とある《いかれた帽子屋》のお茶会
目に優しい緑で彩られた森林の奥深く。
誰も訪れないような場所にある人工的な庭園は、レインボーローズと黒曜石の葉木が植えられ、何とも自己主張の強い独特な色をしていた。
そこは《いかれた帽子屋》が、この庭の主とお茶会をするためだけに作り上げた空間だった。
テーブルには、たくさんの逆向き時計と食べきれないほどのお菓子や軽食がならび、いつこの庭の主が訪れても問題なくお茶会を始められるように準備されている。
けれど、残念なことに、いつまで経ってもこの庭の主はここを訪れない。
いつもと同じく今日も《いかれた帽子屋》は、ただ待つだけ。
***
神が創りし「箱庭」には、数多くの地上が存在する。
その神が深き眠りにつき、いまは魔王と呼ばれる四枚羽根の男が大戦を起こしてからは、地上では争いが絶えない。
争いの原因は、当然のことながら悪魔である。
人間たちを誘惑し、堕落させ、地上を混乱させているのだ。
悪魔は天上界を手に入れるため、天と地の界層の境だけではない。自分たちの目的のために手段を選ばず、人間たちの心を利用し、地上を壊す。
だから、どうか選ばれし人間よ。私たち天使に力を貸してほしい。
天使は、地上では力を使えない。人間にはない力を悪魔と同じく使えば、地上を混乱させる原因になるからだ。
頼む、と。目の前に現れた天使が告げた言葉。この時の俺はまだヒトだった。
ギルドに所属し、依頼を受け、生計を立てる。いま思えば、かなり平穏な毎日を過ごしていたのだろう。
天使の《勇者》になっても、それはあまり変わらないと思っていた。
「分かった。俺でよければ、協力しよう」
天使は俺の回答に喜び、微笑みを浮かべて礼を言う。
「これからよろしくお願いします。選ばれし私の《勇者》に神の祝福を」
天使が俺の名前を呼び、俺に祝福をかける。この地上にある魔術とは違うモノだった。
この時の俺は気づかない。自分の思い込みに。
天使の《勇者》になっても、何も変わらないと思っていたことは間違いで、判断を誤ったことに。
***
千年前。この世界は混乱が渦巻いていた。
混乱が具体的にどんなことだったのかは、誰も知らない。
しかし、その混乱から始まった世界が、いまのすべてだ。
***
寝ている俺の顔を覗き込むようにしている女と、目が合う。
「気がついた?」
女の年齢は二十代半ばぐらいか。俺よりも年下だろう。顔見知りである年上の魔術師とは、恐らく、十歳ほど離れている。
見覚えのない女を警戒し、普段愛用している己の武器を探す。
俺もヴァンパイアハンターとしてギルドに所属している。長く旅をして暮らしていることもあり、武器を手放すことはしない。
多少であれば体術の心得もある。
「んー、もしかしなくても警戒されてるのかな」
言って、女は俺から距離を取る。
近くにないと思っていた武器は、俺が寝ているベッドの横に立てかけてあり、違和感を覚えるには充分な切欠だった。
いつ不死者に襲われても問題ないよう、俺は武器を抱いて寝る癖がある。
なのに、その武器がベッドの横に立てかけてあった。
俺が警戒するからなのか、女は、俺の寝ていた隣のベッドに腰掛けて両手を見えるところに置く。
敵意はないと思う。
だが、そう判断するのは早い。
油断は隙を生み、自身の生存率を下げる。慎重になり過ぎるぐらいで度いい。
亡き師匠の教えに従い、そう結論を出す。
手に馴染む愛用の武器を取ると少しだけ、気持ちに余裕ができる。無抵抗なまま殺されることだけは避けたいからだ。
警戒態勢を続けたまま、自分の記憶をたどり、それ故にこの異常な事態に気づく。
目を覚ます前、俺は間違いなく薄暗い森にいた。
討伐対象である不死者の幻覚に惑わされ、そいつが操るグールに喉を噛まれたはずだ。そして、何とかグールを倒したところまでは記憶にある。
後は、そのまま倒れて意識を失い、死を覚悟した。
「君が、俺を助けたのか?」
あれはどう考えても死んで当然の怪我だった。
いくら俺が普通の人間と比べて、少し特殊な体質だと言っても、不死者に喉を噛み千切られたのだ。この体質のお陰で奴らの仲間になることはないが、死からは逃れられない。
声帯ごと持っていかれたため、声も出なければ、呼吸もできなかった。
俺の知っている限り、治癒魔術で欠損した部位の再生は不可能だ。
***
かち、かち、と。この庭の主とのお茶会をするためだけに並ぶ、たくさんの逆向き時計が動く中、無駄に優雅な仕草で《いかれた帽子屋》はティーカップを口に運ぶ。
紅茶よりもハーブティーを好むこの庭の主のために用意した、そのクイーンローズティを飲んでいる。
いくら待っても《いかれた帽子屋》が想いを寄せるこの庭の主は訪れない。
「いつになれば黒い焔を纏わせて、私の前に姿を現してくれるのやら」
かつて仕えたはずの神よりも、私を惑わせ、一瞬にして虜にした黒曜石の瞳。
いまはこの地の魔王となって、君臨する男。その高貴な血と黒曜石色を継ぐこの庭の主の訪れを、《いかれた帽子屋》は待ち続ける。
この庭の主を迎える準備をしながら。