第九話 逃走
ホテルの前についた。劇場が併設されていて、その入り口前はちょっとした広場になっている。そこで佐々木は待っていた。
「やあ、涼風くん」
佐々木はにやにやと笑いながら絢音の肩に手を回した。
「よく決心したね。これでちゃんと契約して、君達を大プッシュするから、デビューは間違いないよ」
「……男の人は初めてなので……優しくしてくださいね」
「らしいね。君みたいなレズビアンの女の子を男に染めるのが、僕は大好物なんだよ。ミカくんも楽しめたけど、君はもっと楽しめそうだ。きっと誰よりも大きなインパクトを残せるよ」
「はい……」
「じゃあ行こうか。部屋は取ってある」
佐々木は絢音を伴って、ホテルへの入り口に近づいた。
自動ドアが開く。
「言っておくけど、僕はなかなか遅くてね。明日の昼まではフリーだから、じっくり楽しもうじゃないか」
その時である。
誰かに絢音は腕を掴まれた。
「え?」
振り返ると、大きなパーカーを着込み、フードを目深に被っていて、背中には布製のギターケースを担いでいる人物が、絢音の腕を掴んでいた。
「だ、誰?」
その人物はフードを外した。見慣れたショッキングピンクとアクアブルーのツートンカラーの頭が目に飛び込んできた。
「乃愛っ⁉︎」
乃愛の目は嫌悪と怒りでぎらついている。
普段の彼女からは想像もつかないほどの激しい感情がそこにはあった。
思ったより強い力で絢音は引っ張られ、佐々木の腕から引き剥がされた。
「あ、な、何だお前は⁉︎」
絢音を引き剥がされてようやく状況を把握した佐々木は乃愛に叫んだ。
「あーやを返せよ。エロ親父。ベースでその顔ぶん殴るぞ」
乃愛は佐々木と絢音の間に立つとその小さな背中に背負っていた布ケースに入ったベースを下ろして睨みつけた。
「何だ。涼風くんのバンド仲間か」
そうと分かると、佐々木は突然余裕の表情を見せた。
バンド業界では自分の方が優位にあると言わんばかりの顔だ。
「僕と涼風くんは君たちのメジャーデビューのための大事な話し合いをこれからするところなんだ。邪魔しないでくれるかな?」
しかし乃愛も負けていない。それがどうしたという表情で中指を立てた。
「何が話し合いだよ。ホテルに連れ込もうとしやがって。要は枕じゃねーか」
乃愛の口からは絢音も聞いたことがないぐらいの荒い言葉が紡がれている。しかも声は意外に大きい。周りの客がちらちらとこちらに注目し始めた。
乃愛はベースのネックを掴み、肩に担ぎ上げた。その気になればいつでも殴りかかれる体勢である。
どこからか「喧嘩?」という囁き声も聞こえてきた。
「よ、よせよ。お子様じゃあるまいし。そういうこともしてインパクトを残すこともこの業界のメジャーでやっていくには大事で……」
注目を浴び始めて、佐々木は少ししどろもどろになっていた。その上、乃愛は殺気立っている。下手なことを口走ったら、本当にベースで殴りかかってきそうな迫力があった。
「何がメジャーだよ。んなもん、興味ねーわ。オルタナ精神舐めんな。こっちは音楽やれるなら一生アングラでのたうち回る覚悟も出来てんだ。くたばれ老害」
さすがにここまで大騒ぎすると衆目を完全に集めた。乃愛達に比べれば失うものの多い佐々木の方が、立場が悪くなってきた。
「あーや、逃げよ」
乃愛は絢音の手を引いてホテルの外に出た。
「待てっ!」
二人は広場の方に走り出した。
佐々木は追いかけようとする。
丁度その時、劇が終わったのだろう。人波が劇場から押し出されてきた。
二人は人混みの間をすり抜けていき、近くにあるテレビ局の方へと走った。
「乃愛! あーや! こっち!」
絢音が驚いて声の方を見ると、セイラが車の助手席から顔を出して手招きしていた。
二人は後部座席に転がり込むように乗り込んだ。
「いくにゃ!」
運転席のチャコがそう叫んで、車を発進させた。
バックミラーを覗くと、絢音に逃げられた佐々木が呆然と立っているのが小さく見えた。




