第三話 メジャーデビューの誘い
それからおよそ一週間が過ぎた。
乃愛から何か特別アプローチがある訳でもなく、また絢音からアプローチする訳でもない。大学、バイト、そしてギターの練習。絢音はほぼルーティン化された時間を過ごしていた。一つ違うことがあるとすれば、乃愛の心強い言葉がずっと絢音の心を支えてくれていることだろうか。乃愛がいれば、何でも乗り越えられそうな、そんな気にすらさせられる。
月曜日の昼下がり、絢音は「東洋史アラブ・イスラームの研究」という彼女の中ではおおよそ興味のない講義に出ようとしていた。いや、出ようとしていただけでサボるという選択肢もあった。
絢音はショートボブに切り揃えた髪を赤く染めていて、耳にも多数のピアスを開け、さらに言えば下腹部、腕、太もも、腰とタトゥーも入れている。自由奔放にやってきた彼女にはどこかの企業に入って社畜のように働くという選択肢はない。高校時代に就職も見据えて進学を選んだものの、今では大学を続けようという気持ちもあまりなかった。
「ねぇ、隣空いてる?」
大人しく講義を聴こうか、席を立とうかと迷っていた時、突然声をかけられた。
何度も聞いていて片時も忘れたことがない声だ。
絢音はゆっくりとその声の主を見た。
「ミカ……」
「久しぶり」
返事を待たずミカは絢音の隣に座ったため、絢音は席を立つ機会を失った。
「何よ?」
絢音の声に少し棘が混ざった。席は他にも空いている。絢音の隣に来たということは、わざわざ選んで来たということに他ならないからだ。
「んーん。あーやに謝りたくて」
絢音は俯いた。何とも言えないどんよりとした空気が二人を包み込む。しかし何となくミカが絢音の隣という「定位置」にいることに、奇妙な安心感を覚えた。
「謝るならあたしじゃなくて、セイラとチャコにじゃない?」
ボーカルのセイラもドラムのチャコも、そんな素振りはなるべく出さないようにはしていたが、相当不安だったに違いない。
「うん……まぁ、そうだね」
ミカは元々華やかな顔立ちをしている。だから申し訳なさそうな顔をしていても、どこか明るい表情に見えてしまう。その顔立ちこそ絢音の好きなポイントではあったが、今はそれが少し忌々しい。
「ホントに悪いって思ってる?」
「思ってるよ。だからって訳じゃないけど、一つ話を持って来たの」
「何、話って」
「私さ。Luck Luckってバンドに入ったでしょ」
人気が高く、大阪府下で活動しているバンドの中ではメジャーデビューに最も近いとされるバンドだ。
ただ、その曲調はポップでキャッチー。ミカがやりたい音楽が真逆であることを口論の時に初めて知って、絢音は少し面食らったものだ。
「知ってる」
絢音はサボることを諦めて講義ノートを開いた。
「それでさ。この前メジャーのプロデューサーの人とご飯に行ったんだけど、その人がうち以外にも何組かバンドを探しているって言ってて」
そこでミカは絢音達を推薦したのだと言う。
「これってチャンスだと思うんだよね。ほら、セイラもメジャーデビューしたがってたじゃない?」
「ん……でも……」
確かにボーカルのセイラは最初からメジャーになりたいと言っていた。もちろん絢音もOLになる気はさらさらなく、音楽で食べていけたらいいなと考えている。
しかしそのチャンスが突然メンバーを裏切った元カノからもたらされたとなると、その心情は少し複雑である。それに百歩譲ってそのことを差し引いても、さすがに話が大き過ぎる。絢音は首を横に振った。
「あたしの一存じゃ決められないよ」
「うん。セイラとチャコにも聞いてみてよ」
そこまで言って、ミカは一呼吸おいてから聞いてきた。
「新しいベース、入れたんだって?」
心なしか表情が寂しそうに見える。でも絢音達を捨てたのはミカの方だ。寂しがるのはお門違いである。絢音は努めて冷たく言った。
「そりゃうちの曲調じゃ、ベースがサポートメンバーじゃ締まらないでしょ」
「どんな子?」
ふと乃愛の可愛らしい笑顔が思い出される。自傷癖やセフレ願望のある破滅的な子かと思えば、作詞作曲の勉強をするような努力家の一面もあり、さらには自分で書いた曲をみんなでやりたいという健気な顔も持ち合わせている。
多分乃愛本人は気付いていないだろうが、そんな彼女に絢音は随分助けられている。
「良い子だよ。不思議ちゃんではあるけど」
絢音は乃愛の評価をその二語で片付けた。彼女の為人をちゃんと人に伝えるのは難しそうだったし、何よりもうミカは乃愛とは無関係な部外者である。
絢音は前を向いた。講義はもう始まっている。
「じゃあ話戻すけど、もしセイラとチャコと不思議ちゃんの意見がまとまったら私に連絡してくれる? 私のライン、消した?」
「消した」
絢音は嘘をついた。本当はまだ未練たらしく残しているのだが、それを知られるのが嫌だった。
「そう。じゃあこれ、私のID。渡しておくからもう一回登録しておいて」
ミカはそう言ってラインIDの書いてある付箋を絢音のノートに貼り付けると、そのまま席を立った。
「講義聴いていかないの?」
「私、この講義取ってない」
ミカは「またね」と絢音に手を振ると、颯爽と講堂を後にした。




