とある上級不死者の誘い
その日のヴァンピールは、とても機嫌が良かった。機嫌が良かったから戯れで吸血行為をした獲物は殺さなかったし、機嫌が良かったから獲物を不死者にすることも、ましてや自分のお友達にすることもしなかった。
ヴァンピールは、とても機嫌が良い。子供のように笑う姿は本当にあどけなく、まるで誰かが守ってあげなければと庇護欲を誘う。
けれど、それは仮面だ。ヴァンピールは幼い少女と言う仮面の下に、凶悪で、凶暴で、強靭な研ぎ澄ました爪を隠し持っている。
「もうすぐ、だね」
ヴァンピールは嗤う。これから起こるべくして起きる喜劇の幕開けを期待して、愉しくてたまらない、と。
「もうすぐ」
上級不死者である彼女は嗤うのだ。
「ああ、はやく......」
幼い少女が出すにはあまりにも艶めかしい愉悦の混じった、その声。その仕草。もう待ちきれないと願う、はやる気持ちを抑える術を知らない幼女は、不死者を統べる王であるイザークの古城から姿を消す。
これからヴァンピールは、イザークから頼まれた仕事をする。
ヴァンピールの機嫌があれだけ良い理由は、今回、イザークから直々に頼まれた仕事が「自分の好きなこと」に分類されることだからだ。
『ダヴィードと、その天使であるルキアシエルを古城へと招待すること』
ダヴィードのことは時が来れば、古城へと招待するとはイザークから聞かされていたが、それはもっと後のことだろうとヴァンピールは勝手に思い込んでいた。
だから、ヴァンピールの想像よりも早く――しかも、その天使であるルキアシエルまで一緒に招待すると、イザークから聞かされた時、ヴァンピールは筆舌を尽くせないほどの歓喜に包まれる。
ずっと渇望していたモノが手に入る瞬間は、どのような紳士淑女であれ興奮するものなのだ。
「ヴァンピール、もう、我慢できないよ」
もう自分の意志ではどうにもならないほど、ヴァンピールの心や身体は興奮して熱っている。幼女にあるまじき色香をまき散らして、仄暗い夜の森を歩く。
北方の中でも辺境に位置するこの土地で、ヴァンピールのように外套を羽織らず、貴族の夜会に参加するようなドレス姿で夜の森を一人で歩くのは自殺行為に等しい。吐息すらも凍らせるであろう外気に当てられ、身体中の熱を直ぐ奪われてしまうからだ。
上級不死者であるヴァンピールは、そんな些末なことは気にしない。当然だろう。彼女はとっくの昔に死んでいるのだから。
ヴァンピールは、いつ自分が死んだのか。あまりよく覚えていない。
最初から覚えていなかったのか、それとも必要性がないから忘れてしまったのか、いまとなってはどちらなのか分からなかった。
けれど、ヴァンピールは当時の自分を取り巻く環境と、人間たちは好きだったような記憶がある。その中でも自分のお付きのメイドの中で、姉のように想い、慕っていた人間がいたことは憶えていた。
メイドはいつも優しく、美しい笑顔を浮かべ、貴族として忙しかった両親よりも傍にいて、ずっとヴァンピールの遊びに付き合っていてくれたと記憶している。
「お姉ちゃん、また、ヴァンピールと一緒に遊んでくれるかな」
ヴァンピールの記憶の中にあるメイドと、ルキアシエルは何処かしら似ていた。その髪色も目も、声も、姿も違うけれど、決定的な何かが同じで。
それが何なのか。何だったのかは、ヴァンピールには思い出せない。
きっとルキアシエルは、ヴァンピールの過去を聞いたら、同情して実の妹のように可愛がってくれるだろう。
同情は嫌いだが、ルキアシエルは特別だ。
特別だからこそ、手元に置きたいと思う。
だから――ヴァンピールは仕事が終わったら、報酬として、イザークに「ルキアシエルをちょうだい」と強請るつもりだった。
***
辺境の奥。北方に暮らす人間たちからも見放され、時折、思い出したように見捨てられた村々が存在する場所。
この地に不死者が多い理由は、「ここより北に位置する王城には、すべての不死者を統べるヴァンパイアの王がいるからだ」とのあり得なくもない噂が、お伽話のように根付いている。お伽話の根拠を裏付けるように、実際、北方の地には不死者が多い。
不死者を統べるヴァンパイアの王であり、自分の父親でもあるイザークを討伐するため、俺とルキアシエルは、イザークがいるであろう古城を目指すことにした。
ステルクの持ってきてくれた情報を調べてたが、残念なことに、ロールスの街や周辺の村では「古城の話すら噂レベル」の域をでない。辺境に近づけば近づくほど、目撃情報を含めて古城の話は聞けるようになったが、それでも古城の出現条件や行き方までは分からなかった。
ここ数日は完全に手詰まり状態である。
ルキアシエルと相談し、もう少し奥まで、辺境の地を探索することになって十日目が過ぎた頃。変化は起こった。まだ日中だと言うのに太陽の光が当たらない、薄暗い森の中を、ちょうど俺とルキアシエルが歩いていたそこへ。
「こんにちは、お兄ちゃん。お姉ちゃん」
幼女の姿をした上級不死者であるヴァンピールが、妖艶な笑みを湛えて現れた。
「ヴァンピールの王様の命令で、お兄ちゃんたちを迎えにきたんだよ」
子供特有の甘えるような声は、何故か、異性へと媚を売る女性の声音に酷似していて、俺は吐き気を覚える。気味が悪いと言うよりも、気持ちが悪いと言うべきか。とにかく幼女が出すような声音ではない。
「...............何が、目的、だ......」
「目的も何も、今日のヴァンピールは王様の命令に従っているだけだもん」
にっこりと、ヴァンピールは子供らしく笑う。
俺は反射的に、ルキアシエルを庇うように前へと出て、彼女の手を握る。彼女も俺の手を握り返し、
「ダヴィード」
俺を名を呼び、安心させるように言う。
「あのこは嘘を吐いていない。私たちを本当に、古城へと迎えるために、イザークに遣わされたみたい」
「.....................」
ルキアシエルの言葉を聞いても、俺は、ヴァンピールへの警戒を緩めない。代わりに、ルキアシエルと繋いだ手に力を込めれば、俺にだけ聞こえる声で彼女は「分かった」と呟いた。
「もー、ヴァンピールのことを無視しないで」
「......ごめんね。ダヴィードも私も、ヴァンピールのことを無視するつもりはなかったの」
「本当に?」
「うん、本当だよ」
「...............ああ......」
「今回はヴァンピールの機嫌がいいから特別に許してあげるけど、次はないからね」
言って、不死者が持つ特有の光を宿す、ヴァンピールの瞳は薄暗い。サファイアよりも濃紺の瞳は、本来ならば、もっと美しい光彩で輝くのだろう。けれど、耳よりも高い位置に結った金糸の髪も、きめ細やかな肌も、すべてが不死者になった影響からくすんでいる。
死者特有の美しさを「永遠の輝き」と謳い、妙齢の貴族の女性は憧れると、ダヴィードは聞いたことがあった。
また、もっと酷い場合には、不死者になるための行為すら厭わないと聞く。
「じゃあ、ヴァンピールが古城まで案内してあげるから」
果たして、ヴァンピールは「どちらなのか」を考える。
ヴァンピールの姿はまだ幼く、自分から望んで不死者になったとは思えない。
「迷子にならないように、ちゃんとヴァンピールの後をついてきてね!」
ダヴィードとルキアシエルに向かって、ヴァンピールは本当に愉しそうに笑った。
***
あれから数時間後。ダヴィードとルキアシエルは辺境の地を奥へ、奥へと、ヴァンピールに促されるままに進み、かつてルードディッヒ辺境伯が治めていたとされる地を歩いていた。
ヴァンピールの話によれば、不死者を統べるヴァンパイアの王が住まうイザークの古城へは、基本的には上級不死者と、イザークが許可した者でないと立ち入ることができないらしい。
イザークのいる古城へは案内役が必要であり、今回は案内役であるヴァンピールの存在を媒介にして、古城への道を開くとのことだった。
ステルクから聞いた「思い出したように、時折、辺境の地に現れる古城」の真相は、どうやら上級不死者や、イザークが気まぐれに招いた客人が出入りする時に起こる現象らしい。
なるほど、と。俺は納得する。
「まだ古城まで着くのに時間がかかるけど、そろそろ休憩する?」
随分と歩いた頃。そう提案してきたのは、意外なことにヴァンピールだった。
上級不死者と言えど、まだ幼い彼女には、あまり体力がないのだろうか。それとも子供らしく、ずっと歩き続けることに厭きてしまったのだろうか。どちらにしても、これからイザークと戦うことを視野に入れると、ここで休憩を入れることはよいと思う。
「...............そうだな......」
「やったー」
休憩の許可をすれば、ヴァンピールは年相応に喜びの声を上げる。
「ヴァンピールね、今日はいっぱい歩いたから疲れちゃったの」
ヴァンピールは俺ではなく、何故だか、ルキアシエルに向かって言う。
それはまるで妹が姉に「頑張った自分を褒めてもらおう」とするような様子に似ていて、とても微笑ましいもののように俺は思えた。
ルキアシエルにしては珍しく、若干、ヴァンピールの行動に戸惑いながらも対応している。
俺は手早く野営の準備を済ませると、近くにあった木へと背を預け、ルキアシエルとヴァンピールの様子を観察していた。
「ねえ、ヴァンピール」
「ん?」
「ここまでの間に、その随分と、たくさんの廃村を見たのだけれど......」
なるべくヴァンピールを刺激しないように、慎重に言葉を選びながら、ルキアシエルは情報収集をすることにしたようだった。
きょとん、と。ヴァンピールは不思議そうな顔をする。そして「ああ」と一人納得した。
「えっとね、この辺境地はルードディッヒ伯爵が治めてたところなの」
「ルードディッヒ伯爵?」
「うん。もうずっと前の話だから、多分、数百年は経っていると思うよ」
「数百年も......」
「いまはこの辺境の地を統治する貴族はいないから、いつの間にか不死者の巣窟になっちゃった」
けたけたと笑いながら、ヴァンピールは話す。
かつてルードディッヒ辺境伯がこの地を治めていたと言う話は、不死者絡みの情報を集めていた時に、歴史書か何かで俺は見たことがあった。いまから数百年前に存在した伯爵家と、辺境の地を統治する貴族が居なくなったことで、この北方の地は不死者の巣窟になったことは俺は知っている。
知ってはいるが、それはあくまでも知識でだ。
なのに、ヴァンピールは、まるで当時を本当に知っているような口ぶりで話す。
「ルキアシエルは特別だから、ヴァンピールのことを教えてあげるね」
言って、ヴァンピールは嗤う。
「ヴァンピールのパパとママはね、ルードディッヒ伯爵家の人間なの。
数百年前に何があったのか。ヴァンピールは思い出せないんだけど、パパとママ、それに屋敷にいたみんなと何かをして、それからイザークさまがやってきて、ヴァンピールだけを屋敷から連れ出したの。
パパとママ、それに屋敷にいたみんなはダメだったけど、ヴァンピールには《適性》があったんだって」
イザークの言う《適正》とは、恐らく、不死者になれる要素か何かだ。
この世界にある禁術の中にも、自分たちの生態系を変化させる術は存在する。あまりにもリスクや代償が大きいモノは、術式自体を淘汰され、後世に引き継がれることがないよう管理されているとさえ聞く。
数百年前に辺境の地を統治していたルードディッヒ伯爵家で、何故、人工的に不死者を作る魔術が施行されたのかは分からない。
ただ、その中に不死者になれる《適正》を持った娘がいた。
それがルードディッヒ伯爵家の娘であるヴァンピールで、イザークは彼女に目を付け、結果だけ言えば保護したことになるのだろう。
よくも悪くもヴァンピールの時間は、不死者になった時点で成長することなく止まっている。
だから、善悪の区別がつかないだろう。
自分の欲望のままに動くヴァンピールを抑制する方法は、恐らく、存在しない。