4.嫉妬
翌朝、俺はいつも通りの時間に目を覚ました。
少しだけ凝り固まった体をほぐすように背筋を伸ばしていると、僅かな違和感を覚えた。
その違和感の正体が何なのか。
しばらく考えて、俺は気付いた。
「そういえば、白石さんからモーニングコールがなかったな」
昨日、俺は白石さんと喧嘩をした。
喧嘩をした、と言っても……一方的に怒られただけだ。
彼女が怒った内容は、昨日の状況では回避しようがなかった。不可抗力だった。
だからまさか、あの後、いつもの特別指導も忘れて、指導室から走り去るだなんて思ってもみなかった。
少しだけ、会うのが気まずいなと思った。
朝食を食べる手も、いつもよりも少しだけ鈍化している気がする。
いっそ今日は授業を休むか。
邪な感情が過ったが、首を横に振って気持ちを律した。
ここで本当に授業をサボってしまっては、それこそ風紀を乱す不良生徒に……オレンジ色の違反切符を発行させるに相応しい人間になりかねない。
そう思って、渋々ながら、俺は学校へ登校した。
学校の正門前に到着したのは、いつもより五分程遅い時間になった。
いつも通り、今日も正門前では、風紀委員による身だしなみチェックが行われている。
「おはようございます!」
風紀委員の中に、ひと際元気な声を発する少女が一人。
その人は、風紀委員長にして俺の恋人である白石さん。
良かった。
昨日、彼女を怒らせてしまったから……。もしかしたら今日、彼女が学校を休むかもしれないと思っていた。
しかし、無事に今日も登校していた。
嬉しかったし、安堵した。
後はいつも通り、身だしなみチェックで指摘されて、指導室送りにされるだけだと思っていたから……。
「おはようございます!」
……しかし、白石さんは今日に限って、俺の身だしなみチェックをスルーした。
あれ……?
白石さんの異常行動に、俺は動揺のあまり……オレンジ色の違反切符を受け取ることなく、無事に教室にたどり着くことが出来た。
このルールが施行されたのは、入学式のあった二十日前。
……そして、俺が風紀違反切符を発行されることなく教室にたどり着いたのは、このルールが施行されて以降、実に初めてのことだった。
「はい。じゃあ今学期のクラス活動は、ゴミ出しルールの学校中への周知化に決定しました」
……風紀違反切符を発行されず登校することは、俺の目標でもあった。
そのために、身だしなみチェックも欠かさなくなったし、色んな努力をしてきたつもりだ。
そんな目標をついに達成することが出来た。
その事実は、喜ばしいことのはずだった。
なのに……放課後になった今でも、俺はこの状況を素直に喜ぶことが出来ないでいる。
多分、まさか……こんな形で連続違反記録が途切れることになるとは思ってもみなかったからなのだろう。
……疑問はある。
違和感もある。
釈然としない気持ちもある。
でも、良かったことは間違いない。
違反切符を連日発行されたことで、学校中の生徒から問題児扱いされ、白い目で見られてきた。
これからはそれがなくなるかもしれない。
それは願ったり叶ったりなことのはずだった。
「……そのはずなのになぁ」
なのに俺は、今日の放課後も、どうしてか指導室に訪れていた。
扉をノックし、建付けの悪い扉を開けると……。
「……え?」
俺の顔を見た白石さんは、不安そうに瞳を揺らした。
「……こんにちは、白石さん」
白石さんは中々返事を寄越さなかった。俯き、こちらを一切見ようとしない様子から、彼女が今、動揺しているだろうことが見て取れた。
多分、俺が今日、ここにやってくるとは思っていなかったのだろう。
「……何の用ですか、槇原君」
「……特別指導してもらおうかなと思って」
「……特別指導を受ける生徒は、オレンジ色の違反切符を持っている生徒じゃないと駄目です。あなたは今、持っていないでしょう?」
実に正論だ。
……実に正論だけど、結局、オレンジ色の違反切符が発行されるのかどうかは君の匙加減だよね? 日本プロ野球連盟の審判団かよ……と、言いたい気持ちをグッと堪えた。
「まだ怒ってる?」
俺は尋ねた。
白石さんは……また黙った。
「……ごめん」
そんな白石さんに、俺は追撃の謝罪をした。
「……謝らないでください」
ようやく白石さんは口を開いた。
「……あたしの方こそごめんなさい。昨日はその……ごめんなさい」
「いいよ。俺が至らなかったのが悪かったんだし」
「そんなことないです」
「……」
「……あたし、怖かったんです」
白石さんは弱弱しい声で続けた。
「槇原君は、とても魅力的な男性だから。……いつまでもあたしの恋人でいてくれるかわからないから。だから、別の女性と仲良くしていることがわかっただけで怖くなって、そして、嫉妬してしまったんです」
「とりあえず弁明しておくと、別の女性とはちょっと話しただけだからね?」
「……あたし、魅力がないから」
白石さんは俯いたまま、中々顔をあげない。
「本当は良くないことだってわかっているんです。オレンジ色の違反切符を槇原君に発行し続けている現状が。だって槇原君、学校中の生徒から問題児扱いされるようになっているから。問題なんて全然起こしてないのに。あたしの横暴で、そんな扱いをされるようになってしまっているから……!」
「……白石さん」
「多分、それも原因なんです。いつ槇原君に嫌われてしまうか。怖くて怖くて……不安なんです」
「……」
「……嫌われたくないんです。槇原君に……」
白石さんは涙をポロポロと流し始めた。
「ずっと一緒にいたい。離れたくない。一つになりたい……。でも、弱くて魅力のないあたしには槇原君を繋ぎとめる術が……違反切符しかない。だからそれに頼ってしまう。そして、また槇原君に嫌われちゃう……」
白石さんは嗚咽を漏らし始めた。
「こんな自分が嫌いなんです。変わりたいと思っているんです。でも……出来ない。どうすればいいかわからないです」
……涙ながらに独白していた白石さんの気持ちに触れて、真っ先に俺が思ったことは、今の彼女が随分と混乱しているな、と言うことだった。
だって彼女は、清楚な見た目で品行方正で……時々、ルールの穴を突くようなずる賢いところがあるけれど、基本的にはいつだって自分を律することが出来る人のはずだった。
そんな彼女が、自らの弱さを吐露した上で涙を流す。
実にらしくない。
恋人である俺が心配になるくらいに。
……でも、それだけじゃない。
彼女が嫉妬深く、重い感情を向ける一面があることはわかっていた。
それが少し怖いと思う時もあったけど……一番、純粋に俺が思ったことは、恐怖よりも愛おしい、ということだった。
自分をこんなに好きでいてくれる。
自分にこんなに執着してくれる。
それが、嬉しくなくて何だって言うんだ。
そんな俺を嬉しくしてくれる彼女を……このまま泣かせておくなんて、俺に出来るはずもなかった。
「白石さん、俺、昨日さ。廊下を走ってしまったんだ」
「……え?」
「校則で、廊下を走るのは禁止だったよね。……だから、違反切符を頂戴」
「……で、でも」
「……間違った行為をした生徒の行動を正すことが、風紀委員の仕事でしょ。違反切符を切ることは何も間違っていない」
「……」
「そして、それはこれまでも同様だった。君が俺に違反切符を切ってきたことが誤りだったことなんて一回もない。君に違反切符を切られて、君を恨んだことなんて。嫌いになったことなんて……一回だってありゃしない」
俺は苦笑した。
「まあ、学校の生徒から白い目で見られることが少し堪えるのは事実だから、出来るならこれからは誰も見てないところで違反切符は切ってほしいけどね」
「……槇原君」
「とにかく、これからも続けてよ。特別指導。……なんだかんだ俺も、この時間を楽しみにしてるんだ」
白石さんは、どうしてそんなにこの時間を楽しみにしているの? と聞きたい顔だった。
……そんなことの理由、聞かずともわかるだろうに。
「君のことが好きだから。この時間も好きなんだ」
……顔が熱い。
「だから、これからもよろしくね。白石さん」
「……そんなに好きでいてくれるならぁ」
白石さんは今日一番、両目に涙を蓄えた。
「もっと好き好きアピールしてくださいぃぃ……」
「いや無理でしょ。柄じゃないから」
「無理とか言わないでください。あたしを心配させないでくださいぃ。抱きしめてくださいぃぃぃ……」
「はいはい……」
……あはは。
思っていた通りだ。……やはり俺の恋人は、中々に嫉妬深い。
とりあえず俺は、白石さんを抱きしめた。
一章終了となります!
二人の関係性がほぼゴール直前だけど、この後は何書けばいいんだろうね!
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