蛍
地元の住人しか知らない奥山に小さな湯が湧く場所がある。最近その湯で美しい女を見かけたと村で噂になっていた。今、そこを目指し二人の若い男が山道を登っていく。
大柄な男が小柄な男の後から付き従うように歩いていたが。やや息が上がり気味になりながら問いかけた。
「なあ、ノリちゃん、ほんとに居るかなぁ?」
先を歩いていた小柄な男は、はふう、と息をはいて立ち止まった。
「大史、お前が探すっていうから来たんじゃないか」
大史と呼ばれた大柄は背負ったリュックの帯に両手を差し込み、よっこらせっと揺すりあげた。顔には幾分か汗がにじんでいる。相方の隣に並ぶと歩を止め疲れた顔色で見下ろした。
先に、「昔遊んだ奥山に行きたいなぁ。みたいものがあるんだ」と言い出したのは大史だった。「じゃあ、行くか?」と憲明がすぐに乗って来るとは思っていなかったのだろう。大史は大喜びで顔をほころばせた。それが昨夕のことである。
今朝、大史が憲明に見せられたのは、何キロあるのかと思うほどの大荷物。簡易テント一式、飯ごうやらランタン、二人分のシェラフ……。その2/3以上の重量が、今、大史の背中に乗っている。
小柄な憲明を前にその差は当然と大史は二つ返事で荷物を背負った。だが、さすがに一時間歩きづめとなり、運ぶ歩調が挫け気味になったらしい。
「ちょっと休んでもいい?」
おどおどと憲明の顔色を窺う大史。それを見た憲明が、ああ―、と気づいたように頷いた。
「だな、休憩すっか」
憲明はナップサックを下ろし、道ばたにどっかり座り込むとクラッカーを取り出した。
「珈琲飲むだろ?」
登山慣れした憲明が、大史の大荷物から手馴れた手つきで道具を取り出していく。器用にセットされたシェラカップの中で湯が湧きだした。春と呼ぶには夏に近い陽が木立ちに遮られ、そわりと頬をなでる風が涼やかな冷気を帯びていた。
差し出された珈琲をすすり、クラッカーをかじる大史。憲明は隣に座った相棒の飄々とした顔をまじっと眺めている。
猫舌の大史が両手でカップを抱え持ち、口先をすぼめ息を吹きかける姿に、変わんねえなぁ―と低く呟くと、憲明は唐突に問いかけた。
「お前にさ、漫画の読み方が『わかんねぇっ!』って本を投げつけられたの、あれ、いつだったっけ?」
※ ※ ※
幼い頃、家が隣同士の二人はアニメヒーローごっこで日が暮れる日々を送っていた。風呂敷を首に巻き棒切れを手に持って、飽きもせず田畑を走り回る。
大史の家裏にある畑の真ん中にそそり立つ大木に先を争ってよじ登っては、太い枝の分かれ目に腰をかけ、息を整えるのが二人の日課。
ふたつの小さな尻をくっつけて座り、握り飯を頬張った。飯粒でねばねばの手でしがみついた枝を揺すり合い、落ちろ! 落ちるかっ! とふざけあうのが悪ガキ二人の醍醐味だった。
「こおら、危ねえだろ? いい加減にせんか」
見かねて声をかける親にあかんべぇーを返し、日暮れればどちらの家でもお構いなく一緒に夕飯を食べ、疲れれば並んで眠るのが常だった。
二人がランドセルを背負う前年。
憲明は村のはずれに建つお寺の敷地内にある保育園へ通うことになった。当然大史も一緒に通うものだと思っていたが、そうじゃなかった。朝、黄色いカバンをタスキ掛けし家を出る憲明を大史が見送る。憲明の挨拶は「行ってくる」でも「じゃなー」でもなく「帰ったら一緒に遊ぼうな」だ。頭を大きく縦にこくんと振って大史は笑っていた。
午後になり憲明がお昼寝という苦行を終え、おやつという至福を食べ終え、飽きという充実に満たされた頃、母親が迎えに来る。
園のトモダチは邪魔じゃなかったし、それなりに一日楽しんだと憲明は思った。だから家へ帰ると大史に覚えた歌や踊りを教え、大史も面白がって一緒に騒ぎ満足していたのだと。
――あれだって同じように面白くなると思ったからやったんだ。
日暮れが早まり、外遊びより家の中で過ごす時間が増えた頃。憲明は新聞チラシを広げ、裏側にひらがなを書いて見せた。
【とうどうのりあき】
「タイシも書いてみろ、ほら、こうだ」
【すなやまたいし】
きょとんとした顔で、「なぁに、それ?」と大史はチラシを覗きこんだ。
「おまえのナマエだ。学校に行く前にナマエくらいは書けなきゃなんねぇらしい」
その頃、憲明はひらがな全部を読み書き出来るようになっていた。
憲明は覚えることが面白く、覚えれば褒められるのが嬉しかった。当然大史も同じだと思っていたのだろう。だが、まわりの大人は大史にそれをしない。保育園に行っていない大史にはひらがなを教える人がいなかった。だったら自分が大史に教えればいいじゃんか。憲明がそう考えてはじめた名前書きだったのだが。
「ノリちゃん、これ……つまんねーよ」
大史は飽きっぽく全く集中しない。すぐ書けるようになると思っていた七文字を、大史はなかなか書けなかった。そんな大史に腹を立て大声で怒鳴り、取っ組みあいになったこともあった。
「ノリ! いいかげんにしておき!」
母親にたしなめられ、ぶすくされ顔になりながら、じゃあ、誰が大史にナマエを教えるんだよ! と憲明は歯噛みした。
小学生になった大史は国語の本読みで何度も閊えて先へ進まない。周囲に嘲笑が漏れるたび、憲明は無性に腹立たしさを覚えた。せめて簡単な漢字くらい読めるようになれば。そう考えて漫画雑誌を買い、「おっもしれーぞ、これ!」と煽ってみた。手に持った玩具を放り投げ、憲明の隣にちょこんと座り大史が横から覗き込む。憲明は大史の動く目元を見ながらゆっくりページをめくっていった。
「なんの話、これ? ちんぷんかんぷん――」
「や、ふりがな、あるだろ? 読めるだろ?」
大史は頁のコマを順に読み進めるという事が出来なかったのだが、憲明がそれを理解したのは、癇癪を起こした大史が大泣きした後のこと。
憲明はその後も手を変え品を変え、大史相手に漢字から足し引き算に至るまで、自分が、自分が、と世話を焼き続けた。
やがて大史に勉強は向かないのだと、憲明も匙を投げるようになっていく。大史が興味を示すのは相変わらず外を駆け回ることと食べること。親の手伝いは厭わず生活スキルは憲明以上に身につけた。そんな大史が畑の野菜を丸かじりする姿に、「せめて土を洗い落とせ!」と憲明が額を押さえたのは、小学生活最後の年だった。
※ ※ ※
「お前にさ、漫画の読み方が『わかんねぇっ!』って本を投げつけられたの、あれ、いつだったっけ?」
不器用のシンボルと周囲から称えられているような大史。
「ノリちゃんにそんな事したことあったっけ?」
大史はカップを落とさないように両手でしっかり包み持ち、唐突な問いかけに真剣な表情で眼を細める。その姿に憲明はプッとふきだした。
大史が山へ行きたいと言い出したのは、昨日夏祭りの初打ち合わせで行った商工会議所で、耳に入った噂話のせいだと憲明は知っていた。
大史は噂の女人を一目みたいと思ったのだろう。そうと察した憲明は大史の誘いに即乗った。大史は生まれてこの方女性に相手にされた事がない。常にばかな事ばかりやって――と、村中で噂になるほど少し頭の弱い男と思われている。
今日も憲明が意図的に用意した大荷物を、二つ返事で背負い、文句も言わずついてきた。
奥山は久々ではあるけれど、子どもの時分から行き慣れた場所であった。一晩泊まる予定とはいえ、いざとなれば大史一人でもすぐに帰ることが可能なのだった。中学時代は弁当片手に何度も来ていた場所だった。憲明が用意した重々しいキャンプ道具は概ね不要品ともいえる。
憲明は自分が問いかけた問いの返事を当てにしていなかったのか、大史が飲み食いを終えるとさっさと片づけを終える。
再び山道を歩き続け目的地へたどり着いた二人。大史が背中の荷物を降ろし二人でテントを組み立て終える。憲明は大史に向かって湯に浸かって足の張りをとって来いと勧めた。待っていたかのように大史はすぐさま自然が作った温泉へ消えた。
すでに陽が役目を終え辺りに闇が忍んできていた。憲明が起こした火だけが周囲を明るく照らし、人の存在を主張している。憲明はパチパチと弾ける火にかけた鍋に何やら食材を投げ入れ、ゆっくりとかき混ぜながら思う。
そろそろ潮時だろうなと。
大史は大人になっても若干子どもに近い人間だった。いや、近いというより成長しない人間だった。二人が小さい時は憲明も気にならなかった。だが、いつの頃からか憲明も気がついていたようだ。商工会に集まる連中が大史を揶揄し倦厭するのは当然だと。
憲明がこうして大史に付き合うのは、はっきり言えば多少の同情心と優越感を得るからという事も否めないのかもしれない。
だが、それも時期遅れに運良く決まった就職を目前にして、いつまで経っても子どものままの大史とつるんでいる場合ではなくなっていた。長年一緒に過ごし、憲明がこの世の全てというように慕ってくる大史に、憲明はどう切り出せばいいのか躊躇していたのだろう。村を離れれば自然疎遠になるだろう関係。友情と呼ぶには躊躇うような相手。村を出る前にはっきり言っておくべきだと憲明は考えていた。時に任せるには大史が不憫だろうと。
せめて今朝、どうしてこんなにたくさんの荷物を? と問いただしてくれていたら、お前をからかいたくて……と笑って切り出せていたかもしれない。
大史ははっきりとわかる言葉で言わないと理解できない人間だ。奥山は大史が泣こうが喚こうが邪魔する者は居ない。今夜大史に引導を引き渡す。そんな決意めいたものが深まる闇とともに憲明の瞳に宿っていった。
憲明が夕食を作り終え大史を待ち小一時間が経った頃。辺りはすっかり夜に包まれていた。
「……リちゃん――ノリちゃ……ん」
奥湯の方から大史の囁くような呼ぶ声がした。
「湯あたりでもしたのかよ」
憲明はそちらへ早足で向かった。ランタンを頭上に掲げると、湯は滾々と湧き続け、その中央に半身を浸からせた大史が、おいでおいでとゆっくり猫の手で呼んでいた。
憲明は静かにランタンを下に置いた。
湯の熱に誘われたのか大史の周りには無数の小さな光。
蛍だ。
一切の音がない空間で小さな輝きが消えたり点いたりを繰り返し、蛍が大史を取り囲んでいる。大史は湯辺りする事も忘れ蛍に魅入っていたのだろう。恍惚とも呼べそうな表情で。幼い頃と変らぬ表情に憲明の胸が疼いた。
憲明は大史と一緒にしばらくその光景を眺めていたが。
「なあ、お前、来月から一人でどう過ごす?」
――俺は村へ大史をおきざりにし他地へ行き、新たな生活を始めるんだ。
一度過疎化へ向かう村を離れれば、再び戻って暮らすという選択肢は考えられない憲明だった。他に生きる場所を決めた以上、それは逃れられないことなのかも知れない。
大史の返答は無邪気なものだった。
「ノリちゃん待って畑作ってるさ」
憲明は次の言葉が見つからないかのように、徐に服を脱ぎ捨て湯に入っていく。大史の隣にしゃがみ込み、無数の蛍へ目を向けながら大きな肩に白い手を置いた。
「で、噂の綺麗な女はいねーな?」
大史はきょとんと小首を小さく振りながら蛍を指差した。
「やだな、そんなん、いるわけないっしょ。ノリちゃんこれ見たら絶対忘れない。毎年ノリちゃん帰って来るさ」
奥山で蛍を見ることが出来る時期は短く、夜でなければ存在に気づくこともない。この時期だからこその大史が奥山へ来たがった意味。それが憲明の胸中に湯の熱とともにじんわりと滲み込んだのか。憲明が抱いていた決意が、大史の無垢な一言でガラガラと崩れていった。
――何年コイツと付き合っていたんだ俺は。
憲明の胸にバカなのは自分だったか……という嘲笑じみた想いが去来した。
「……だな。盆暮れや、まとまった休みには帰れるだろうさ」
「うん」
ニコニコと満足そうに蛍へ向けた視線を逸らさない大史。
――結局俺はこうやって一生こいつの面倒を見続けるんだろうなあー。
憲明が吐き出した深い息が、ぶくぶくと湯に泡をつくっていった。
静けさしか生まれない奥山で、その後二人の男がどんな一夜を過ごしたのか。知っているのは取り囲む無数の光と星屑と――。
(おしまい)
ありま氷炎さま、企画主催お疲れ様です。暴走させていただきます! と、BL風味香る(?)短編を掲げました(笑。
大史 : 蛍はお尻ピカピカなんですよ?(๑´・‿・)
憲明 : …って、深い意味はねぇーよ!(; ̄ェ ̄)