第二話 コーヒーの香り
「コーヒー、淹れたよ」
マグカップを差し出す乃愛は昨夜から未明にかけての営みなど気にしていないかのようだった。その余裕ある姿は、むしろ愛し合って満たされた朝を迎えた恋人のように見えた。
それだけに、絢音は歪んだ感情のまま抱いてしまったことに罪悪感を覚えた。
「よくコーヒーとマグカップの場所分かったね」
「あちこち探した」
なるほど食器や積んであった食材の位置が少しずつ変わっている。その中からドリップコーヒーとマグカップを探し当てたというところだろう。
一つハズレがあるとするなら、乃愛の前に置かれているマグカップは絢音のお気に入りのもので、絢音の前に置かれているのはミカが使っていたマグカップということだ。絢音の胸はチクリと痛んだ。
「ごめんね」
絢音は後悔の念を込めて、乃愛に謝った。
「何が?」
乃愛は普段からそんなに感情を豊かに表現する子ではない。多くの場面で何を考えているのか読めない表情をしているような子だ。
そんな子が見せた昨夜の艶かしい姿は絢音の瞼の裏に焼き付いている。
背は百五十センチもないミニマムサイズなのに胸のボリュームはしっかりとあって、淫らな体つきをしていた。感度も良く、可愛らしいよがり声をあげることも我慢しない。こっちの精神状態が落ち着いていたら、きっと最高のセックスが楽しめただろうが、今は中途半端な気まずさしかなかった。
「乃愛は嫌じゃなかった?」
「だから何が?」
「同性に抱かれるの」
「私、百合だから大丈夫」
「そうなんだ」
乃愛と出会って半年経つが、未だに彼女のことをよく知らない。バンドをしている時以外はカフェバーで働いているらしいが、知っている情報はそれぐらいだ。生活感がなく、謎めいている。
「こういうことはよくするの?」
「たまにカフェバーで知り合ったお姉様に抱かれることはあるかな」
「カフェバーでそんな簡単に百合の人見つかる?」
「百合専用のカフェバーだから」
「なるほど」
乃愛が他の女に抱かれていることを想像し、ちょっとモヤっとした。
本気でないことは十分承知しているつもりだが、一度肌を重ねると、人というのは独占欲が多かれ少なかれ湧き出るものらしい。
(だめだめ……)
絢音は首を横に振った。
これは勢いで肌を重ねただけ。ミカへの未練がこうさせただけなのだ。
それに、バンドメンバーに特別な感情を抱くことがどれだけリスキーなことかは、それこそミカとの一件で嫌というほど思い知ったじゃないか……。
「でも、同じバンド内でこういうことするのはダメだよね」
絢音がそう言うと、乃愛からは意外な答えが返ってきた。
「いいんじゃない? 別に。世の中、ファンに手を出すバンドマンもいること考えたら、マシじゃないかな」
「メンバーに手を出すことも、健全とは言い難いよ」
「私は全然良いよ。セックス、嫌いじゃないし」
乃愛はセフレでも良いという訳だ。その言葉に絢音の心はぐらっと揺らぐ。薄っすらと湧いていた独占欲が激しく刺激された。
だがもう一度、その感情を否定した。
昨日のセックスではミカを失った寂しさや悲しみを埋めることが出来なかったじゃないか。
欲しいのは体だけじゃない。
もっと心を埋める何かだ。
それにミカのことを想いながら乃愛を抱くことにも罪悪感がある。
「なるべく我慢する」
「そう? でも欲しくなったらいつでも言っていいよ。あーやになら抱かれてもいい」
そう言いながら、乃愛は自分のリュックの中から小さなノートとシャーペンを取り出した。羽のついた可愛らしいリュックの中から出てくるにしては何の飾り気もないシンプルなノートだった。
「何してるの?」
何かをしきりにメモし始める。あまりにも唐突過ぎて、奇行のように見えた。
「今の気持ちを書き留めてる」
「何で?」
「歌詞に使えるかもしれないから」
「歌詞書いてるの?」
「うん。曲も書いてるよ」
「作詞作曲出来るんだ」
「んーん。勉強中」
乃愛に性とは別の興味が湧いて来る。
同時に不安が過ぎる。
「作詞作曲して、どうしたいの? 自分のバンド作るとか?」
今のバンドの持ち曲二十三曲の内、二十曲は絢音が作った。別にみんなで決めた訳ではないが、何となく作詞作曲の担当は絢音、という空気が出来ている。
そんな中で作詞作曲を勉強しているということは、どこかの時点で自分色を出せるバンドを結成したいと考えているからではないか。
しかし乃愛は首を横に振った。
「んーん。みんなでやりたいだけ」
「え?」
「みんなでやりたい。あーやがギターを弾いて、チャコがドラム叩いて、私がベースを刻んで、セイラが歌うの」
そう言うと、乃愛は珍しく恥ずかしそうに笑った。春の日差しのように控えめで可愛らしい笑顔だ。絢音は思わずときめいた。
「私は辞めないよ。ずっとみんなと一緒にいるし、いたい。みんなで奏でる音が好きだから」
乃愛もミカの事情はある程度周りから聞いて知っている。
だから「私はミカとは違う」と言ってくれているような気がして、とても心強かった。
コーヒーを飲み終えると、乃愛は帰っていった。
そう言えば砂糖もミルクも入れていなかった。
まだ十八歳なのに。
砂糖もミルクも必要な二十歳の自分よりもずっと大人だな、と絢音は思った。




