Spider at night
東部の辺境に住む少女がいた。
少女の家は代々、狩りを生業にしていた。
父や兄が夕暮れに仕留めた獲物と共に帰宅する時、少女の胸は高鳴った。人よりも遥かに素早く、力のある獣を仕留める父と兄が誇らしかった。
いつしか、自らもまた狩人になりたいという願望が生まれた。
女は家を守れ、と父は渋い顔をしたが兄は狩猟ナイフをくれた。
少女は狩りにのめり込んでいった。獲物の習性を記憶し、隙のできる瞬間を狙い、全力で挑み続けた。
だが、狩猟の女神はいつも微笑まなかった。
少女の細腕では、鎧のごとき剛毛を備える獣の背に刃は通らない。
ある日のこと、少女は猪に正面から挑んだ。これまで一匹として獲物を狩れなかった焦りと燻りが少女の心を毒し、無謀な展開へと誘ったのである。
深手を負わなかったのは幸運であった。
お前は家にいろ、今のままでは虫も殺せん。
猪の牙に裂かれたわき腹よりも、父の言葉が牙となって胸を食い破った。
駆けだした少女は夜の森へ入るなり、夢中でナイフを振り回した。悔しさと情けなさを抑え込めず、無我夢中といった風にナイフを振っていると、ある木の枝に刃を取られてしまった。
引き抜こうとしても、刃は思いのほか深々と切り込んで抜けず、バサバサと枝が揺れるだけだった。
柄を両手で握り、力の限り引き抜こうとした時、ある異変に気付く。
木の間から降り注ぐ月明かりが、時折遮断される。頭上で何かが揺れ、月明かりに被るのだ。
枝を揺らすと、それもまた揺れていた。
見上げると、一本の線が空から降り注いでいる。月明かりに反射する線は、妖精が落とした銀髪の一部のようであった。
次第に慣れてきた目が、その正体を見抜く。
それは蜘蛛の糸であった。
糸の先を辿っていくと、がんじがらめにされた鳥がいた。これが先刻より揺れていたのだ。
べっとりとした糸で全身を覆われた鳥と目が合った。黒いボタンのような瞳に意識の輝きはない。死んだ獣のする黒い澱みがあるのみ。
少女はしりもちをついた。
信じられない。蜘蛛は昆虫を喰らうものと認識していた。まさか鳥を捕らえるとは。
いつしか音もなく、蜘蛛が銀の糸を下ってきて鳥を掴んだ。光る眼が、獲物の所有権を主張していた。
巨大蜘蛛ではない。せいぜい父の手くらいの大きさだ。それが鳥を捕らえたのだ。
ナイフが枝から落ち、少女の眼前で大地に突き刺さった。
ナイフを拾い上げ、少女は走った。
蜘蛛糸は強大な相手をも拘束することができるのだ。この時の出会いが、魔法に大きくかかわることになる。
印象は揺るがぬ意思へと変わり、少女の魔法をより強力なものとした。
また、狩人として得た知識も大きい。天候、気温、土地、獲物の状態、武器の状態、自身の体調や精神。獲物の急所を突くまでには、様々な要因が複雑に絡み合う。どこかで間違えれば、追いつめられるのはこちらになる。
あらゆる状況に対応するため、手数は多い方が良い。これなどは兄の言葉である。
ゆえに蜘蛛糸の魔法は応用が利くように作り上げた。糸はただ粘着して拘束するだけではない。指から放たれる糸にはそれぞれ特性があり、合わせて十の特性を持つ。この魔法で切り抜けられぬ窮地はなかった。老婆は常に狩る側として歩んできたのである。
・・・・・・・・・・・・・
「さて、続けるか?」
コゼットが走り去るのを待ち、マダム・ウェブはエリザヴェートへ問う。
振り返ったエリザヴェートの目は鋭さが増していた。
「先ほどの一手・・・・・・あれはコゼットちゃんを・・・・・・狙ったものですね」
「必要なのは姫君のみ、そう言われている」
「あなたは・・・・・・コゼットちゃんに刃を向けました」
「姫君がお望みなら、あの娘は生かしておいてもよいが?」
突如、エリザヴェートの背後で火花が散った。凄まじい戛然が大気を揺らし、斬鉄の風はこめかみから垂れるエリザヴェートの髪を舞い上がらせるほど。
直後、ナイフが大地に突き刺さった。その刀身は闇夜に紛れるよう、黒く塗りつぶされている。それを横目で見やるエリザヴェートは冷めた口調で言う。
「話で隙を作り・・・・・・背後から夜襲用の黒塗りナイフを投擲する。なんとも・・・・・・狩人らしい、やり方です」
「そちらも貴族らしい。背中のギル=ガラド、錆びてはおらぬようだ」
マダム・ウェブは微笑む。
一撃で仕留められなかったことを歯噛みするのと同時に、納得もしていた。
吸血鬼を甘く見てはならない。幾度となく自らの心に戒めてきた文言が再び頭蓋の奥に蘇る。
蜘蛛は巣を張り、獲物が掛かるのを待つ。ひとたび獲物が巣へ踏み込めば、たちまちそこは主の独壇場となる・・・・・・はずであった。
上空に張り巡らした蜘蛛糸は、秘匿の魔方陣により巧みに隠してある。一流の魔法使いであっても、注視しなければ見破れないほどだ。上空を気にする余裕を与えないはずであったが、いつ気づかれたのか。
上には蜘蛛糸で罠を仕掛けていた。柔軟性のある糸にナイフを結び付け、意志に応じて射出する仕組みだ。これを予想できた者は数えるほどしかいなかった。ナイフは深々と獲物の頸椎に突き刺さり、刃に仕込ませた毒で身動きを封じるはずであった。
「姫君はすでに我が結界の内部、狩人の魔法を堪能していただこうか」
マダム・ウェブは常人を超越する跳躍を見せ、宙空に張り巡らせていた糸の上に着地していた。
「あなたについて行くつもりはありません・・・・・・退いていただけないでしょうか」
「お互い、ここで口を閉じようじゃないか」
老婆が指を弾くと、石畳や壁面、果ては空に至るまで無数の魔方陣が現れた。そこから数百条の糸が噴出した。弾丸のごとき糸は壁や石畳に張り付き、その軌跡を示すように白銀の糸がピンと張られている。鉄の如き強度と柔軟性を持ち合わせた檻が、瞬く間にエリザヴェートの周囲を覆っていく。
「そうですか」
エリザヴェートの眼差しが怜悧なものから峻烈なそれへと変わる。瞬く間に蜘蛛糸が夜空を覆っていくのに身構える素振りすら見せず、優雅な所作で空に手を掲げた。透明なガラス瓶が陽光に反射するかのような、微かな光が現れた直後、それはすでに手中に収まっていた。
彼女が取り出したのは、一冊の本である。
既に前後左右と糸が退路を塞いでしまった。
それでも焦りを微塵も見せない。
周囲の糸を警戒しつつ、しっとりとした指先でページを捲る。本のページを捲る手は緩やかなものだ。
先に仕掛けたのはマダム・ウェブである。
「さて、今度は数を増やそうか」
老婆が手を振ると、先刻よりも多くのナイフが上空より投擲された。
直線的な投擲ではない。ナイフは無数に張り巡らされた糸に弾かれることで軌道を変え、不規則に飛び回る。最初は二つ三つ、続いて五つ六つ、やがて十を超え二十に迫る。見る間に増えていく。羽虫が群がるように、エリザヴェートの周囲を黒き刃が踊り狂った。
先刻弾いたナイフからは鼻を突く異臭が立ち上っている。
毒だ、かすっただけでも致命傷になる。
「これほどの数・・・・・・入念に準備されていたのですね」
エリザヴェートは恐れることなく、飛び交うナイフへ向かって歩みだした。そしてページを捲りながら詠唱を唱える。
バギンッ! と。小枝が裂かれるようにしてナイフが割れた。
唱えた詠唱は風呼び。白き嵐は空を裂き、刃もろとも空間を両断した。
「私は夜の方がかえって目が効く。黒塗りのナイフなど無意味です」
瞳のみを動かして、ナイフの数を掌握。その後は透き通る声での詠唱。そう、まるで歌のようだった。歌声は風を起こし、炎を呼び、砂塵を固めて盾とした。あらゆる角度から迫りくるナイフのほとんどが割られ、或いは溶かされて散っていく。
「寝起きとはいえ、容易くはないか」
老婆はつぶやきつつ、状況を整理する。
エリザヴェートの魔法はナイフを破壊するが、蜘蛛糸を蹴散らすことはできないようだ。
それもそのはず。糸は長年貯め込んだ老婆の魔力から成っており、数秒程度で練り上げる詠唱魔法くらいなら容易に耐えうる。
吸血鬼といえども糸は破壊できない。老婆の中に、優越感が生まれた。
糸が残っているのなら、まだ作戦は練れる。
エリザヴェートは高らかに詠唱を続けている。ナイフの軌道を瞬時に見極めての迎撃。詠唱の速度と威力。加えて本のページを捲りつつ、こちらの位置も正確に把握し警戒を怠っていない。
「少し早いが」
彼女が指を弾いた瞬間、ピンと張りつめていた白い糸が黄金に変わり稲穂のように風に揺らぎだした。
「早めに摘もう。その手足、なくても困らないだろう」
マダム・ウェブの金色の糸は蜘蛛糸でありながら粘着しない。変わりに触れれば血肉を溶かすという、特別性である。本来、蜘蛛が持つ消化液と糸を融合させた魔法だ。その殺人糸が夜の空を覆うように、黄金の幾何学模様を作り出した。
剣で真っ向から斬りつけようとも、盾で身を守ろうとも無駄! 風に揺れる黄金の糸は、全てを一刀両断する強靭な刃と同義!
この魔法は仲間にすら見せていない、今まで見たものは皆、白煙を上げて溶解した。
「惑い苦しめ」
優越感――そして、エリザヴェートがどのように対処するのかという好奇心から、そんな言葉が零れ落ちたのだが――
エリザヴェートは本を閉じ、ある魔方陣を描いた。老婆も目にしたことのない独特の式と紋章で組み上げられたものである。描いた魔方陣を手で払って消すと同時に、彼女は片足を引き、両手でスカートの裾をつまんで軽く持ち上げた。淑女の挨拶であるカーテシー。しかし、直後にスカートの中から現れた無数の生物は、おおよそ淑女とは結び付かない獰猛なもの。
コウモリだ!
騒々しい羽音と、ガラスを裂くような咆哮と共に、数百ともいえるコウモリが飛び出したのだ。
黄金の糸に触れたコウモリはその場で溶解し、白煙と共に消え去った。
が、いつからかコウモリの羽が生み出す風圧が黄金の糸を押し返し始めた。次第に糸の隙間を縫ってきたおびただしいコウモリが、老婆の周囲を覆い始める。
コウモリは円形に飛びながら老婆を囲む。まるで井戸の底に突き落とされたように、頭上のみがぽっかりと開けていた。
目くらましとは笑止とばかりに、張り巡らせた糸に向け、再び指を弾こうとした時、その腕は肘から先を斬り落とされていた。
驚愕と、うめき声をあげる間もなく、両頬をしっとりとした掌に包み込まれる。
「終わりです」
いつの間に目前に現れたエリザヴェートであった。
次の瞬間、老婆は空中に投げ出され、凄まじい勢いで地面へ突き落とされた。
その衝撃は石畳を砕き、老婆の体を埋め込ませるほどの威力であった。老婆の吐血と同時に、張り巡らせた蜘蛛糸は消え、コウモリは彼方へと飛び去って行く。
「姫君、その腕、錆びて・・・・・・いなかったか」
老婆のしゃがれた声がむなしく響く。切り落とされた腕――その先に握られていたナイフが鋭い金属音と共に大地へと突き刺さった。
「虫の技では・・・・・・私は倒せません」
優雅に着地したエリザヴェートが言う。
「どうかね――驕りは禁物と、教わっていたはずだが?」
老婆は大地に突き刺さったナイフを見やる。
最初にエリザヴェートの腕をかすめた刃には、無数の卵が塗り付けてあった。皮膚を切り裂くと同時に対象の血中へと潜り、ものの数分で何千という蜘蛛の子供が卵からかえる。
蜘蛛の幼虫は、体の隅々まで侵食して対象の自由を奪うのである。
「さあ、もう孵る頃合いだ。最初の攻撃を受けた時点で、姫君は詰んでいたのよ」
老婆がしゃがれた声で高らかに笑うのを、エリザヴェートは冷めた視線で一蹴した。
「卵なら、既に血中で焼き尽くしました。私はヴァンパイアです・・・・・・血の操作なら、誰よりも心得ています。血中に異物を混ぜようと無駄なこと・・・・・・教わらなかったのですか? ヴェロニカに・・・・・・」
“ヴェロニカ“という言葉が出た時、エリザヴェートは目を見開いた。記憶を失っていたはずなのに、自然と口から零れた名前。その名が何を意味するのか、瞬時に理解したといった風であった。
一瞬の隙を見逃す老婆ではない。
「私は第一陣に過ぎない、他の奴らは私ほど甘くはないよ」
最後の言葉と共に、現れた魔方陣。そこから飛び出した蜘蛛糸がエリザヴェートの体に巻き付き、そして星屑の如き光が放たれたと同時。周囲一帯は人知を超えた炎の渦に巻き込まれたのである。




