみんな寿命で逝ったかもね……さ、知ってることは全部話したよ。念を押すけど、私がこの話をしたなんて誰にも言わないでよね」
深刻な表情であった。ガリイの中には白人たちと関わることを良しとしない者も多いと聞く。部族に伝わる話を漏らしたと知れれば、この女性にもそれなりの罰が下ることは間違いなかった。
「言わないわ。誰かに傷ついてほしいわけじゃない――この町で好き勝手してるやつを止めたいだけ」
リズは深々と礼をし、さらに紙幣を手渡した。
「ありがとうございます……お婆様にもよろしくお伝えください」
「死んだよ。もう帰って、ここには二度と来ないでよ」
女性は煙草を指先で弾いて捨て、酒場の裏口へ戻ろうとする。
「ねえ、待って」
「なによ」
「おばあさんの代に、カルームは出たんでしょう? どうやって止めたの?」
「……奴の標的を全員差し出したよ。皆殺しさ。それが済んだら、カルームはイスタカへ帰っていった。悪魔は倒せないなら、崇めるしかないんだ」
女性は裏口を開け、素早く中に消えていった。扉が閉まると、辺りは恐ろしいほどに静まり返った。私たちの声が遠くに届いていたのではないかと不安になるくらいだった。
「長居は無用ね、行きましょうか」
「そうしましょう」
だんだんと静寂に耳が慣れてきて、分厚い壁を通して店の中の談笑が聞こえた。
「貴重な話が聞けました……仮面は人間の欲望や殺意に憑依すると。それが本当なら、カルームは取りついた人間に利用されているとも言えます」
「つまり?」
「人間です。カルームの力はあっても、意志は人間のモノなのです。恨みを抱いた人間が、仮面の力を借りているとしたら……犠牲になった人たちに共通点があれば、犯人像も浮かんでくるのではないかと」
「犠牲者の確認か。昨日殺された男の子の傷もハチェットだったと思う。ここ最近の殺人事件で、ハチェットの傷がついている人を探せばいい。遺体安置所か、墓へ行くしかなさそう」
「誰がカルームの仮面を手にしたのか調べましょう。人物を特定できれば、奇襲をかけることもできる。そうなれば、また私の出番です」
私たちは元来た道を戻った。
複雑な地形を縫うように進んできたが、帰り道の順序はリズが覚えていてくれて、数分も歩けばオーゼル街の中心が見えてきた。ガス灯の灯りが夜空に浮かび上がり、馬車の音が漂う風の中に紛れて聞こえてくる。そんな時だった。どこかから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。リズにも聞こえたらしく、私たちはハッとして同時に顔を見合わせた。
「赤ちゃんの泣き声」
「はい、聞こえます。あっちですね」
リズの向けた視線の先からは絶えず泣き声が聞こえている。
「行くわよ」
「コゼットちゃん、警戒を」
「え?」
「赤ん坊の泣き声を餌にしておびき寄せ、人を狩る魔物も存在します……今は何の気配も感じませんが、気配を消すのに長けた魔法使いであるかもしれません」
「罠かもしれないってこと?」
こくん、と頷いた。
「本物の赤ちゃんかもしれないじゃない。危ない目に遭っているのかもしれない。そういうのはほっとけない」
「……わかりました、行ってみましょう。ただし、私が先頭です」
私たちはオーゼル街の中心部へ向けていた足を左に向けた。その道は普段から人通りが乏しいのか、道には木製車輪の残骸やレンガなどが散乱していた。泣き声に目を向けると、道端に置かれた酒樽の上に布でくるまれた赤ん坊がいた。赤ん坊は声の限りに泣き叫んでおり、そのすぐ脇では二人の子供が殴り合いをしている。取っ組み合いの喧嘩をしているのは少年と少女のようだ。少年の背後には、同年代くらいの子供たちが見守っているが、少女は一人だった。
よく見ると、少女の方は昨夜会った先住民である気がする。一人で果敢に挑んでいるが、少年の連れと思われる外野たちが、石や木材を少女目がけて投げつけていた。石が少女の手に当たり、体制が崩れた。少年に顔を思い切り蹴り上げられ、足元まで飛ばされてきた少女と目が合った。やはり、昨夜の子で間違いない。
少女が倒れたことで歓声が上がった。
どちらに加担する義理もないのだが、少女を後押ししてあげたい衝動に駆られた。
リズが喧嘩を止めようと何事か言いかけたので、控えるように目配せした。手の甲で鼻血を拭いつつ立ち上がる少女の耳元で囁いた。
“相手は左が弱い。脇腹を攻めたあと、顎を殴ればいい”
少女の表情が一瞬、固くなった。
「うっさいんだよ、バカ」
「いいからやってみなさい」
「ふん」
足をふらふらさせつつ膝に着いた泥をゆっくりと払っている。と、一瞬の不意を突くように男児へと駆け寄った。素早く左の脇腹を殴りつけ、怯んだ少年の顎を目がけて右拳が炸裂した。踵が浮くほどの衝撃を受けた男の子は、糸の切れた人形のようにだらんと崩れ落ちた。背後に控えていた男児たちの間にどよめきが走った。
未だ血走った目をしている少女に睨まれると、諦めに近い声が漏れた。察するに、彼等はただの観客なのだ。石を投げたりするが、拳で立ち向かう勇気もない者たちだった。「まずい」「早く行こう」という言葉を漏らし、そそくさと失神した友を抱えて退散していった。
少女は少年たちが視界から消えるまで威嚇の呼吸を絶やさなかった。しかし彼らが視界から消えると、弱弱しい足取りで泣き叫ぶ赤子の下へ行き、抱き上げてあやし始めた。赤子は腕に抱かれたことでいくらか泣き声を弱めたが、未だ居心地の悪そうな声を上げていた。
「どうして止めてはいけなかったのですか?」
リズは子供同士の喧嘩を止められたことに対し、むくれた声を出した。声には正しい行いのどこに誤りがあったのか答えてほしいという、挑発的な意思が込められていた。
「あそこで止めたら、明日の喧嘩はもっと酷くなるからよ。一対一の喧嘩を外野が穢せば、なんでもありの争いになるの」
「でも、あの子は石を投げられていました」
「それでも、よ。こっちもそれに乗ったら子供の喧嘩で済まなくなる」
オーゼルでそれなりに喧嘩を経験した自分なりの意見を述べた。子供の喧嘩を止めたいリズの気持ちは理解できる。だが、喧嘩にもルールは存在し、それは体験した者でしか知り合えない。賛同が得られるか知れなかったが、リズは反論をせずに頷いて引き下がった。
そんな話をしているうちに、少女は組みひもで赤子を背に負って離れていってしまう。
「ねえ、あんた――」
声をかけたが、少女はこちらを一瞥しただけで走り去った。闇夜に浮かび上がった少女の細い体が目に焼き付いた。背中におわれた赤子の首が走るリズムに合わせて揺れている。赤子が大きく見えたが、少女が小さすぎるのだとわかった。やせ細った体で、よく少年に立ち向かえたものだと思う。少女の背に負われた赤子も、ひどく痩せこけていた。
後を追って路地の方へ入ってみたが、どこを見回しても少女の姿はなかった。夜のパインデールは街灯もなく、不気味な静けさに沈んでいる。
「行きましょう」
リズに言われ、再びオーゼルの中心街へ向けて歩を進めた。
「明日は調べることがありますので、城を離れる許可を」
「かまわないけど、どこ行くの?」
「警察署、死体安置所、墓地ですね。この数日、刃物で殺された人を特定してみます。恨みを持った人間がカルームの仮面を被っているとしたら、これは私怨による殺人です。殺された人物に恨みを持つ者が容疑者となるでしょう」
「私もっ――」
「コゼットちゃんはアカデミーへ」
「なんで」
「遺体を見るのは控えてください。あなたは14歳の子供ですよ」
「遺体は見てきた。吐いたりしないわよ」
「そういうことではありません、こういったことに慣れてほしくないのです……ここは私の我儘と思って聞き入れてください」
強く言い含めるような口ぶりだった。昨晩のベッドでの約束を思い出した私は、彼女に任せることにした。オーゼルのガス灯が、リズのローブの背に細やかな影となって緻密に揺れている。この数年間、私はこの町の路地で殺された人を幾人も見てきた。それもちょうどこんな夜に。死体など、好きこのんで見に行くものではないと思いなおした。




