Moonlight
四年前、ノエルが私の家に泊まりに来た日のことを思い出す。
私の家に来る前、大冒険をしてきたのだとノエルは話していた。彼女は魔法の書物とメモの入った鞄を手にどこかへ赴き、魔法へと繋がる鍵を手に入れた。あと少しで、魔法への手がかりが掴めるところまできていたのだと思う。
魔法の情報が多く詰め込まれた鞄と、何かを隠している(?)秘密の鍵。その二つは現在、私の手元にある。いずれもノエルがうまく隠し、私に残してくれたためだ。
この二つが魔法を知ることの唯一の手がかりだった。暗号化された文章を解読することや、鍵の製造元を調べるのに数年を要した。
だが、ついに。ノエルが目指していたと思われる場所を突き止めることができたのだ。
私は漆黒の闇の中を進んでいる。
ここは聖女エリザヴェートの名がつけられた聖堂、その地下である。
礼拝堂に並べられた長椅子、そのうちの一つを決められた方向へ動かすと、地下へと続く扉が現れる仕組みだった。
魔法に関するものを聖堂の地下へ隠すとは、意表をついているというか、なかなかに皮肉めいているというか。
地下扉の奥は漆黒の闇で覆われていた。下へと続く階段を一歩ずつ慎重に下る。ブーツの踵が階段を踏むたび、か細い音が響いて、すぐに闇の中へ吸い込まれていく。階段の先は、さらに闇が深いことを思わせるほどに暗かった。
手にしたランプには琥珀色に輝く光が灯っているものの、ゆらゆらと形を変える小さな光はどこか頼りない。
ぴちょん、と水滴が首筋にあたり、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。地下特有の湿り気があり、常に雫が降り注いでいるのだ。
鎖骨にかかる金のチェーン。チェーンの先についている鍵は、ドレスの下に隠してある。胸にあたる、固く小さな鍵を握りしめると勇気が湧いてくる気がした。
階段を降りきった先には扉があった。見るからに分厚そうな鋼鉄の扉は、どこか異様な雰囲気を醸し出している。地下水で濡れそぼった扉には神を象徴する紋章が刻まれている。ノエルの背中にあった焼き印と同じ、あの紋章。それがランプの灯を受けてテラテラと怪しく光っていた。
「開けるよ、ノエル」
鍵を取り出し、扉の鍵穴へ差し込んだ。
鍵を回すと、ガコオンという武骨な音が響く。
手で押してみると、見かけによらず扉はすんなりと開かれた。
開かれた扉の奥からは爽やかな空気が漂ってきた。ジメジメとした地下の空気に慣れ始めた頬に、新緑の風のようなものが横切った。爽やかな風に緩みかけた途端、目の前に現れたものを見てハッとした。
天井にある竪穴から差し込む月の光は、部屋の中心にある石の棺へ真っ直ぐに降り注いでいた。
棺は遺体を納めるもの。すなわちここは死者の間。生者である私にとって異界も同然。畏怖すべき場所であるのに、手にしたランプよりも明るい月光と、それを一身に受ける石棺がどこか美しく思えた。ここだけは湿った空気が取り払われ、月明かりの差す平原にいるようだ。なぜだろう、こんな場所なのに心は穏やかだ。けれど、胸が熱い。吸い寄せられるようにして光の下へ踏み出していく。
石棺には神の紋章が刻まれていた。その周りには見たこともない文字があった。煤を被っていてよく見えなかったので、指先でそれを掃おうと棺に触れた時――
ズン! と大気が大きく震えた。
そして棺の蓋が、ゆっくりと横滑りしていった。
手を触れていないのに蓋が開いていく。その光景に私の体は固まってしまった。
恐ろしいことが起こる予感がする。今ならば逃げられる、目を閉じれば棺の中を見なくても済む。衝撃の展開から逃れる術はいくらでもあったのに、私はその場から動かず、拳を強く握りしめて、蓋が開ききるのをじっと見つめていた。
蓋が横にずれるごとに棺の中の闇は拭われ、白い月明かりが照らし出していく。蓋が半分ほど開いた時、それを見た私は悲鳴を上げそうになった。
棺には女性が入っていた。
死した者とはとても思えない、温みある血の通う生者の様相の女性が。
胸元まで伸びた美しく映える黒髪。身に纏う貴婦人風のドレス。見たところ、十代の後半から二十代の前半くらいの年齢。
私はこの人を見たことがある。
いや会っている。
ずっと私の夢に出てきた、あの女性ではないか!
唖然としているうちに、横滑りしていた棺の蓋が音を立てて床に落ちた。
思いもしなかった状況に鼓動の針が振り切れそうだ。
夢の中で会っていた人が現実に、ましてこのような場所で出会ってしまうなどと、だれが想像できようか。得体のしれない恐ろしさが全身に覆いかぶさってくる。
全力で逃げ去りたいが、それでは何のためにここへ来たのかわからなくなる。衝動を抑えつつ、手にしたランプを床に置く。指先が震えて、うっかりランプを落としてしまったらことだ。差し込む月明かりのおかげで光は十分だった。
一呼吸置いた後、思い切って棺の中の女性をのぞき込んでみた。
お腹の前で両手の指を合わせ、瞳を閉じている姿はただ眠っているようにしか見えない。組み合わせた指は白くてか細い。なんて美しい手だろう。染みも皺もなく、濡れたように輝く爪は黄金の蜂蜜のようだ。
夢の中で、あの手が頭を撫でてくれていたのだ。幾度となく夢の中で、髪や頭を撫でてもらった。この美しい手はそうそう忘れられるものではない。見間違いではない。夢であった女性本人である。
この人はいったい何だ。なぜこの地下室に埋葬されているのだろう。
いや、そもそも亡くなっているのだろうか。陶磁器のように白い肌ではあるが、うっすらと血の気があるように見える。
視線を上げ、顔を見てみる。顔立ちは美貌そのもの。美を追求して作られた人形のようだ。夢の中ではじっくりと見られなかったから、ついまじまじとのぞき込んでしまう。と、女性の眉間にしわが寄った。
途端に心臓がはねた。
「うっ」
その声は私ではなく、棺の女性が発したものだ。
――生きている
生きていることを知った途端、つま先から首筋にかけて強烈な怖気が駆け巡った。
「ここは、私は――」
女性が喋りながら上体を起こした。掌をこめかみにあて、ふらつく頭を支えている。
ゆっくりと開かれた双眸は紺碧だ。瞳の色まで夢のままである。
私は生唾を飲み込んだ。
震える足に力を入れ必死に立ち続けた私は、強張った表情をしていたに違いない。薄目を開けた女性は、どこか心配そうにこちらを見ていた。
「あなたは?」
女性の質問に、私は一声も上げることができなかった。
夢では優しかった女性だが、今目の前にいる女性は危険であるかもしれない。
太ももにある隠しナイフを取り出そうとした時、女性が小さなうめき声を上げて蹲った。
「私は、私はまた・・・・・・」
何やら呟いた後、はたと我に返ったような素振りを見せた。自らを抱きしめ、ゆっくりと身を引いた。
女性はジッと私の瞳を見つめていた。私も目を見開き、その瞳を見返した。
愁いを含んだ表情が美しい。何もかも夢のままだった。
「あ、あなたは誰ですか」
掠れた声で女性が言う。
声には怯えと、哀願が含まれていたように感じた。私が危険な人物ではないように、と祈っているようだ。邪気のない澄んだ瞳のまま、震えだしそうな体を抱きしめている。
こういうのを毒気が抜かれる、というのだろうか。私からすれば棺に眠っていた女性の方が恐ろしいのだが、彼女は私を恐れているようだった。
「私のこと、怖いの?」
私の言葉に女性は戸惑いつつも、注意深く見ていなければわからないほど小さく頷いた。
恐らく、この人は危険ではない。私はこうした直感を信じるタイプだ。スカート越しに触れていた隠しナイフから手を離した。
そして深呼吸をする。
自分から名乗る前に、私の名を聞いた無礼は許そう。今はこの女性に歩み寄る努力をしてみようと思った。
「私はコゼット、コゼット・バルヒェットよ」
「・・・・・・あなたが私を目覚めさせたのですか?」
「私は何もしてない、この部屋に入っただけよ。あなたの名前は?」
「名前」
女性は口を開きかけたが、すぐに目を細めてうなだれてしまった。そして、不安そうな表情で私を見つめて言った。
「覚えていません。自分が誰であるのかもわからない」
そう言って俯く。
心細そうな空気を背に負って俯く様は、迷子になって怯える子供のようだった。
いや。自分の名前も、誰であるかもわからないのだ。比喩ではなく、本当に迷子だ。
「どうしてこの棺に入っていたの?」
「わかりません」
「なら、何か思い出せることは? 何かあるでしょう」
「自分が何者であるのか、そしてなぜここに入っていたのか、ということ以外は覚えています」
「何者であるかわからない、か。それが一番知りたいんだけど」
「すみません」
「いいわ。いつからこの棺にいたのかは覚えてる?」
「答えるために確認したいのですが――今は何年の何月でしょうか」
「1792年10月」
「随分と経っています」
「そんなに長い間、この棺にいたの? あなたは生きているし、見た感じだと健康そのものよ?」
「この棺にはそのような魔法が施されていたのでしょう」
魔法という言葉が出た。私の鼓動が高鳴る。
「魔法のことがわかるのね」
「は、はい」
身を乗り出した私を見て女性が身を引く。
「魔法に関することは覚えているってことでしょ? 私は魔法を習得する手がかりがあると思ってここへ来たの。あなた魔法は使える?」
女性はしばらくためらっていたが、やがておずおずと頷いた。
「私は魔法を覚えたい、覚えなくちゃいけないの」
「魔法を」
「私に協力してほしい」
女性はこちらの顔をまじまじと見つめた。何か思うところがあったのか、床に落ちた棺の蓋へ視線を逸らした。
「うっすらと覚えています。私に魔法の伝授を乞う方はこれまでに大勢おりました。世の情理を曲げる力を欲する者は、少なからず野望を抱いております。そうした方々に、魔法を教えることを拒んできたのだと思います」
「ちょっと待って、私は――」
「なので、この棺なのでしょう」
「え、棺?」
「この棺は誰もが開けられるわけではないようです。蓋に刻まれている文字は単純ではありますが、破ることの難しい魔法の言葉。つまり――」
女性は再び私を見た。
「選ばれし者のみが開けられるということです。あなたはそれを開き、私を目覚めさせた」
「大げさね、何もしてないって言ったでしょ」
「触れませんでしたか? この棺に」
女性の細い指先が、棺の淵をなぞる。
「ちょっと触れたけど。そしたら棺が勝手に開いたの」
「他の人が”ちょっと触れた“りしたら命を奪われます。それほど危険な魔法ですが、あなたは生きています」
さらりと恐ろしいことを言う。
「冗談はやめて、私はまだ魔法をほとんど使えていないのよ。そんな私が」
「冗談は苦手です」
女性は容赦のないように云った。
「この棺にかけられていた魔法は誰が施したものかわかりませんが、恐らく私の力が悪用されるのを恐れた人でしょう。そして、選ばれし者だけが解除できるようにした」
「力の悪用って。あなたはそんなにすごい人なの?」
「魔法に関しては、そこそこかと」
「それは覚えてるんだ」
「はい」
自分が何者かわからないのに、魔法のことは覚えている。魔法使いとしてはそこそこだと言う。魔法使いにも格というものがあるのなら、どの程度のものなのだろう。それを聞こうとした瞬間、足元に置いてあったランプの灯が揺らめいた。燃える炎が弱くなってきている。ここにいる時間はあまりないようだ。
喉元まできていた質問を飲み込む。女性は手を膝の上で抱えたまま黙っている。
「聞いてほしいの」
「はい、なんでしょう」
「正直なところ、自分が何者であるかわからないあなたのことを私はまだ信用していないわ」
女性は沈黙して、私の言葉を受け止めている。
「けど、この部屋へ繋がる鍵を私に託してくれた友人のことは信頼している。そこにいたあなたのことも信じてみる。そういうことにしておくわ。あなたも私のことは信じられないだろうけど、ここにいても仕方ないわよね。だから、私と一緒に来なさい」
私が差し出した手をしばし見つめ、女性はそれに答えてくれた。
「私はあなたを信じていますよ、この棺を開いたあなたに。私の答えは決まっています。あなたについていくことにします」
私たちは互いを知らない。だが、この月光の差す地下室で巡り合えた。この邂逅が私たちの絆であったのかもしれない。小さく微笑み合いながら、互いの手を取った。
「じゃあ行きましょう、あまり時間がないの」
私は女性の手を引き、棺の中から出した。
床に立った女性は私よりも背が高い。女性の胸のあたりに私の顔があるため、話すたびに見上げることになりそうだ。
「行きましょ」
足元のランプを拾い、出口に向かって歩き出す。女性は手を握ったまま黙ってついて来た。
「私のうちで暮らせばいいわ。そこでこれからのこととか色々と話したい。あなたのことも知りたいし。ああ、そうだ」
立ち止まって振り返ると、女性はキョトンとした顔をした。
「あなたのこと何て呼んだらいい?」
「名前ですか・・・・・・私は覚えておりませんので、バルヒェット様のお好きなように」
「バルヒェット様って、なんでファミリーネーム? 私の家に来たらみんなバルヒェットよ。ファーストネームで呼んでくれてかまわない」
「失礼しました、コゼット様」
「どうして”様”なんてつけるのよ?」
「私を目覚めさせてくれた方です。敬意を忘れぬようにと――」
「いいわよ、そんなの。あなたは従者ではないんだし、普通に呼んで」
「はあ」
女性は困ったというような表情で俯いてしまった。
「まあいいわ、あなたの名前ね。ええと、そうねえ」
切り出したものの、良い名前の案などまるで考えていなかった。
「うーん、と」
こういうのは直感で良いのだろうか。それならよい名前がある。
「エリザヴェート、はどう?」
「エリザヴェート」
「ええ。この聖堂の名前がエリザヴェートだし。それと決めた理由がもう一つあるわ。あなたのことはリズって呼ぶ」
「リズ」
「エリザヴェートだから、リズ。リズって言葉はね、私の国で”美しい秋”を意味するの。今の季節とあなたの見た目にピッタリだと思ったから」
女性は黙って私を見つめたまま何も言わなかった。その瞳の端に、透明に艶めく水がたまり始め、深く目を閉じると同時、頬を伝って流れ落ちた。
まるで子供の涙のように大粒で、それは次々に青い瞳から流れ落ちた。
「どうしたの? 何か気に障った? それともどこか痛いの?」
年上の女性が泣く姿というのはめったに見ない。どうしたものかと悩んだが、躊躇いつつも肩や腕をさすってあげた。
「ごめんなさい、私にもわかりません。ただ、涙が溢れてくるのです」
しゃくりあげながら言う。
零れる涙を指で拭いきれなくなり、ついに顔を手で覆ってしゃがみ込んでしまった。
消えそうなランプを床に置き、膝をついて頭を撫でてあげた。夢とあべこべだが、私はずっとこの人に寂しさを消してもらっていた。ここで小さな恩返しができるのなら、それもよいと思えた。
「わからないことはないはずでしょ。何か感じたから、涙がこぼれるのよ」
すると女性は綺麗な顔を上げ、再び私をジッと見つめた。
「あなたが、リズと呼んでくれた。そうしたら涙が」
女性は――リズはそう言った。




