とある天使と勇者の転移事情
ここは何処だ。ぼんやりと、そう思う。
まるで春先のような温かい空気は、自分がよく知る北方のものではない。黄昏た空を見上げるような格好で目覚める。手に馴染んだ自分の刀を握り締め、外敵が周辺に潜んでいないか、気配を素早く探るが、自分を守るようにして組まれた結界を感知しただけで終わった。
意識を失うまでの自分は何をしていたのだろうか、と。俺は記憶の糸を手繰り寄せる。
記憶の糸を手繰り寄せている途中で、近くにいた、ルキアシエルと目が合う。
「気が付いた?」
自分を心配する声は、聞き慣れたルキアシエルのものだ。間違いない。そのことに俺は安心して意識を手放そうとするが、気力だけで何とか踏み止まる。
極度の緊張感の中で、激しい戦闘でもしたのだろうか。
肉体よりも精神的な疲労が溜まり、いつもより頭や身体が重く感じた。
手繰り寄せた記憶の糸がようやく繋がり、俺は思い出す。つい先程まで俺はイザークと戦っていたはずだ、と。
瞬間。
イザークとの戦いから、目覚める直前の記憶までが一気に蘇る。
「ルキア、どうしてっ」
ヴァンピールに案内された辺境の古城で、俺はイザークと戦い、そして――その戦いの中で、ルキアシエルの術式によって何処かへと強制転移させられたのだ。
強制転移の反動なのか、それともイザークに制御された血の呪縛のせいなのか。もしくは、そのどちらも原因なのか、思考が上手くまとまらず、身体も思うように動かない。けれど、気が付けば俺はルキアシエルを組み敷いていた。
ルキアシエルと、彼女と初めて出会った時のように。
いくら男女による力の差があり、俺の力が通常の人間よりは強いとは言っても、いまの俺を撥ね退けるぐらいはルキアシエルにだってできる。
「俺はまだ戦えた。あのまま続ければ、イザークを殺せた」
ルキアシエルの手首を抑えつける力を強め、俺は自分の感情を吐き出すように怒鳴った。
「なのに、何故邪魔をした......っ」
「あのまま続けてれば、あなたが負けていたからよ」
故意的に感情を切り離したような、ルキアシエルの声。
「いまのあなたではイザークを殺せない」
「殺せるっ」
「いいえ、殺せない。相手の力量も測れず、自分と相手の力の差を理解できない状態では、負けて死ぬだけよ」
「煩い......っ」
地面が濡れた。ぽたぽた、と地面が濡れ、視界がぼやけていく。目頭が熱くなり、灼けるような痛みが身体に走る。
俺は力任せに、地面を殴った。何度も。何度も。
「...............俺は、イザークを......殺せ、っ」
ルキアシエルは何も言わなかった。何も言わない代わりに、俺の左頬を叩いて言う。
「いい加減になさい」
「.....................」
「いまのあなたでは、イザークを殺せない。何度も同じことを言わせないで」
それは力強い戦士の声。
「少しは頭を冷やして考えなさい」
ルキアシエルは一瞬にして拘束を解き、力づくで俺を撥ね退けると、もう一度だけ俺の左頬を正確に叩く。そこにいるのは天使でも、人間でも、女性ですらなく、ただ一人の力強い戦士がいるだけだった。
***
ぱちぱち、と。火が爆ぜる音を聞きながら、ダヴィードは近くの木に背中を預けたまま、ぼんやりとしていた。黄昏の時間は終わり、夜闇が支配する空を眺め、ダヴィードは先程よりも冷静になる。
イザークとの戦いで、ルキアシエルが取った判断は、最終的には「正しかった」と思う。
ヴァンパイアの王であるイザークに血の呪縛で抑え込まれ、その直前に距離は取ったものの、身動きが取れなくなった時点で俺の負けは確定していた。
落ち着いて冷静になった頭で考えてみれば、あの時点で俺は闇堕ちしていてもおかしくない。そういう状況だったのだ。まだ俺が人間としていられるのは、ルキアシエルが適切に行動してくれた成果であり、その結果でしかない。
ルキアシエルに感謝すれども、彼女に八つ当たりをするべきではなかった。八つ当たり。俺が彼女にしたのは、自分の感情に任せての八つ当たりである。
いまも黙々と野営の準備をするルキアシエルの手伝いもせず、自己嫌悪に陥って落ち込んでいるのだから性質が悪い。
ルキアシエルに叩かれた左頬は熱を持ち、まだ痛む。じんわりと広がる熱と痛みが、俺を冷静にさせ、不思議と安堵を覚えさせる。
この熱や痛みを感じる内はまだ、俺は「人間」でいられる、と。
俺は俺がまだ「人間」でいられる内に「イザークを倒す」と決めた。ルキアシエルのお陰で、少なくとも、いまの俺の実力では「イザークには勝てない」ことが理解できた。だとすれば、俺はイザークよりも強くなるしかない。
いまの俺にできることは、不死者を相手に刀を振るうことだけだ。
不死者を相手に刀を振るうことだけで、本当に強くなれるのだろうか。
俺は自問自答する。答えは「否」だった。
いままで通りに不死者を相手にただ刀を振るうことだけでは、もう俺はこれ以上、強くなることはないのだろう。
では、どうしたら強くなれるのか。
見識を広め、戦術の幅を広げるか。もしくは、いまある手持ちのカードだけでできることを増やすか。師匠が生きていれば、彼はどうしただろう。あの師匠のことだから、どちらかではなく、どちらもを実行するような気がした。
戦術の幅を広げつつ、手持ちのカードと組み合わせ、自分のできることを確実に増やす。
言葉にすることは容易だが、実行するとなると、その難易度は高い。ルキアシエルであれば、何故だか、当然のようにできそうだと思った。
「...............ルキア......」
許してくれるかは分からないが謝罪をして、それから今後のことを話し合おうと考え、ダヴィードはルキアシエルに声をかける。
ルキアシエルから反応がある前に、近くの茂みが、がさりと音を立てて揺れるのをダヴィードは見逃さなかった。
***
アークは歩き慣れない森の中を一人彷徨っていた。より正確に言うのであれば、一人ではなく、二人になるのだが、そのもう一人の姿はここにはない。
だから、アークは一人で森の中を彷徨っている。
「困ったなぁ......」
黄昏の時間はとうに過ぎ、夜闇が空を支配しつつある森の中は危険だ。
それぐらいの常識は、人生のほぼ全てを、魔術塔がある孤島でしか過ごしたことがないアークにだって分かる。いまの状況はよろしくない。なるべく早めに、野営地点を見つけ、魔術結界を張らなければと考える。
魔術塔がある孤島からロロアの港町に着くまでは、順調に進んでいた。
「やっぱり、ロロアで一泊すればよかったかも」
ロロアの港町に着いたのは昼過ぎで、野営になったとしても、エルフの森の近くまではいけるだろうと考えたのが間違いだったとアークは気付く。もしかしたら兄のように旅慣れていれば、自分の見込み通り、エルフの森の近くまでは行けたかも知れない。
けれど、アークは旅慣れないどころか、魔術塔がある孤島から出たことすらないのだ。
こんな調子で、南東で最も大きなギルドのあるファリスの街までたどり着けるのか、アークは不安になる。
まだ幸運なことに魔物と遭遇すらしていないが、もし遭遇してしまったら、自分は怯むことなく戦えるのだろうか。
アークは魔術師だが、兄とは違い、ほとんど研究しかしていない。
「大丈夫なのかな、俺で」
ふとした瞬間に本音がもれる。自分の口からは先程から弱音や後悔、ため息しかでていない。気付いて、また自己嫌悪。あの日から本当に自分は変わっていないなと思いながらも、もしかしたら今回の旅で何かが変わるのではないかと、過度な期待をしている自分がいる。
そんな自分に腹が経つのを通り越し、厭きれ、またアークはため息を吐く。
がさり
夜闇に包まれた森の中で考えながら歩いていた自分がよくないと、アークは直ぐに理解できた。
けれど、自分に突き付けられた刀と殺意が怖くて。
「...............旅人......?」
悲鳴を上げる。その場に転がったアークの視界に映る二人の男女。男性の方には微かだが見覚えがあり、誰だったかを思い出す前に、
「...............お前、アーク、か......」
相手の方が先に自分のことを思い出してくれたようだった。
「そ、そうだけど」
「...............へえ......、ダヴィードの知り合い?」
殺意と一緒に、刀を鞘へと納めるのを確認しながら、女性が男性へと問う。
「ああ、ステルクの弟だ」
ダヴィードと言う名前には聞き覚えがあった。まだ師匠が生きていて、兄も旅に出ず、魔術塔がある孤島で三人暮らしをしていた頃。数年に一度だが訪れるヴァンパイアハンターとその弟子がいた。
ヴァンパイアハンターの方は師匠と年が離れていたけれど親友とのことで、確か、少しばかり兄が剣技を習っていたはず。
弟子のダヴィードは、俺と年齢も近くて、たまに会えば話をする程度だった。
もしかしなくても、あのダヴィードなのだろうか。言われてみれば、ほんの少しだけ赤を混ぜた黒い目と髪は珍しく、それだけで彼だと確信する。
「えっと、ダヴィード」
「...............何だ......」
「その、久しぶりだね」
「...............ああ、数年ぶりか......」
相変わらず、ダヴィードは口数が少ないな、と。そんなことを考えていたら、ダヴィードと一緒にいた女性が手を貸してくれ、俺は立ち上がる。
「ありがとう」
ほどよく筋肉がついた手は女性らしくなく、彼女もまた剣を握るのか、ダヴィードや兄の手と似ている気がした。
黒曜石の色をした瞳や髪が印象的な美人と、ダヴィードは一体何処で出会ったのだろうか。
思考の途中で、ふと、アークはこの女性に対して既知を覚えた。魔術塔がある孤島で出会った彼と、性別は違うものの彼女は似ている。
「天使?」
「うん、そうだよ」
思わず口を吐いて出た疑問に、目の前の女性は肯定の返事をした。
「それにしても兄弟で、天使の《勇者》としての素質を兼ね備えているとはね。
しかも、魔術師としての才能も高いみたいだし、ある程度は血筋もあるけど、これは師匠がよかったのかも。どちらも適正に合わせて、能力が引き出されているもの」
言って、目の前の女性は微笑う。アークが想像すらしていなかったことまで口走って。
アークは自分の天使から、兄にも「天使の《勇者》としての素質」があるとは聞いていない。だから、これは初耳だった。
「あのっ、兄も」
「ん?」
「天使の《勇者》になっているのですか?」
「いいえ、ステルクは素質があるだけ。私が知る限りでは、まだ天使の《勇者》にはなってなかったはずよ」
「そうですか」
彼女の答えに、俺は安堵する。これ以上、兄に重荷を背負って欲しくないから。