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人喰いマント

人喰いマント 第三夜   『かえるの唄』

作者: 久青玩具堂

 

 

 暗雲が、()()()と割れた。

 曇天である。雨は降っていなかったが、降っているのと同じように、空が重い。

 馬車の窓外では、まるで雲海に入り込んだように灰色が流れている。見渡す限りの草原では他に眺めるべき物もない。

 稲妻の瞬間だけが、世界を金色に彩った。

 豪奢な造りの箱馬車に揺られているのは、二人の男女だった。当然、その他にも御者が一人、二頭の馬を制している。

 馬は、雷鳴に追い立てられるように、()()った。


 アンネローゼ嬢は御年二十一歳。この国の未婚女性としては、やや齢が過ぎている。が、それも彼女に関して言えばなんの不利にもならなかった。現に、求婚者は依然として後を絶たない。その理由は明らかだが、説明するのは難しかった。数え上げればきりがない。美しく聡明で気高く、それでいて一切の()()()を持たない、そんな女性だった。

 その彼女が、自分のようなうだつの上がらない男を自邸に招いてくれた!

 ジェイルは、馬車の心地よい振動に我が身の動悸を重ねながら、飽きることもなくアンネ嬢の横顔(プロフィル)を眺めていた。彼女は窓外へと視線を注ぎ続けている。灰色の空と朽ちたような草原のどこが楽しいのか、ジェイルには解らなかったが、きっと彼女には感じるものがあるのだろう。女性の感傷は男の解するところではない。ジェイルのような男に理解できるのは、アンネ嬢の比類無き美貌までだ。

 真白い(おも)()を縁取る金髪はふわりと柔らかく、ややもすると冷たい感を与える双眸と絶妙のコントラストを見せている。見ている者を赤面させる首筋と、赤いドレスの境目は、何かの断層を思わせる一種不思議な美をかもしていた――アンネローゼ嬢は御年二十一歳。少女の清らかさを残し、淑女の気高さを得て……

「ジェイル」

 鈴のような呼び声が、ジェイルの視線を遮った。

 言うまでもなく、アンネ嬢だ。この馬車には、ジェイルと彼女しか乗っていないのだから!

「何かな、アンネ」

 ジェイルは声が震えないように満身の注意を払った。当然、滑稽なほど抑揚のない言葉になった。

「今日は、あなたにお願いがあってお招きしたの。

 聞いて下さる?」

 対するアンネ嬢の言葉に媚びはない。「お願い」と口にした瞬間でさえ、彼女の瞳は真っ直ぐに――決して見上げることなくジェイルを見つめていた。だが、その気高さこそがサロンの男たちを熱狂させる。彼らは、へつらわれることには飽きているから。

「無論だとも」

 ジェイルは芝居めかして胸を叩く。

 アンネ嬢は、彼の仕草にだろうか、口元にうっすらと笑みを浮かべた。そうして彼女は、美しく気高く、恐ろしく賢く、「お願い」を口にした――

「三つ、お尋ねしたいことがあるのです」


 その時、窓を打った雷光が彼女の瞳を(こん)(じき)に燃え上がらせた。




   人喰いマント 第三夜

    『かえるの唄』




『第一問。あなたの一番のお友達は?』


「友人ですか? ……それは、決まっていますよ。いえ、これまでの人生で親友と呼べるような者は一人しかいませんでした。

 ルーバート・ミフェラン。いわゆる幼馴染です。あなたもご存知でしょう、パーティーの時なんか、いつもわたしといっしょに行ってましたから。

 ルーバートはわたしより三つ年下で、成人してからも青臭さの抜けないところのある男でしたが、そこが魅力でもありました。あいつはあんまりにも素直に理想を信じて、実行しようとして、何度も挫折を味わいました。

 たとえばあいつは、友達と素潜りの競い合いをして、一度たりと負けることがありませんでした。しかしそれは、水中で気絶して半生半死になってでも勝つという、いわば捨て身の無敵でした。そうしてルーバートの人生は、万事がこの無鉄砲調子だったのです。彼は常に意地を貫き、それ以上に大切なものをぽろぽろと失っていく男だったのです。しかも、その喪失を感じるたびに世の中に八つ当たりをして、家族にもずいぶんと迷惑をかけてきたようです。実を言えばわたしも、彼の起こした喧嘩沙汰に巻き込まれて大怪我をしたことがあります。それでもわたしが彼の親友であったのは、ルーバートの純真な瞳と、一度反省すれば哀れなほどに謝罪を繰り返してくる、犬のような誠意に惹かれていたからでしょう。

 御存知かも知れませんが、ミフェラン家は大きくもなければ小さくもない、いわば中堅の貴族です。わたしの家と同じですね。そうしてわたしの家と彼の家は、柵一つを隔てた隣同士だったのです。そんなわけでわたしたちはごく自然に仲良くなり、一緒になって良いことや悪いことを沢山やりました。

 境遇が似ていたせいもあるでしょうが、わたしたちは妙に反りが合って、公私を問わず何事も行動をともにしました。いや、思い出すだに顔の赤らむことばかりでしたよ。ルーバートは腕っ節が強くて、わたしが誰かと喧嘩になると必ず飛んできて、相手を蹴散らしてしまいました。でも、さっきも言ったように、わたしだってあいつに守られてばかりではありません。むしろ、かばってやることの方が多かったくらいです。


 そうだな……たとえば、ルーバートが十九、わたしが二十二歳の時です。

 ルーバートが深刻な顔をして言いました、「シンシアと結婚したい」と。……シンシアというのは我が家のメイドでした。出入りの庭師の娘を、行儀見習いということで預かっていたのです。もちろんわたしは反対しました。いくら貧乏貴族と言っても、庭師の娘と結婚するのは馬鹿げています。また周囲が許しはしないでしょう。しかもシンシアは、美しい娘ではありましたがルーバートより一つ年上でした。ことにミフェランの親類の者は身分にこだわるようなところがあったので、きっと猛反対したことでしょう。

 しかしルーバートは、わたしに反対されても強硬に彼女との結婚を望みました。シンシアも彼のことを愛していたようです。ですが、彼はあまりにもひたむきすぎました。それが却ってシンシアを追い詰めたのです。やがてシンシアは屋敷を出て失踪しました。

 それが、彼女なりにルーバートを守ったということなのでしょう。ルーバートはその後しばらく悲嘆に暮れて、毎日わたしに寂しい寂しいとこぼしていたました。そのくせシンシアの美しい心遣いに酷く感動しているようなのです。要するに彼は、自分の身に起こった悲恋に酔っていたのです。

 いい気なものでした。わたしはその頃、シンシアの家族や官憲に事の釈明をするのに手一杯だったのですから。シンシアの家の者には、彼女が小物の行商と駆け落ちしたと説明し、こちらの管理不行き届きの慰謝料を払ってなんとか納得させました。ルーバートの手によって傷物にされたなどと口が裂けても言えません。

 結局、ルーバートの名を出さずに処理するのに、わたしは半年も掛かり切りになりました。それは思いのほかストレスの溜まる作業で、わたしは恐らくルーバート本人よりも神経をすり減らしたことでしょう。わたしはこう見えて験を担ぐ性分ですから、それからはどんな庭師も家に入れることをしなくなりました。おかげで我が家の庭は使用人たちのやっつけ仕事でまかなえるよう、あっさりとしたものです。あれはあれで、父もわたしも気に入っているのですが。


 ……そんな風に、ルーバートはわたしに迷惑もかけて来ましたが、それでもわたしは彼を見限れませんでした。ただルーバートの(らい)(らく)な性情を好んだばかりでなく、彼と過ごした永い時間が、ルーバートを血を分けた弟のように思わせていたのです。しかし、そのおかげでわたしは、後に命拾いをしました。


 シンシアのことがあった三年後のことです。ひょっとしたら貴女(あなた)もご存知かも知れません――一時は、都でも噂になったようですから――、わたしは些細なことから口論になったリットン男爵と決闘をすることになってしまいました。

 彼と口論をした時は頭に血が(のぼ)っていましたが、後になって馬鹿なことをしたと後悔したものです。何せリットン男爵は剣の名手として知られていましたから……わたしが立ち向かって勝てるような相手ではなかったのです。いや、あの時は、子供の頃からの悪気の報いがとうとう来たと、死の覚悟をしましたよ。父や母と(つい)の別れまでしました。しかし御覧の通り、わたしは生きてここに居ます。また、リットン男爵は墓の下です。もちろん、わたしがリットン男爵を倒したわけではありません。ルーバートです。彼がわたしの代役を買って出て、リットンと剣を交えたのです。

 決闘は、わたしからの申し出で、わたしの家の墓がある墓地で、真夜中に行うことになりました。どうせ死ぬのなら、祖先の墓前で勇敢に戦って果てたかったのです。許可を得る意味からも、わたしは父母にその旨を伝えたのですが、その時に母がルーバートへ泣きついたそうなのです。ルーバートは友情に厚い男ですから、(かな)わぬ闘いに赴くわたしを放っておけなかったのでしょう。満月の下、わたしがリットンと対峙したその時、疾風のように現れて、わたしに先んじてリットンに刃を向けてしまいました。リットンもリットンで、そういった義侠を解する男でしたから受けて立ち、ルーバートに対し賛辞すら投げてその利剣を抜いたのです。

 いや、あの時の剣勢の凄まじさと言ったら、詩人ならぬ我が身には言葉にすることもできません。闇夜を縫うように閃く銀光が火花の赤を帯びて弾かれ合い、その応酬は舞いにも似て立ちつくすわたしを圧倒し魅了しました。驚くべきことに、ルーバートの剣術は名手(リットン)のそれに拮抗したのです。

 ですが、荒削りの剣法では限界がありました。ルーバートは次第に追い詰められ、あわやと思われた、その時です! ルーバートの剣が月光を照り返し、リットン男爵の目を眩ませました。そしてそこに放たれたルーバートの捨て身の一刀が、ついに達人リットン男爵の心臓に突き立ったのです。

 ルーバートは、あまりのことに茫然としているわたしの前まで震えながら歩いてきて――彼が人を殺したのは、それが最初で最後のことだったのです――返り血にまみれた笑顔を見せました。わたしはその、上擦ったような、むしろ絶望したかのような笑顔を生涯忘れることができないでしょう。


 ……しかし、そのルーバートも今はいません。つい最近、死にました」



『第二問。まぁ、それはまた、どうしてお亡くなりに?』


「自殺です。それは予想せられたことでした。ただひたすらに理想を信じることが()()()()()()()不幸なルーバートには、美しい夢想を理解せぬ、この野蛮な世の中は酷に過ぎたのです。現実はリットンの凶刃よりも鋭く深く、ルーバートの心臓をえぐりました。

 ルーバートの死んだ日のことは、今でもはっきりと覚えています。ただ親友の命日だからというだけではありません。ルーバートの死体を発見したのがわたしだったから、なおさら記憶に焼き付いているのです。

 それは深い、霧のような雨の日のことで……ちょうど今日のように、稲妻が空に閃いていました。ルーバートは常日頃、稲妻を愉快な天象であるとして妙に有り難がっていましたが、わたしは何か暴力的な不吉を感じて疎んじていました。だからその日は朝から書斎に籠もって、すっかり溜まっていた手紙の返答を書くのに勤しんでいたのです。厳冬、暖炉が赤々と燃えていました。

 昼下がりの事です。母が書斎の扉を叩いてルーバートの来訪を告げました。その時わたしは、違和感を覚えました。何度も申し上げた通り、彼とわたしの付き合いは兄弟同然だったので、いつもはわたしの返答など求めずに部屋に通すのが我が家の通例だったからです。作法にうるさい父でさえ、この慣例に文句を言ったことはありませんでした。父も母も、衒気の強いところがある生意気なわたしよりも、無邪気で稚気を残したルーバートを愛していたくらいですから。

 わたしが訝って聞き返すと、母も不思議そうに答えました。

『今日のバートは、なんだか様子がおかしいのです。日が月になってなってしまったように、かげってしまって……』

 わたしは心配性の母に苦笑しました。確かにルーバートは快活を絵に描いたような男だが、人間なのだから暗くなることもあるだろう。いつも通り、わたしが慰めてやるから早く通してやって下さいと言ってやると、ようやく安堵したようでした。

 ですが、いざルーバートの顔を見てみると、わたしも母の心配性を笑えなくなりました。その日のルーバートは真っ青な顔をして、落ち着かない目でわたしの顔色をうかがっているのです。あんなルーバートを見たのは生まれて初めてでした。彼の顔を見た時の、背筋のむずかるような悪寒を今でも思い出すことができます。


 ……それから、彼は唐突にシンシアの話をし出しました。今どうしているのだろうとか、あの時どうして何も話さず去ってしまったのだろうとか……そんな――言ってしまえばつまらないことを――あれこれと、二時間ばかりも話していったのです。

 その間わたしは、適当に、これまたつまらない相槌を打ちながらルーバートの話を聞いていました。実を言えばルーバートの話はほとんど独り言めいた呟きだったのですが、わたしはなんだか、黙っているのが怖かったのです。ルーバートの言葉を受け止め損ねると何かが音も無く崩れ去るような、そんな危うい空気が書斎に満ちて、暖炉の炎がやけに大きく揺れていました。

 シンシアについて語るべきことを失った頃、部屋の中に静寂が訪れました。わたしの恐れていた沈黙でしたが、わたしは不思議と適当な話題を思い付くことができず、ただ困り切って彼の顔を眺めていました。やがてルーバートは、震え出しました。寒いのではありません。話に集中するあまり、暖炉を焚きすぎて暑いくらいになっていました。実際、ルーバートはびっしょりと汗をかきながら、わたしに言ったのです。

『ジェイル、さらばだ。二度と会うことはあるまい』

 そうしてルーバートは、わたしの前から去りました。永遠に去りました。


 わたしは、その後しばらく呆然としてしまって、何をしていたのか覚えていません。ようやく我を取り戻した頃には、すっかり夜中になっていました。それでもルーバートの言葉の意味は解りませんでしたが、放っておけるわけもありません。いえ、すぐにでも追いかけねばならなかったのです。わたしは自分の決断の遅さを呪いつつ家を出て、すぐ隣に建つルーバートの家へと駆け込みました。

 ルーバートの父君は、彼の小さな頃に馬車の事故で死んでいて、屋敷にはルーバートの母君の他は通いの使用人が数人いるきりの寂しい家でした。彼が幼い頃からわたしの家に入り浸っていることが多かったのも、一つにはそのせいもあったのでしょう。

 その日、わたしを迎えてくれたのはルーバートの母君でした。わたしの母よりは一回り若い、どこか儚げな美しい女性です。御名をレニ様とおっしゃいます。

 わたしは来意を告げ、ルーバートの部屋に急ぎました。レニ様もルーバートの様子がおかしいことには気付いてらしたようですが、友人同士、二人で話した方がよかろうと言って玄関に残ってもらいました。後にして思えば、それは不幸な正解でした。

 ルーバートの部屋の扉をノックすると、反応がありません。無視されるであろうことは半ば予想の内だったので、わたしは彼の返事を待つことなく扉を押し開けました。鍵は掛かっていませんでした。机と、本棚と、後は雑多なガラクタの積もった、狭い部屋でした。

 それだからわたしは、文机にもたれ掛かって絶命しているルーバートをすぐさま見つけることができたのです。

 衣服に乱れもなく、特にもがいた様子もありませんでしたが、彼が死んでいることは一目で判然としました。彼のあの、美しかった面相が、嫌でもわたしを絶望させたのです。

 死因は、毒でした。本来は庭の手入れに使われる薬品で、人が飲み込めば、ほんの少量で容易(たやす)く死に至るものです。わたしの家で、例のシンシアの件が起こるまで使われていたものでした。家族ぐるみの付き合いをしていたルーバートですから、我が家の倉庫から薬品を持ち出すことは簡単なことだったでしょう。

 その薬の影響で、ルーバートの死に顔は凄惨なものでした。額から左の頬にかけて魚を思わせる青黒い斑点が現れ、左目は真っ白く濁っていました。残った右目にも光がなく、しかしこちらを睨み付けてくるような無意の不気味をたたえていたのです。

 わたしは、悲鳴も上げられずに彼の死に顔を見つめ、すくみました。冷たいような灼け付くような鼓動がわたしを苛み、わたしに言ってきました――「死んだ!死んだ!」。それは警鐘のようにわたしの心を急かしましたが、警鐘にしては遅すぎたのです。おしまい(カーテンコール)。いくら騒いでもルーバートは戻ってきません。そうして恐らく、彼を思いとどまらせる最後のチャンスは、わたしとの会話の中にあったはずなのです。庭師の薬品で死んだことからしても、彼がシンシアのことで何か激しい感傷を起こして死んだことは間違いないように思えました。

 額に手を当て、落ち着こうと努力して、失敗しました。怖ろしくて、怖ろしくて、年甲斐もなく涙を流しました。そうして声も無く悶えて、わたしは実に十分近くもルーバートの死体と対峙していたのです。

 ようやく落ち着いたわたしは、ルーバートの目を閉じさせてから、部屋を出ました。少し離れたところで様子をうかがっていたらしいレニ様が気遣わしげにこちらを見ておられました。わたしはその時、無性に死にたくなりました。レニ様の健やかなお心に、深い深い傷を付けることを告げねばならなかったのです。しかもルーバートの親友の責として、逃れられない役目なのです。わたしは、その一時だけルーバートを深く恨みました。なんと辛い役目を押しつけてくれたものか!

 ルーバートの突然の自殺を告げられ、レニ様は…………止しましょう。あの時のことは、思い出すと今でも身を斬られるように辛い。また、葬儀の席の話などは退屈でつまらないだけでしょうから、省きます。

 ……これが、わたしとルーバートの交誼の全てです。結局は死なせてしまったものの、わたしの第一の親友と言えば彼でしょう」



『そして、第三問――』


「あなたは何故、ルーバートを殺したのですか?」

 馬車の中に、異様な沈黙が落ちた。

 沈黙。変化はそれだけだった。馬車は依然、走り続けている。稲妻は鳴り響いている。世界は灰色。だが、時折、思い出したような稲光が、切り裂く。滅茶苦茶に切り裂く。

 アンネローゼ嬢は、やはり真っ直ぐにジェイルを見つめている。見上げるのでも、見下ろすのでもない。だから逃げられない。彼女は媚びない。彼女は蔑まない。彼女は容赦しない。

「え?」

 ジェイルは落ち着こうとした。いきなり、何を言い出すのだ彼女は。まったく御婦人の考えることはよく解らない。こういう時は――そう、優しく諭すのだ。紳士として。

 ごろごろと頭上が騒ぐ。鬱陶しい雷鳴に心中で毒突きながら、ジェイルは苦笑して口を開いた。

「どうも、貴女は話を聞き違えてしまわれたようですね」

「いいえ、ジェイル。誰よりも正確に、あなたのお話を拝聴いたしました。

 あなたは人殺しです。卑劣な人殺しです」

 アンネ嬢は、不意に身を乗り出した。口元で指を組み、昏いような目でジェイルを見つめる。馬車が揺れても、彼女の視線は揺れない。()()()と、ある。

「しかも――しかもジェイル。あなたがルーバートを殺そうとしたのは、一度や二度ではありませんでしたね」

「何を馬鹿な……そんな事実は、無い!」

「そうでしょうねジェイル。あなたは賢い人。いつもいつも、御自分の手を汚さずにルーバートを殺そうとしていました。

 例えば、先ほどもうかがったリットン男爵との決闘。あれは本当は、リットンではなくルーバートを討つための茶番だったのでしょう?」

「はッ……何を、馬鹿な」

 ジェイルは平静な様子で、婦人の妄言を笑って見せた。だが、自分が同じ言葉を繰り返してしまったことに気づいて、慌てて反駁の言葉を引き絞った。

「わたしとリットン男爵が共謀していたとでも? あり得ない。わたしがリットン男爵と初めて会ったのは、まさしく口論になったサロンでのことだし、それはリットンの知人にでも尋ねればすぐに判ることだ」

「でしょうね。少なくともリットン男爵は、あなたのことをよく知らなかった。だからこそ、初対面にもかかわらず無礼な論議を吹っ掛けてきたあなたに強い怒りを覚えた。ジェイル、あなたは、リットン男爵の御妾が娼窟に居たことを満座で非難したそうですね」

「調べたのか……!」

 かッとなって席を立ったジェイルは、しかし、振動に足を取られてよろめいた。馬車は、この寄る辺なき密室は、今も灰色の草原を疾走している。

 その中で彼女は、アンネローゼは微動だにせずうそぶいた。

「ええ……ある人に頼まれたので。サロンのお友達に噂を聴き集めてもらいました」

「ある人? ……シンシアの家族か!?」

 アンネ嬢は、ジェイルには答えずに続けた。

「あなたはリットン男爵を知っていました。普段は鷹揚でも義侠心に厚く、家族や友人に対する侮辱は刃を以てしてでも(そそ)がずにはおかれない激情を知っていました。だから、どうすれば彼を激昂させ、自分に決闘を仕掛けさせられるかも解っていました。無論、その程度のことでリットン男爵が決闘にまで踏み切るかは確信がなかったでしょう。しかし、この時点で挑発に失敗しても損はありません。何度でも試す機会はありました。

 同時にあなたはルーバートの性格も把握していました。彼は友情というものを信じていましたし、何よりあなたには返しきれないほどの恩がありました。あなたが決闘を挑まれたとなれば、勇んで助太刀に立とうとするのは当然のことです。相手が達人のリットン男爵であろうと……いえ、であればこそ彼の勇気は燃え上がったことでしょう。真に命を懸けて友誼を見せることは、何よりも純粋であることに憧れていたルーバートには、むしろ甘美な誘いであったに違いないのですから。

 こうしてあなたは、直截な働きかけをせずに、二人を闘わせる舞台を整えることに成功しました」

「……ルーバートが来るとは――そして間に合うとは限らなかった。第一、ルーバートが殺されたのなら、わたしとてリットンに斬られていただろう」

「そのためにあなたは、まずは御両親に決闘のことを打ち明けました。日頃ルーバートを深く信頼し、また他に頼む者もない御両親はまず間違いなく彼に息子の窮状を訴える。……とはいえ、この計略の過程において、ここが一番の博打であったのでしょう。御両親が他の者に打ち明けたり、あるいはルーバートに頼ることに思い至らなかったら、あなたは本当にリットンに斬られていたかも知れない。しかし、あなたはその賭けに勝った。成算はあったのでしょう。あらかじめ、日頃から御両親にルーバートの剣術を吹聴しておいたのかも知れない。とにかく、誘導することは難しくはなかった。

 しかしてルーバートは決闘の場に現れた。そして、その時点であなたは生き残る糸口を得たのです。なんとなれば、リットン男爵は剣の達人であると同時に侠気に溢れた好漢として知られていました。ルーバートの助太刀を認め、彼を斬ったならば、ルーバートの勇気に免じてあなたを斬ることはなかったと思われるからです。あなたがルーバートの死を悼み、自分の間違いを認めて見せでもすれば十中八九はリットン男爵も殺意を維持できなかったでしょう。

 あなたにとっての誤算は一つ。ルーバートが勝ってしまったことです」

 アンネローゼの声は冷静だった。冷たく、静かだった。

 彼女の推論は、辻褄は合っていても裏付けが無い。それは彼女自身にも、ジェイルにも解っていた。だが、それにも関わらず、ジェイルは自分が追いつめられていく圧迫感に息を止めていた。

 裏付けが()()()()こそ、彼には恐ろしかった。

 彼女は()()()()()。でなければ、こうまでの物言いはできないはずだ。

 それでもジェイルは、まるで儀式のように、条理に準じた言葉を吐いた。

「理由が無い……わたしが、ルーバートを殺さねばならない、理由が!」

「シンシア・ハンクス」

 ジェイルは確信した。やはりそうだ。この女は()()()()()

「あなたがルーバートを殺さねばならなかった理由は、その庭師の娘です」

「シンシアは失踪した。その後、二度と会っていない……」

「あなたに言うのも滑稽ですが、彼女は失踪したのではありません。

 殺されて埋まっています。あなたのお家の庭に。

 何故、あなたがシンシアを殺したのか。その理由は判りません。しかし、彼女が美しかったことと、ルーバートと彼女の関係が引き金になったのではないかと思います。そしてあなたは衝動的に彼女を殺し、庭に埋めました。彼女が庭師の娘であったことは、なにかの皮肉か運命か。あなたはそのことを口実に、庭師の出入りを禁じて人殺しの発覚を防ぎました。

 しかし安心はできません。ルーバートはシンシアのことを諦めなかった。あなたも御存知の通り、彼の恋とは、そういった性質のものでした。時が経とうが、相手が目の前からいなくなろうが、その硬度を変えることなく節を守り続ける。いわば絶対の熱誠。

 いつまでもシンシアを探し求めるルーバートの存在は、あなたにとって日に日に脅威となっていきました。そうしてリットン男爵との決闘を仕込みましたが、ルーバートは偶然の助けもあって男爵を打ち倒してしまった。しかも、その後になってルーバートは、あなたがリットン男爵を挑発した一件の不自然さに気づき、あなたに疑いを持つようになってしまった。

 彼が死んだ日、尋常ならざる様子であなたを訪ねたというのは、事の真相をあなたに問い質すためだったのではないですか? もっともあなたは、今と同じように空とぼけて見せたことでしょう。しかしルーバートには確信があった。あなたがルーバート・ミフェランを知り尽くしていたように、ルーバートもジェイル・セルヴェを知り尽くしていたのですから。

 ――もう躊躇はしていられません。あなたは多少強引にでもルーバートを始末しなければならなくなりました。そうしてそれには、自殺に見せかけた毒殺が最も穏当な手段でした。ルーバートの精神が一歩間違えれば危険な方向に傾きかねないことは周囲の誰もが感じていたことですし、親友であるあなたが遺書代わりとも取れる言葉を聞いたとなれば、疑われる可能性は万が一にも無い。事実、あなたは今日に至るまで官憲に疑いを持たれることもなく平穏な毎日を送り、当主を失ったルーバートの家に出入りすらしている。ルーバートの母君は、あなたをいたく信頼し頼っているそうですね。

 ルーバートを殺した時も、その信頼は役に立ちました。あなたはルーバートと別れた後、急いで毒を用意して、夜になってから彼を訪れました。日頃ミフェランの家と親しくしているあなたが、人払いしてルーバートと二人きりになることは造作も無いことだったでしょう。そしてあなたは、言葉巧みにルーバートに毒を含ませ、殺しました」

「違う……わたしが入った時にはもう、ルーバートは息絶えて――」

「あなたがルーバートの部屋に入ってから出るまで、十分もの間があったのでしょう? それだけの時間があれば、自害に見せかけるだけの算段は難しくはありません」

 馬車は、(ふるい)のように振動している。悪徳(パンドラ)の箱。

 ジェイルはもう、何も言わなかった。今、彼の頭の中を支配しているのは罪悪でも、怒りでも、戸惑いですらなかった。ただひたすら、シンプルな一つの疑問だけが塗りつぶしている。


 なぜだ? なぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだなぜだ?


 二十三年。ルーバートが生まれ、そして死ぬまでの時間だった。

 それは、ジェイルがルーバートと過ごした時間でもある。

 彼はルーバートが生まれた時から知っていた。溺れかけた猿のような、それでいてなんとしても守らねばならぬのだと思わせる、産着に包まれた弱い姿を知っていた。それはジェイルが生まれて初めて目にした赤ん坊だった。こんな生き物が、いったいどうのように自分と同じような人間になっていくのか、好奇心を持った。それが最初だった。

 しかし、結論から言うと、ルーバートはジェイルとは全く違った生き物になった。

 ルーバートが十歳になるかならぬかの頃、彼の父が馬車の事故で死んだ。ルーバートの屋敷に報せが届いたのは事故の翌日のことで、使者がやってきた時、ルーバートはジェイルと喧嘩をしていた。ちょうど今日のように、稲妻を柱に雲の天蓋を頂いた、黒い天気だった。

 喧嘩の原因は、言ってみればとても些細なことで、捕まえたヒキガエルの処遇について意見が対立した。それだけだった。どう対立したのかは忘れてしまったが、ルーバートが何かのおとぎ話を鵜呑みにして、ヒキガエルを家来にしたいと言い出したことが発端だったように思う。その喧嘩は、泣きながらルーバートを抱きしめた彼の母に遮られて決着が付かず仕舞いだった。なぜか、そこで決着が付いていれば、その後の人生で人殺しをせずに済んだのではないかとジェイルは思っている。ところで、ヒキガエルは喧嘩の最中に踏み潰されて、死んだ。

 父を失ったルーバートは、精神的な人間になっていった。何事につけ信念を口にした。尊敬するのは決まって死んだ人間だった。それまではさほど関心もなさそうだった剣術に没頭して、時々、わざと自分の腕を切ることがあった。一度、自分宛の手紙を勝手に読んだ男を半殺しにして、牢屋に入ったことがある。ジェイルが迎えに行った時、彼は真面目な顔で「殺すつもりだったが、死ななくてよかった」と言った。それきり、その件については二度と触れなかった。すっかり忘れたのだと思う。

 シンシア・ハンクスは美しい娘だったが、心根まで美しいとは必ずしも言えなかった。自分の器量の良さを自覚して、どこか値踏みするような目で男を見るようなところがあった。彼女のジェイルを見る目を思い出すと、今でも背筋が沸き立つ気がする。野良猫が人間を見る目だった。ルーバートを見る時はどうだったか。それは多分、ルーバートしか知らないことだ。

 ともかくルーバートは十九の時、彼女と結婚すると言い出した。仮にも貴族のルーバートが、縁もない庭師の娘を正妻に娶ると言うのだから、無茶苦茶な話だった。ジェイルは当然ルーバートを諫め、思い直すか、せめて妾にするように言い聞かせたが、ルーバートが他人の干渉で意見を変えるような男でないことも解っていた。結局困り果てて――ジェイルはルーバートの母から、この結婚を破談にするよう頼まれていた――、シンシアの方から断ってもらおうと彼女を呼んだ。その時、彼女がその艶めかしい唇から紡いだ言葉がジェイルの人生を暗転させたのだが、その内容は、どうでもいい。

 シンシアの死体は、どこかヒキガエルに似ていた。

 ジェイルはルーバートを守ったつもりでいた。だが、ルーバートはいつまでもシンシアのことを忘れようとせず、執拗にその行方を捜し続けた。そうして、今度はルーバートがジェイルの脅威になった。ルーバートの行動力、そして実行力はジェイルが一番よく知っていた。彼はいずれ、シンシアが()()()()()のか、必ず嗅ぎ付ける。少なくともジェイルはそう思った。いや確信した。

 ルーバートはそういう男だ。ジェイルにはできないことを、例え能力の範疇であっても準縄に阻まれて実行に移せないことを、平気でやってのける。モラルが無いわけではない。ただ、彼の「モラル」は、世間的な「常識」や「慣例」と言う名のそれ――あるいは堕落の符牒――とは明らかにかけ離れたものだった。ジェイルは、彼のそんな性情に、幼児を見るような侮りと羨望を抱いていた。だが、ルーバートのその聖剣(モラル)が自分の(のど)(くび)に突きつけられた時、ジェイルは恐怖した。

 シンシアの死体には、骨になっているであろう今でも明らかな他殺の痕があるし、何よりジェイルの家の庭に埋められている。発見されれば、ジェイルは破滅するしかなかった。ひょっとしたらルーバートに殺されるかもしれない。

 ――ジェイルはルーバートを殺すことにした。

 そこから先は、アンネローゼ嬢が()めつけた通りに事が運んだ。手の込んだ段取りを踏んだリットン男爵の策が脆くも破れ、単純な毒殺が奏功したのは滑稽だった。あまりの滑稽さに、泣いた。


 しかし――なぜだ?



『第四問。』


 それをなぜ、この女は知っている?

「不思議ですかジェイル?」

 アンネローゼは、あくまで静かに言った。

「何故わたしが、証も無いのにここまで言うのか」

「あなたのような女性が、何故そのような妄想を口になされるのか。

 それが不思議なのです……!」

 ジェイルの据わった視線、そして恫喝をはらんだ声音にも、アンネローゼは動ずることなく彼を見つめ返した。彼女の瞳は揺れない。揺れない瞳に見つめられた時、それを映したジェイルの瞳は、大きく、揺らいだ。

 揺らぎを表に出さなければ骨が軋んで砕け散る――ジェイルは得体の知れない焦燥に突き動かされて、半ば無意識に言葉を続けていた。

「馬鹿げている! わたしとルーバートは友だった、親友だったんだ!

 誰が……一体どこの誰が! あなたにそんな馬鹿げたことを吹き込んだんです!?」

「聞いてどうなさいます?

 その人も殺しますか?」

「何を馬鹿な……」

「そうですね……馬鹿げています。

 わたしに真実を教えてくれた、その人は――」

 その時初めて、アンネローゼ嬢は笑った。いや、笑みを見せたことはあった。だが、まるで仮面をかぶってそうしているように、うっすらと演技の膜をまとっていたのだ。

 しかし、その微笑は、洗ったように清潔に、彼女自身をさらけ出していた。それはアンネローゼをまるで知らない人間にも一目で分かっただろう。

 彼女は、静かな顔のそのままで、ぽろぽろと涙をこぼしていた。童女のような、泣き様だった。

「もう、死んでいるのですから」

「いい加減に……!」

 女の戯言に席を立った男は、しかしそれ以上の怒声を上げることはできなかった。

 ――なぜなら――

 ()()――

 ()()()()()()()()()!――――


 ァんッ!


 馬車が大きく揺れる――屋根がたわんで天板にひびが入った。

 ――屋根の上に、何かが落ちてきた――

 その「何か」の重みが、沈黙と震撼になって車内にのしかかる。重圧が胃の腑の底にわだかまって足をすくませ、ジェイルの体は力無く壁に叩き付けられた。アンネローゼ嬢は、揺らがなかった。あらゆる意味で揺らがなかった。テーブルに載せられた白い指先はぴくりとも動かず、細い身体は超然として震えの一つも見せていない。そして何より、彼女の瞳は涙の中でも澄んだ光を放ち――ジェイルは、この期に及んで彼女を心底から愛していることに思い至った。

 愛する女は、彼が人殺しだと知っている。

 ()(びと)の告発を受け、知っているという。

 急に力が抜けてきた。揺れは収まったが、立ち上がる気にもならない。

 ただ、するりと言葉が出た。自分でも意識したつもりはない、それは頭の裏側から透けて出た言葉だった。

「……アンネ、あなたは以前からルーバートを御存知なのですか?」

「存じています」

 アンネローゼは間をおかずに答えた。その声音には確信があった。

 ジェイルは肌の粟立つのを感じた。異様なことだった。

 人は、事実を信じることは()()。事実は事実としてそこにある。空気を呼吸することに疑問を覚える者などいない。ことさらに信じる必要はなく、故に意識することもない。だが彼女の言葉には信念があった。自分はルーバートを知っている。それは特別なことだ。そう――誇るべきことだ。と。

 その言葉の響きをなんと呼ぶ? 平凡な一事に信を持ち心を寄せ、自らの拠って立つべき芯とする想いの響きをなんと呼ぶ?

 ジェイルは問い、そうして答えた。稲妻が、閃いた。

 それは――愛と呼ぶのだ!

 そうして、ジェイルの心と体は弾けた。わけの解らない昂ぶりに突き動かされ、振り子のような勢いで身を起こす。目が痛い。血潮が眼球の表面を伝うのが解る。

 アンネローゼは変わらぬ目で、そんなジェイルを見つめていた。見覚えのある目だった。

 ――あいつだ!

 庭師の娘!

()()か! お前も()()()!」

 鉤のように曲げた指をわななかせながら、ジェイルは吠えた。じりじりとアンネ嬢に詰め寄っていく。あの時感じた焦げる匂い。初めて人を殺した日のあの匂い――屋根の上を何かが這いずり回っているように感じるのは気のせいだろうか――


 ――馬車は走る。稲光を浴び草に跳ね、原生の大地の荒い抱擁に弄ばれながら。馬車は走ることが生きることだから。死という門にたどり着くその時まで、馬車は精一杯に己が命を削り続ける。揺られながら、光りながら、回りながら――

 ――その身に死神を負いながら――


「ヒキガエル!」

 ジェイルの手が、アンネローゼの細首にかかっていた。絞めるというよりは握り潰すように、ぎし、ぎし、と圧迫していく。

 血道の浮き上がったジェイルの肌とは逆に、アンネローゼの肌はますます白く凍り付き、稲光を照り返して輝くばかりに映えていた。

 体をかがめ、()()ろすジェイルを()(くだ)す――その瞳!

 自分の知らない部分から湧き出る力が、ジェイルの指をアンネローゼの首に食い込ませ、引き絞らせる。冷汗を伴う昂奮。ジェイルは胸の内に認めた。これは、心地よい時間だ。地獄の縁に足を載せ、遙か見下ろす戦慄の快!

「終わりだ……何もかも、終わらせるぞ……

 ……()()()()()! 聴こえているンだろう!?

 決着を付けよう! 俺とお前、最後の闘いだ! 俺は、お前を殺せば終わると思った。誰も俺の邪魔をしなくなると思った……だが違った! 俺とお前は二人で一人。お前が死んでも俺が生きていれば、お前は()()()()! いつまでも影になって付きまとう! この女も()()()! 笑わせる……俺の愛ですらお前の物だ!

 ならば殺してやる! 今度こそ、お前を葬り去ってやる! 俺も死ぬ、それで全て終わりだ。だが、いいか。お前が終わらせるんじゃないぞ。いいか、ルーバート……俺がやるんだ!」

 細い首が、さらに引き絞られて半分ほどの太さになったかと思われた。アンネの瞳から徐々に光が消えていき、両腕がだらりと垂れた。もう死んでいるのかもしれない。だがジェイルは容赦しなかった。あの日、ルーバートの隙を見てヒキガエルを蹴り殺したように。あの日、シンシア・ハンクスを殴り殺して捨てたように。あの日、農毒で苦しむルーバートの青黒い顔を微動だにせず見下ろしたように――


 ――否、違った。


 この日のジェイルは、殺害者であることができなかった。

 瞬間にして、絞殺者はくびられる側になっていた。

 気が付いた時にはもう、首に巻き付いている。

 ――何が?

 当然の疑問。ジェイルはぽかんとして、アンネローゼを虐げていた腕を解いていた。そうして、自分の首を見下ろす――見えなかった。当たり前だ。鏡も使わずに自分の首を見ることなどできない。だからこその急所。死の一線。

 だがまだジェイルは生きている。だから感じた。巻き付いている物の熱を。ほとばしらん力動を!

 そして、その力の主がジェイルの(くび)に恐るべき圧力を加えた瞬間――彼は飛んでいた。

 視界を稲妻が埋め尽くし、その後には灰色の空が、(ひょう)(ふう)に蠕動する地獄めいた草原が、万華鏡のようにめまぐるしく現れては消える。

 ジェイルは瞬時に理解した。首を苛む一本の何かによって、自分が馬車の外に引きずり出されたことを。不思議と虚実を疑うことはなかった。

 飛んでいる。そう解るのは、馬車が見えたからだった。ドアが派手に弾け飛んで、ぐったりしているアンネローゼの姿まで見えた気がした。やっぱり彼女は美しかった。そして、馬車の屋根も見えた。

 そこには怪人がいた。

 そいつは逆立つ鱗のような、緑色のマントを着込んでいた。その質感も然ることながら、ある意味で最も奇妙な点は、フードが頭全体をすっぽりと覆ってしまっていることだった。あれではろくに前も見えまい。フードには、なにか爬虫類を思わせる眼のような模様があったが、特に細工がされている風でもなかった。

 ……? あのマントを知っている――聞いたことがある。子供の頃に……ジェイルと二人で彼の乳母に聞かされた。人が死ぬ時に現れて、その骸を喰らう代わりに遺志を遂げさせる、魔法のマント、人喰いマント……

 だが、ジェイルには最早そのことを考えている猶予も残されてはいなかった。

 マントの存在に気づき、彼はようやくにして、自分の首に巻き付いているものの正体を知った。

 ――舌だ。あの奇っ怪なマントのフードの中から伸びる、異様に長い、強靱な舌が、ジェイルの首に巻き付いて馬車の中から引きずり出したのだ。

 そうして今、ジェイルは舌に振り回されて宙を舞っている。首が絞まっているはずだが、何故か苦しくはなかった。生まれて初めて、無力が心地良い。ただ、地面に落ちるのが怖かった。叩き付けられて四肢が散るのは惜しくない。だが、死ぬのならばこの自由の中で死にたかった。()()には確かに、彼が生涯に求めて得られなかったものがあるのだから。


 ――望みは叶えられた。

 ある瞬間、魔物の舌はするりとジェイルを開放し、男の体は今度こそ縛めなく空に投げ出された。同じくして、草原を鎌の如き颶風が走る。煽られたフードが半ばまでまくられ、中の者の左半面をさらけ出した。その中の顔には蒼い鱗があった。そして左目には瞳が無く、真っ白に濁って――死んでいた。

 青面獣。奴が来た。ジェイルは認め、満たされた。


 そして地面に墜ちることなく、(らい)(てい)に撃たれて灼き尽くされた。



 ――蛙が鳴いて、間もなく雨が降り出した。

 けぶるような(しら)(さめ)が草原を塗り潰し、やはり止まることのなかった馬車をとぷんと飲み込んだ。



         *


 アンネローゼ・ルマンユはその翌年に結婚した。相手は平凡な貴族の青年で、彼は絵に描いたような愛妻家だった。子供は三人。全員が女の子だったが夫は頑として妾を作らず、長女が遠縁の貴族の家から婿を取り、次女は隣家の養女になって、三女は商家に嫁入りした。

 三女の夫が才覚のある男で、夫妻は晩年も比較的富裕な生活を送った。唯一、姑との折合いにだけは最後まで四苦八苦したが、それを幸福の瑕疵と言うのは贅沢というものだろう。彼女が美しすぎるのがいけないのである。




Mantle Maneater : Episode 3

 Three Question In The Pandora Carriage  Fin.

 

 

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