R.I.P.
夕暮れの匂いがした。東がコバルトに呑まれていき、西の空は焼けていた。ところどころに浮かんでいる雲は桃色に染まり、その下で家路につく人々が石畳を響かせて流れていく。人々の中に紛れて、私は歩いている。夕闇の中を歩いている。
影を追った先はノエルの屋敷だった。
屋敷は暗く沈んでいる。
火災の煤が赤レンガの壁を黒く染めているため、月明かりのない夜は闇に呑まれ、全貌を見ることが難しい。
敵はここにいる。今の状態で挑むのは危険と理解しながらも、足は自然と屋敷へ向いていた。
自分でも理解できない何かが、足を動かしているようだ。体の奥底に沈んでいた感情が溢れて迸るのだ。体が自然と前に進んでいく。
か細い雨が降り出した。稲光が暗雲の下腹を駆け抜けていく。
パッと青白い閃光が、一瞬だけ屋敷を映し出した。
二階の窓辺にノエルがいた。ぼうっとした様子で、稲光を見上げていた。
「ノエル?」
小さく震えた私の声に、ノエルの視線がこちらへ移った。
「ノエル、うそでしょノエル」
ノエルがこちらに向かって手を振っているように見える。思わず手を振り返そうとした時、再び稲光が周囲を照らし出した。ノエルは手を振っているのではなく、こちらへ来いと手招きしていた。そのまま、すうっと後ろへ引くようにして、屋敷の中へ消えてしまった。
そこで私は覚醒した。
これまで夢の中をもがいて進んでいたような感覚が消え、自分の意志で体を動かせるようになっていた。
あの裏路地から一体、どのようにしてここまで来たのか。この屋敷に入るには、鍵のかかった門を通らなければならなかったはず。振り返れば門は固く閉じられており、鍵がかかっているのは明白だった。
何かの魔法で操られているのかもしれない。
そう思い屋敷に向き直った時、影が目の前にいた。驚いて硬直した私の首筋に、両腕が伸びた。
「あぐっ!」
首を絞められたときは、いつもこんな声を上げてしまう。
この屋敷の地下室でも、同じように首を絞められた。
「うっ! うううう!」
あの苦い過去が、活力となり全身に力をみなぎらせた。苦しみと痛みが強くしてくれる。
この化け物を殺す。その意思は風を受けた炭火のように燃え盛る。
青き閃光が迸り、暗雲より一条の光となって降り注いだ。遅れて轟音。
影の脳天から足の先まで、裂くようにして突き破る。
重厚な岩の如く、微動だにしないと思われた掌から解放される。雷を直に受け、悶えながら後退していく。
逃がすものか、と右腕を影に向けた。腕周りを青い稲光が這いまわっている。暗雲の下腹を往く、雷が再び私の手に宿っている。
殺してやる。あの日から何人もの命を奪ったお前を。
「光と轟音、汝、――」
――コゼット
「刃と化して駆け抜けん‼」
――コゼット、お願い
魔法が放たれるその一瞬、風が吹いた。風に乗って、澄んだ声が耳元に届いた。
同時に、放たれた雷が影の胸部を貫いた。
影はゆっくりと、まるでベッドに身を鎮めるようにして倒れ込んだ。
――コゼット――ありがとう
轟音の後は、纏わりつく小雨がシトシトと降りしきる音だけが残った。影は空間から削り取られるように消えていく。
私は今、確かに声を聴いた。あの声は確かに。
「コゼットちゃん」
リズだった。どこから来たのか、いつの間に私の前に降り立っていた。まるで、これ以上影を、見せまいと隠すように。
「・・・・・・リズ」
「無事でしたか・・・・・・良かった、です。本当に」
「リズも、無事だったの」
リズがこんな風に微笑めば、いつもは空気が温かくなるのに。
「ねえ、ねえリズ。私いま聞いた気がして――あり得ないんだけどね、でも――」
「コゼットちゃん」
抱きしめられた。リズの胸は柔らかくて、温かかった。
「終わったんですよ。ですからもう・・・・・・このお話は、これでお終いです」
リズが抱きしめる力を強めた。お守り代わりに、首に下げていた鍵が胸に押し付けられて痛む。ノエルに託された鍵。影はこれを見て苦しんでいるようだった。
「さあ、傷の手当てをしましょう」
宙に生み出された魔方陣。その光は傷を癒すと同時、意識をも奪っていく。深い谷へ落ちていくように、私はそのまま眠りに落ちた。
私は歩いている。夕闇の中を歩いている。
甘い果実の香りにつられて隣を見るとノエルがいた。首に下げていた鍵を返そうとすると、彼女は首を横に振った。何か話そうとしたが、彼女は人差し指を唇に押し当てて微笑んだ。
ノエルは去っていく。夕闇の中を、黄金色に輝く太陽に向かって歩いていく。私はそれを見送りながら、「また明日」と呟いた。小さくなっていくノエルは振り返らなかった。




