Memory to return
ひっそりとした森を抜けた先には、小高い丘があった。木々の影から解放され、世界に光が戻る。北から流れてくる冷たい風が足元の草を揺らし、肌に刺すような痛みをもたらした。だがそれは空を透き通るものにしてくれる清風でもあった。空には澱みがない。やがて訪れる夜を告げるように、藍色に染まり、星々が光っていた。丘の背後では、地平線の底へ沈みゆこうとする陽。徐々に弱まる陽の淡い光は、黒々とした森の木々を縁取りつつ、雲の底をバラ色に染めた。
風がびゅうびゅうと吹き荒れている。
暗く沈んでゆく森。そこで身を寄せ合う鳥たちはわかっていた。嵐がやってくる。
それは丘の先からではない。先へと歩む者が、嵐をもたらすのだ。
突如、衝撃波が辺りを覆った。
風とはまた違う、大気のうねりが森を飲み込む。
木にとまっていたフクロウは羽を広げて飛び去る。丘の岩の裂け目から何十というコウモリが飛び出し、その者の周囲を囲んだ。黒い大群が、淡い夕陽を飲み込む。そして陽は沈み、黒に墜ちた世界で、その者は微笑む――。
・・・・・・・・・・・・・・
そこでハッと目を覚ました。鼓動は早まり、額は汗で湿っている。水中から浮上したように、息苦しかった。
リズは慌てて周囲を見回す。ここはコゼットに当てがわれた部屋で、自分はベッドの上にいる。
そこでようやく気分が落ち着いた。
はいでしまった毛布を体にかけ、瞳を閉じる。
今夜、コゼットとオーゼル街へ行きダークシーカーを仕留めると約束した。夜になるまで自室で休もうとベッドに横になり、いつの間にか眠ってしまったらしい。覚醒した脳が、徐々に記憶を蘇らせた。
今の夢は何だったのだろう。
自分の過去に関係があるのか。或いは、ダークシーカーのことを考えていたからだろうか。
諦めて身を起こす。もう、とても眠れない。それに妙な夢のせいで、心細くてたまらなかった。
リズは燭台に灯をともし、ガウンを羽織った。それから部屋を出て、ゼットの部屋へ向かう。
扉をたたくと、中から「どうぞ」という声が聞こえた。
その声が聞けただけで、体の淵から恐怖が拭われていくようだった。
「すみません、コゼットちゃん」
部屋に入ってきたリズはどこか気まずそうにして、ドアの前で石像みたいになって動かない。
「座ったら?」
私が言うと、リズは手近な椅子へ身を縮めるようにして座った。どうも様子がおかしい。ずっと伏し目がちだし、いつも整っている髪が乱れている。どうやら寝起きのようだ。
私の視線に気づいたリズは、失態に気づいたようで、乱れた髪を両手で整えた。
「お恥ずかしいです」
リズは笑っていたが、その奥に普段は見せない怯えが見え隠れしている。尋ねてきたのに、要件を言い出さないし。口では言えない、何かがあったのだろう。
私は彼女の雇用主だ。彼女の気持ちを慮り、配慮する義務がある。
読んでいた本を閉じ、クローゼットへ向かう。
「ちょうどよかったわ。私から呼びに行こうと思ってたの」
「はい」
「あんたにプレゼントがあるわ」
「はい、プレゼント――ですか?」
「そうよ」
クローゼットを開け、ハンガーにかかっていたそれを取り出す。
黒い貴婦人風のドレスは首元まできっちりと覆われているものだ。そして、束髪用の黄金の簪。その一式をリズに手渡す。
「これを・・・・・・私にくださるのですか?」
「今夜から着て。バルヒェット家にいるのなら、一級品を身に着けないとね。それと、ドレスは私のと同じで改良してあるから、見た目ほど動きづらくないわ。機動性重視で軽いし、ちゃちなナイフくらいなら通さない程度には頑丈よ」
今のリズのドレスは、男を誘惑しすぎてしまうように思える。これを身に着ければ、隙というものがなくなるだろう。これで男たちの下卑た視線を浴びることもない。眠らずに働いた仕立て屋に感謝だ。
「ありがとうございます・・・・・・嬉しい。嬉しいです」
幾分か気分が和らいだのか、リズの肩から何かがスッと抜けていくのが分かった。
「あとは血かしら?」
「はい?」
「あら違うの? 言い出せないのかと思って私から言ったんだけど」
「・・・・・・いいえ、いただきたいです」
「首はなしね。さあ、どうぞ」
左手の袖を、二の腕までたくし上げる。
リズはこめかみにかかる髪をあげ、静かに牙を立てた。
「んっ」
二本の鋭利な牙に皮膚を貫かれる痛み。顔を顰めつつも、心の奥底では悦楽が染み出していた。
黒く染まりたい。
ああ、穢れたい。穢されたいんだ私。
惨めに穢して。それで、心が満たされるの。潤うの。
願望を叶えて。
思いを飲み込み、唇をかみしめてリズの吸血を受け入れる。こうして血を求めるように、私の純潔も奪えばいいのに。黒い底へ堕ちてしまいたい、いつかそんな日が来ればいいけれど。
「ぷあっ、んっ」
一瞬だけリズが牙を抜いた。切なげなぬるい吐息と共に、細めた舌先で傷口をつつかれる。
息継ぎをしているのだろうか。ぼんやりとその光景を見ていたら、傷口から漏れた血が、すうっと肌をつたって肘まで流れていった。リズは舌先でそれを絡めとり、再び血を吸い始めた。
皮膚を貫かれた痛みにも慣れ、胸の奥にむず痒い疼きが生まれる。この昂りが心地よい。血を吸われるのも悪くないとさえ思えるが、これは吸血鬼が獲物にかける魔法なのだろうか。それとも、こんな性格をしている私だけなのか。
血を吸うリズを見る。
今までは首を噛まれていたからわからなかったが、今はリズの表情が良く見える。なんとも、美味しそうに飲むものだ。牛馬のようにむさぼるのではなく、瞳を閉じて静かに咀嚼する様は絵画を見るような美しさがあった。
穢されたいなどと思っている、黒い私とは大違いだ。
この人はもう誰かの手に染められたことがあるのだろうか。純白の貴婦人のように、美しいこの人は。
なんとなくリズの手を握ってみる。彼女は閉じていた目をうっすらと開いて私を見る。すぐにまた瞳を閉じて咀嚼し始めたが、その頬が紅潮していた。
リズは黒いドレスを身にまとった。
黒髪であるため、全体が黒一色となり陰鬱な雰囲気になってしまった。胸もとに一点、何か装飾品があればと考え、エメラルドグリーンの宝石の飾りをつけさせた。
流してあった髪を夜会結びにし、うなじの上の方まで高くまとめて最後に金の簪を刺して留めた。
「いかがでしょうか?」
そう尋ねるリズは、どこから見てもやんごとなき身分の貴婦人だ。ぴっちりとしたドレス姿に隙が無い。思った通りだ。
「いいわ。どこからどう見てもバルヒェット家の人間ね」
「記憶のない私が言うのもなんですが・・・・・・このように・・・・・・上等なドレスは着たことがありません」
「手袋と帽子は間に合わなかったの。悪いけどしばらく・・・・・・」
こちらの話など耳に届いていないようだった。堂々としていればよいのだが、どこか落ち着かない様子だ。オロオロしつつ鏡の前で、前後左右と映る姿を確認している。
黒髪をまとめ上げたことで、白い首筋が露になった。うなじから垂れる髪は絹糸のように美しく映えている。紺碧の瞳に、胸元のエメラルドグリーン。肌に密着するドレスは、逆に胸元を強調している――ような。そして今のように落ち着かない様子では、逆に狼どもの目を引きそうな気もしてきた。
「あんたは綺麗なんだから、堂々としていればいいの」
迷いを断つため、自分自身にも向けていった言葉であったが、リズはいちいち反応して頬を染めて俯く。
話はお終いと言わんばかりに背を向け、私も着替えることにした。
動きやすさを重視して仕立てられたドレスは、人の手を借りずとも着ることができる。
深緑のドレスを頭からすっぽりとかぶる。ゆったりと美しいヒダをもつドレープのロングスカートドレス。胸元は純白のキャバリア・ブラウス仕立てだ。優雅な雰囲気を醸し出すドレスであるが、素早く動くとスカートのピンが外れてスリットが現れる仕組みで、銃弾やナイフも通さない頑丈な作りだ。戦闘用にあつらえた特別性である。
着替え終わってリズを見ると、未だに自分のドレスに見入っている。袖口のトリプルレースや、スカートのフリルが珍しいようだった。




