公園
雨は止んだのだろうか。雨音が響かなくなっているように思う。思い切って耳にさしていたイヤフォンを引き抜いた。まだ少し降っているようだ。雨だれの音が窓の方から聞こえる。
たまらず簡単に上着を羽織って家を出た。雨音が聞こえる日は家に一人では居たくなかった。
いつもの公園に足が向く。区画整理によってできた新しい住宅街の中に広々とした空間が広がっている。緑の中に幾つかの遊具、全てが月明かりを反射している。
公園の東屋に着く頃には雨はすっかり上がり、月まで出てきていた。満月まであと少し、水分を多く含んだ空気は月の輪郭をぼんやりとさせ幻想的な空間を作っている。
少し寒いかも。
風が吹いてきた。一気に湿度が下がり始める。体感気温が下がって上着の前を握るようにして風から身を守りながらベンチに腰掛けて月を見ていた。
「キレイ」
呟いたのと同時に背後から足音がして、心臓が警戒音を発した。振り向けば通行人がコンビニかどこかに行こうとしているのだろう。部屋着にパーカーにスウェット、サンダルという服装ですぐ近くを歩いていた。
こんな時間にどこへ?そうは思ったものの、自分こそという思いが自嘲を誘う。時計がないので分からないが多分3時頃だろう。この季節は眠れない日々が続いていた。頭を振って思考を変え、もう一度月を見る。月が美しいのは妖しいからなのか、満ち欠けするからなのか。また反射光しか持たないからなのか。
有希は何を見るともなしにそこに座り続けていた。目に映る周りの状況が刻一刻と変わるのは感じている。
雲が晴れ、少しづつ星が見え始める。風が草を揺らし、葉の先についていた雫を振り落としている。早起きの動物たちが動き始める音が聞こえた。
「おい、あんた」
誰かの声が思考を邪魔してくる。こちらから聞こえた気がすると思って首を回すと、さっきの通行人だ。やっぱりコンビニだったんだ、手に提げているビニール袋には緑色で文字が書かれている。
「こんなところにいたら風邪引くぞ。行くところないんなら、来いよ」
状況が理解できず差し出された手をぼんやりと見ていると、その手はさらに近づいて手首を捕まえた。
「何もしねえよ」
それだけ言うと、手首に力がかかり気づいた時には一歩踏み出していた。そしてそのまま手を引かれて住宅街の中を歩いていた。
ガチャガチャと鍵の回る音とともに、引き戸が音を立てる。おばあちゃんの家を思い出させるような玄関だ。古いガラスの入った格子戸は綺麗に手入れがされているようだった。
「上がれよ。今あったかいのいれてやる」
彼はつっかけていたサンダルを音を立てて脱ぐと、着ていたパーカーを脇のコートハンガーにかけて、私にもそうするように指し示した。首を傾げながら頷く。どうしてこうなったんだろう。そう思いながらも上着を脱ぐと数カ所濡れた跡があった。彼はそのまま廊下を直進する。右奥の部屋に入って電気が灯ると途端に人の家に入ってしまったという実感が湧く。足早にその部屋まで行くと「手を洗わせてもらえませんか?」そう言っていた。
「やっと反応が返ってきた」
そう言いながら指し示したのはすぐ近くにあった古いタイプの水道だ。周りを見渡せばそこは台所で、昔あったであろう仕切りを外した状態で広いダイニングキッチンのようにしてある。私は小さな感謝を口にして、蛇口をひねった。三つの突起のついた銀色の蛇口は、夏休みの田舎の風景を連れてきた。暑いと言って寝転んだ畳の感触、おばあちゃんの優しい笑顔、無限の愛情。
「タオルはそれ使って」
その人の声で私は現実に戻ってきた。幸い時間はそんなに経っていないようだ。彼はヤカンを持って私の隣で水道が空くのを待っていた。手を洗うと心が落ち着いた。ふうと息を吐いてから、もう一度「ありがとう」と言うと「コーンスープでいいか?あ、確かキノコもあったぞ」とストックを置いているらしいところをゴソゴソと漁る。気を遣わないでとはもう言えない雰囲気で口を動かしていると「俺が飲むから付き合えよ」とぶっきらぼうな優しさを見せてくれた。
「ああ、俺、悠馬」
彼はマグカップに淹れたスープを一口啜るとそう言った。沸騰したお湯を使って粉を溶かしたのに、猫舌なんだと言って二つともに牛乳を足して温くしていた。
「あ、有希です。ここはご実家か何か?」
彼が苗字を名乗らなくてよかったと思っていた。
「ここ、ばあちゃん家だったんだ。でも少し前に亡くなって俺のになった。一人暮らし。部屋余ってるから使っていいぞ」
え?何故か分からないままここへは来てしまったけれど、これだけ飲んだらお暇しようと思っていた。そもそもこれはおかしい。どうやって伝えようかと思っていると悠馬が先に口を開いた。
「お前、あ、有希、ここん所ちょくちょくあそこにいただろ?夜中。危ねえなと思ってたんだ。近くに住んでるんだろうけど家に居づらいからあんな所で夜明けまでいたんだろう?」
ああ、何度も見られていたということか。そう思うと顔を覆いたい気分になって、額に触れた。しかも初対面からすっぴんか。外に出た時はこんなことになるとは思っていなくて外見はこれ以上ないほど手を抜いた状態だ。
「まあ、確かに居づらいは居づらいんですけど。でも、きちんと家はあるし……」
悠馬とはあまり目が合わない。飄々として斜め先を見て、あまり大きくない声で話す。
「別に好きにすればいいけど。夜中にあそこに行くのは勧めないな。家に居づらくなったらこの家来れば?」
強制ではない。でも、それでいいと言ってくれているような感じは気が楽だ。
「じゃあ、そうするかも。しないかもだけど」
それでいいというように、手をひらひらと振って立ち上がった。そして二つのマグカップを流しに置くと、「ちょっと」と言って私の注意を引いた。
「玄関入って右の部屋、客間だから好きに使ってくれていい。和室で押し入れに布団が入ってる。俺の部屋は二階。階段上がって右の部屋だ。帰るときは鍵を新聞受けから返しておいて」
ほとんど彼の背中を見ていた。目が合わないどころか、こちらを向かずに話している。初対面の人とのコミュニケーションとしては最悪の方法かもしれない。でも彼が醸し出すオーラというか、気怠そうな雰囲気の中に見た優しさのおかげで、悪い印象は受けなかった。
「悠馬、ありがと」
私は台所を出て行く背中に声をかけた。さっきみたいにひらひらと振られた手だけが返事を返していた。
結局夜が明けるまで、その客間だと説明された部屋にいた。あまり使われていない畳がそれを証明していたが、部屋の隅には雑誌の山ができていた。どうしようかと思ったものの、素敵な表紙の一冊が私に「見ていいよ」と話しかけているようで、近くにあったティッシュで表面の埃を避けてそれを持ち上げた。
それは抜けるような青空と赤土の崖のコントラストが美しい風景写真だった。ページをめくると濃い緑に縁取られた川や、崖から崖にかかる虹の橋、今にも滑り落ちんとしている葉の上の雫など自然界に溢れるパワーを切り取ったかのような写真がたくさん掲載されていた。
一冊を見終わると、新しく顔を出した雑誌の山の頂上に同じロゴが記載された雑誌があるのを見て、また手に取った。そうやって力をもらいながら朝が来るのを待った。
少しうとうとしたのだろう。スズメの鳴く声が聞こえ、家に帰る決心をした。何もなければいいけれど。早くケリをつけなければいけないのに、どうにもならない状況が続いていて、私を悩ませた。早めにアルバイト先に行って隣のカフェのソファで少し休もう。一度強く目を瞑ると息を吐いて立ち上がった。
「お先に失礼します」
賄いに出してもらった遅めの昼食を食べて挨拶をしてその場を後にする。後は帰って少しだけ以前のような仕事をする。収入としては一人で生きていくには足りていない。今はあいつの口座から様々が引き落とされるからどうにか生きていけるけれど。
精神的にボロボロになってしまっていたあの時はこれくらいの仕事が限界だった。今は少し余裕があるようにも思うけれど、今後どうなるか分からなくてきちんと就職できないでいる。いつまでもこんな状況でいたら次の就職に不利になることは分かっていても怖くて一歩が踏み出せない。外階段を上がった安アパートの玄関の前で、鍵を探していた。中で物音がしたと思ったら急にドアが開いて、一歩仰け反るようにして避けた。
なんでいるの。
顔にそう書いてあったんだろう。
「今日、急遽遅番になった。今日は帰らない」
それだけ言うと、靴は突っ掛けたまま手の中の鍵の音をジャラジャラ立てて階段を下りていく旦那の背中を見ていた。いつになったら終わるんだろう。昨夜の寝不足も手伝って、急に疲れが増したように思う。手を洗うのだけは忘れずに、簡単に着替えてベッドに突っ伏した。
旦那・浩久は通信系の会社に勤めている。新しい事業所の立ち上げに関わっており少し前まで広島に住んでいた、もちろん私も。この安アパートは仮住まいのつもりだったけれど何故だか3ヶ月も住んでしまっている。それもこれも私たちの離婚が宙に浮いたままだからだ。
浩久の広島への転勤が決まるまで、私も正社員として働いていた。ライターの見習いをしながらライター様のサポートをする出版関係の仕事に。浩久の転勤は急に決まった。「二週間後に広島」と言われても対応できるわけがない。単身赴任にすることも含め二人で話し合ったが、浩久の母が「ご近所の手前」と言って単身赴任は認めないと言ったのだ。古い町の古い人間関係が重要な彼女にとっては正しい選択だったのだろう。とはいえ私は退社することになる。数ヶ月遅れて広島に行くことで話が決まり引き継ぎのための忙しい時間が過ぎていた。
広島ではそれなりに楽しんだ。近所でパートをしながら休みには街を見て回ったり、広がる田舎の景色を見に行った。浩久は忙しくしていて私はいつも一人だった。ただ私は一人で出かけるのも嫌いではない。それに浩久はどんなに遅くなっても帰ってきていた。たまの休みにお互いの存在を感じながら話したり寛いだりする。それで十分だと思っていた。
問題が起きたのは広島から元居た東京の営業所に戻ることになった時だ。浩久はまた忙しそうにしている。引き継ぎや手続きがあるのだろうと思っていたが引越しの日程が決まってから「俺、3日移動日を伸ばすことになった。荷物頼むわ」と言ってきたのだ。理由は言われずとも仕事だろう。それであれば仕方がない、と自分を納得させたのに誰か知り合いからSNSを通して連絡が来た。
「◯◯に引っ越したの?近くなったね」
私たちのこの仮住まいはその地域ではない。遠くはないが大きな括りではそこには含まれないだろう。別の場所だと伝えると「おかしいな、浩久が引越し作業しているのを位置情報付きの写真でアップしてたけど?」訳の分からない返事が返ってきて驚いた。
私はその友達に手伝ってもらって浩久のSNSのページを確認させてもらった。私が行っていない旅行、私が行っていないドライブ、仕事で泊まりだと言っていた日に夜景が綺麗な場所で食事をした記録、相手が映っていないから大抵の人は私だと思うだろう。ただ、このSNSに私は参加していなかった。つまりは浩久は不倫していることをSNS上でこっそりと明かし、自己満足に浸っていたというのだ。どうしようか本当に迷ったけれど、ここ数ヶ月の話ではなさそうだったので今更怒ったって仕方がない。そう思って全てのページを写真に撮って今後のことを考えるために帰宅した。
帰って横になりたいと思ったのに、なんだかベッドが汚らわしいものに感じてしまい結局はソファで横になった。狭い部屋に無理やり入れたダブルベッドだったのに、気に入っていたのに。そう思いながら安い合皮の上を涙が伝い落ちたのを覚えている。
いつものように帰宅した浩久を見て思った。感情に任せて話をしてもダメだ。たくさんの証拠を集めよう。つけてあった家計簿を取り出して浩久の入金を確認する。給料から5万円を引いた額を二人の口座に入れるという取り決めをしていた。引越しの際は私が預かっていた浩久の給料が振り込まれる口座の通帳を確認する。本当はいけないのかもしれないけれど嘘をついている可能性を考えたら見ずにはいられなかった。そして予想通り浩久は取り決め以上の額を自分の懐に入れていた。
出かけた記録、お金の動き、他には何が必要なのだろう。ああ、相手か。その瞬間まで相手が誰なのかには興味がなかったのだ。もしかしたらずっと前に浩久への気持ちは冷めていたのかもしれない。
私は前にSNSを見せてくれた友達に連絡を取って、浩久が友達として登録している人から探すことにした。友達の家に行きPCを借りて、友達になっている人を上から順番に見て回る。もしかしたら男性名で登録しているかもしれないから、本当に全員を確認した。そして、発見した。名前は真由子と言った。
最後の望みをかけて、一週間待つと決めた。その間も浩久は帰ってきたり、来なかったり。仕事だからと言って電話でなくメッセージアプリでそれを伝えてきた。一週間後もそんな状態で浩久は帰ってこなかった。彼は覚えていたのだろうか、その日は結婚記念日で翌日は私の誕生日だったことを。その日は雨が降っていたことを覚えている。浩久が「傘を持って行けと言ってくれて助かった」とメッセージをくれたからだ。
誕生日の朝、話がしたいから休みの日に時間を作って欲しいと連絡をした。浩久からは明後日が休みだ、という内容が送られてきた。「おめでとう」の言葉はなかった。
決戦の日、私は用事があると嘘をついて、外での待ち合わせにした。浩久の実家の近くの喫茶店に私が証拠だと思うものを全て持って待っていた。
「こんなところでどうした?」
この時、以前のように優しい口調で言ってくれれば許したかもしれない。浩久は時計を確認するためかスマートフォンを見ながら、目も合わさずにそう言った。
「離婚したい」
心が決まったので、カバンに詰めていたノートPCを開き、証拠だと思えるものの写真を見せた。浩久は驚くでもなく「ああ」と面倒臭そうに頭を掻き、
「じゃあ、このまま実家に行こう。母親が一番面倒だろ?お前が説得しろよ」
義実家に行くつもりだったとは言え、全く反論もしない浩久に嫌気がさした。そして、謝罪もないまま自分で話をつけろと言うなんて。結局義母は説得できなかった。周りの目があるでしょ、というお得意のセリフとともに一蹴され「一ヶ月後にもう一度いらっしゃい」と厳し顔をした後「あなたもちゃんとね」と猫にでも話しかけるような声で浩久を見ていた。
一ヶ月後に訪問した際も、同じやり取りが行われた。ただの時間の無駄だ。でも、この時点で私は問題に立ち向かうエネルギーを使い果たしてしまっていた。アルバイトを見つけ、昔よしみの人からコミュニティペーパーの記事作成の仕事を得た。仕事をすることで現実から逃避した。ありとあらゆるものが清潔でないように感じられて、何かにつけて手を洗うようになった。そして雨の日が苦手になっていた。
私は時々悠馬の家に行った。夕立のように急に強い雨が降った日、夜になって雨が降り始めると天気予報で言われた日、そして一番苦手なのは、しとしとと降り続ける梅雨のような天気。梅雨入りはまだ先だが、時々何日かぐずついた天気が続くこともあった。我慢ができなくなると悠馬の家に行った。
悠馬はあの日みたいに暖かい飲み物を淹れてくれる日もあれば、そうでないこともあった。電話番号を教えて貰った。1日分の着替えを置いておくようになった。
悠馬は何も聞かない。なぜ私がこんな風に家を出てくるのか。どこに住んでいるのかも。仕事は話した。悠馬の仕事は知らないままだ。私がこの家を出て行くときは大抵まだ寝ている。時々起きてはいるものの、すぐに出かける様子はない。
「ねえ、悠馬は彼女いないの?私が突然来ちゃうとダメだよね?」
少しづつプライベートな会話もし始めていると思う。でも、基本的には茶飲み友達だ。
「今はいないし、しばらく作る予定もない。だから平気」
こういう時に「有希は?」と聞いてこないところがいい。それに、悠馬の返答からはこれ以上は踏み込むなという意思も感じる。
お互いにどこかを見つめて早朝にモーニングコーヒーを飲んでいる。この奇妙な関係が楽だった。
ある日のことだ。珍しく浩久が早い時間に帰宅した。玄関が開いた瞬間に雨が降り始めた時の匂いがして息苦しくなったものの、持っていたマグカップを流しに置きながら手を洗ってその気分をごまかしていた。浩久の電話が鳴る。帰宅してから私とは目も合わせていない。
「ああ、どうした?」
浩久が誰かと話している声がする。きっとあの女性なのだろうと思うとまた息苦しい。目を瞑って深呼吸をする。
「ん?なに?あー、分かった。行くからちょっと待ってて」
女性を気遣うような声色の後で、彼はそう言った。私を目の前にして、しれっと言ってのけた。
ダメだ。吐きそう。今すぐここから出たい。
私は携帯と小銭入れだけを手に持って、玄関に走った。靴を履きながら「今日は帰らない」と言って、ドアにくっつけてあった鍵をむしり取って走った。鍵は閉めなかった、どうせ浩久もすぐに出かける。
傘を忘れた、と階段を下りながら思ったけれど取りに帰ることなんかできない。そのままいつもの公園まで走って東屋で電話をかけた。




