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姉の恋人が、私に向いていただけのこと  作者: 成神 なるせ


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ep. final 私を削らなくても成り立つ関係

最終話です。

 伯母からの手紙に返事を書いたのは、三日ほど経ってからだった。

 本当は、届いたその日のうちに断るつもりだった。


 人の教育方針だの後見の補佐だの、そんな話を今の私が受けるのは、あまりにも皮肉に思えたからだ。


 恋人ひとり繋ぎ止められなかった女が、他人の人生の助言をするなど、笑い話にもならない。

 だが、その考え方自体が、少し違うのかもしれないとも思った。


 恋愛に向かなかった資質と、他のことに向いた資質は別だ。


 そんな当たり前の切り分けを、自分自身にだけ適用できないのは、ずいぶん滑稽ではないか。


 だから私は返事を書いた。


 話だけでも伺いたい、と。


 数日後、伯母の屋敷で引き合わされた相手は、まだ二十代の半ばほどに見える伯爵家の次男だった。


 名を、ユリウス・フェルナー卿という。


 伯母の話では、フェルナー家では長兄が家を継ぐことになっているが、次男であるユリウス卿にも、親類筋の子弟の教育や家政の整理を任せることが増えているらしい。


 それで、若い従弟の学問や生活態度について相談に乗れる人間を探している、ということだった。


 私は正直、最初のうちはほとんど期待していなかった。


 どうせまた、自分の考えを述べる女を便利とだけ見なす男だろう、と。


 そうでなくとも、伯母の紹介で来るのだから、礼儀正しく当たり障りのない会話をして終わるだけだろうと思っていた。


 けれど、会ってすぐに、その予想は少し外れた。


「エレノア嬢のお話は、伯母上からよく伺っています」


 ユリウス卿はそう言って、穏やかに会釈した。


 派手な美丈夫というほどではない。むしろ地味な部類だろう。

 髪も瞳も落ち着いた色合いで、装いも過不足なく整っている。


 だが、目が静かだった。

 人を値踏みするでもなく、かといって漫然と眺めるでもない。

 相手の言葉を待つ目だった。


「あまり良い話ばかりではなかったでしょう」


 私がそう言うと、彼は少しだけ口元を緩めた。


「いいえ。非常に理知的で、仕事を任せるなら安心だと」


「それは、褒め言葉として受け取ってよろしいのかしら」


「少なくとも、私は褒め言葉として使いました」


 その返しが、少し意外だった。


 愛想だけの軽さではない。

 だが、硬すぎて人を試す感じもない。


 私は席についてから、伯母の用意した茶器に目をやった。白磁の縁に細い金が入っている。趣味の良い、静かな器だ。


「従弟の件ですが」


 ユリウス卿はすぐに本題へ入った。


「学問そのものが嫌いというより、自分で考える前に投げ出す癖がありまして」


「甘やかされて育ったのですか」


「半分はそうでしょうね。あとは、自分が長男ではないので、どこまで本気でやるべきか分からずにいるのだと思います」


「立場が曖昧なのね」


「ええ」


 そこから話し始めると、不思議なくらい、会話が噛み合った。


 彼は私の意見を途中で遮らず、必要なところではすぐ質問を返し、反対意見がある時も張り合う形ではなく論点をずらしてきた。


 議論している、というより、考えを一緒に組み立てている感じだった。


「罰で机に向かわせても、根本は変わらないでしょう」


 私が言うと、ユリウス卿は頷く。


「私もそう思います。問題は怠慢そのものではなく、やる意味を本人が持てていないことですから」


「では、責任を与えるのが先かもしれません」


「責任、ですか」


「小さくてもいいの。たとえば家の中で、自分が見なければ困る範囲を持たせる」


「なるほど」


「誰かの役に立つ実感が先にあれば、学ぶことにも結びつきやすいわ」


「面白いですね」


 その一言に、私は少しだけまばたいた。


 面白い。

 そう言われたのは久しぶりだった。


 頼もしい、助かる、さすがだ。

 そういう言葉は今までにも聞いたことがある。


 だが面白い、は違う。


 それは能力への評価というより、思考そのものへの興味だ。


「面白い、ですか」


「ええ。私はつい、今ある問題をどう抑えるかから入ってしまうので」


 ユリウス卿は苦笑した。


「けれどあなたは、本人の立場の曖昧さまで含めて整理される。そういう見方は、私には足りません」


「買いかぶりすぎでは?」


「そうでもありません。少なくとも、今の提案は私一人では出ませんでした」


 私は、返事に少し困った。

 こういうふうに言われることに慣れていなかったからだ。


 何かを任せたい、助けてほしい、そういう意味で評価されることはあっても、考え方そのものに価値があるように扱われることは、あまりなかった。


 伯母はそれを見て、どこか楽しそうにお茶を注ぎ足していた。


 その日の話し合いは長引き、最終的には次回も時間を取って細かな方針を詰めることになった。


 帰り際、玄関まで見送りに出てくれたユリウス卿が言う。


「今日はありがとうございました。予想以上に実りが多かった」


「それならよかったわ」


「もしご迷惑でなければ、次もぜひお願いしたい」


「伯母の顔を立てるためでなく?」


「それもゼロではありませんが」


 彼は少し笑ってから、続けた。


「あなたと話すと、物事の見え方が増えるので」


 私はその言葉を、妙に長く引きずった。


 帰りの馬車の中で、窓の外を流れる街並みをぼんやり見ながら考える。


 物事の見え方が増える。

 そんなふうに言われたことが、これまであっただろうか。


 私の有能さは、いつも便利さに近い場所で評価されてきた。

 家族にとっても、アレクシス様にとっても、たぶんそうだった。


 頼りになる。しっかりしている。任せられる。

 それは間違っていないし、侮辱でもない。


 だが、その評価の先にはしばしば、ならば一人でも平気だろう、という雑な省略があった。


 けれど、ユリウス卿の言葉には、それがなかった。


 その後、私は伯母の伝手で、何度かフェルナー家の相談に乗るようになった。


 従弟君の教育だけでなく、使用人同士の不和や、家庭教師の選定、古い出納帳簿の整理まで、思いのほか幅広かった。

 だが不思議と、それは苦ではなかった。


 やることが明確で、必要とされる場所がはっきりしている。

 しかも、自分の意見を出せば、それがきちんと検討され、反映される。


 恋人との時間では感じなかった種類の充足感だった。


 ある日、フェルナー家の書庫で帳簿を見ていた時のことだ。


 私は数年前の支出項目の癖から、同じ商会に余分な手数料を払い続けている箇所を見つけた。

 それをユリウス卿に伝えると、彼は驚いたように書類を覗き込み、それから感心した顔で息をついた。


「よくこんなものに気づきますね」


「癖が同じですもの。見比べれば分かるわ」


「いえ、見比べる発想がまず出ません」


「帳簿はそのためにあるのよ」


「私にとっては、帳簿は眺めると頭が痛くなる紙の束です」


 あまり真面目な顔で言うので、私は思わず笑ってしまった。


「ひどい言い草ね」


「本心です」


「では、今後は痛くならない程度に見方を教えます」


「助かります」


「素直でよろしいこと」


「素直でいないと叱られそうなので」


「叱るかどうかは、あなた次第です」


「それは怖い」


 そんなふうにやり取りしている自分に、ふと気づく。


 私は今、随分と気楽に話している。


 相手を試してもいないし、試されている感覚もない。


 意見を言っても、相手の自尊心を傷つけたのではないかと身構える必要がない。


 ユリウス卿は、私の能力に競争心を刺激されるのではなく、純粋に受け止め、尊重し、必要なら自分の不得手を認める。


 それが、ひどく新鮮だった。


「どうかしましたか」


 彼が顔を上げる。


「いいえ」


 私は首を振った。


「少し、不思議だと思っただけです」


「何がです?」


「あなたが、私の言うことを面白がってくださるのが」


 言ってから、自分でも少し照れくさくなった。

 だがユリウス卿は笑わなかった。

 真面目な顔で、少し考えるようにしてから言う。


「面白いですよ」


 その言葉には軽い愛想ではなく、きちんと相手を見たうえでの実感がこもっていた。


「正確に言うなら、頼もしいだけでなく、興味深い」


 そして、静かに付け加える。


「そういう相手は、案外少ないんです」


 胸の奥が、ひどく静かに波打った。


 その言葉を、私はしばらく反芻した。


 頼もしいだけでなく、興味深い。


 それはたぶん、私がずっと欲しかった種類の言葉だったのだと思う。

 でも、自分でも気づかないまま、諦めていたのだろう。


 晩夏の終わり頃、伯母に頼まれて出席した小さな夜会で、私は久しぶりにアレクシス様とリリアを見た。


 二人は、よく似合っていた。


 並んで立つだけで華がある。


 リリアは変わらず愛らしく、アレクシス様はその隣で、以前よりも少し肩の力が抜けて見えた。


 彼女が笑えば彼も笑う。

 彼が誰かと話している間、リリアは周囲の空気をやわらかくほぐしながら、邪魔にならない形で視線を集めていた。


 見てすぐに分かる。

 上手くいっているのだ。


 胸が痛まないわけではなかった。

 むしろ、一瞬だけ、ずいぶん鮮やかに痛んだ。

 ああ、やはり私ではなかったのだ、と。


 けれど、その痛みは以前とは少し違っていた。


 惨めさだけではない。

 ただ、相性が違ったのだと、ようやく骨のところまで理解できる痛みだった。


 彼らは彼らで噛み合っている。

 私があの間に居座っていても、たぶん誰も幸せにはならなかった。

 それは悔しいが、事実なのだろう。


「エレノア嬢?」


 隣から声をかけられて、私は顔を上げた。


 ユリウス卿だった。

 今日は濃紺の礼装で、いつもより少しだけ華やかに見える。


「どうかされましたか」


「いいえ。少しぼんやりしていただけです」


「それはよくありません」


 彼はさりげなく私の視線の先を追い、事情を察したのか察していないのか分からない顔で言った。


「外の空気でも吸いますか」


「お気遣いなく」


「気遣いではなく、私も少し息抜きしたいのです」


「……では、ご一緒いたします」


 庭へ出ると、夜風が思いのほか涼しかった。

 灯りの落ちた噴水のそばまで歩いて、二人でしばらく黙る。


 沈黙が気まずくないことが、不思議だった。


「先ほど」


 ユリウス卿が控えめに口を開いた。


「少しだけ、お疲れに見えました」


「見苦しかったかしら」


「まさか。むしろ、そういうふうに見せまいとするところが、あなたらしい」


 それから彼は、少しだけ言葉を選ぶように続けた。


「ですが、何でも一人で抱えなくていいのではありませんか」


 私は思わず、彼を見た。


 月明かりの下で見るその横顔は、派手ではないぶん、静かで誠実に見える。


「見せても、みっともないでしょう」


「そうとは限りません」


「少なくとも私は、そう教わってきました」


「そうでしょうね」


 彼は否定しなかった。


「でも、あなたのその抱え方は、たぶん多くの人を助けてきた一方で、あなた自身を少し疲れさせているのではと」


 責めるでもなく、決めつけるでもなく、ただ見えていることを静かに差し出すような言い方だった。

 その穏やかさが、かえって胸に沁みた。


 ひと呼吸置いて、彼は穏やかに言った。


「あなたは、人に頼られたり、任されたりすることには慣れているのでしょう」


 その言葉に、私は黙って頷いた。


「けれど、あなた自身が安心して寄りかかれる相手がいる、ということには、あまり慣れていないのではありませんか」


 その言葉に、私は返事ができなかった。


 頼られること。

 任されること。

 役に立つこと。

 そういうことには、たしかに慣れている。


 けれど、信頼されること。

 しかも便利だからではなく、あなたであることに意味があるという形で。


 そんなものに、私はたぶん、一度もきちんと触れたことがなかった。


「……失礼なことを言ってしまったかもしれません」


 口を開かない私をどう受け取ったのか、ユリウス卿が少し困ったように笑う。


「いいえ」


 私はゆっくりと言った。


「少し、驚いただけです」


「驚くようなことでしょうか」


「私には」


 自分の声が、思ったよりやわらかかった。

 それが妙にくすぐったくて、私は少しだけ目を伏せた。


「あなたは、人に頼られることに慣れているのでしょうね」


 彼が言う。


「ええ」


 私は小さく笑った。


「けれど、信頼されることには、まだ慣れていないのかもしれません」


 そう答えると、ユリウス卿は目を細めた。


 面白がるでもなく、哀れむでもなく、ただその言葉をそのまま受け取るようだった。


「それなら」


 彼は穏やかに言った。


「少しずつ慣れてください」


 その声音が、驚くほど静かに胸へ落ちた。


 妹が間違っていたとは、もう言えない。

 アレクシス様が私に向いていなかったのも、たぶんそうなのだろう。


 私は私で、欲しがられているものを読み違えていた。

 それは悔しいけれど、事実だった。


 でも、だからといって、私が間違った人間だったわけではない。

 必要な場所を、間違えていただけだ。


 誰かの隣に立つことは、もっと窮屈でなくていいのかもしれない。


 自分を小さく削らなくても、成り立つ関係があるのかもしれない。


 そう思えたのは、たぶん初めてだった。


 夜風が、庭木の先をわずかに揺らす。


 私は顔を上げ、ユリウス卿を見た。


 彼もまた、静かにこちらを見返す。


 その視線の中に、急いた熱はなかった。


 だからこそ、この先を信じてもいいのかもしれないと思えた。


 私は、ほんの少しだけ笑った。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

楽しんでもらえていたら、幸いです。


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