見えない手紙
この物語を書くまで、たくさん迷いました。
書いてもいいのか。書けるのか。
何度もスマホの文字を打つ手が止まりました。
人の心に触れることは、簡単じゃありません。
ましてや、大切な人の“記憶”を文字にするなんて。
でも、夫がぽつりとこぼしたんです。
「亮のこと、何か残せたらいいかもな」って。
私はただ、耳を傾けてきただけです。
笑いながら、涙をこらえながら、何度も聞いたその話を、
少しだけ物語の形にしてみようと思いました。
これは、誰かひとりの物語じゃありません。
きっと、誰の心の中にも、少し似た痛みや温度がある。
そう信じて、書きはじめました。
僕の名前はゆう。
今、台所に立って、同居している弟の亮と一緒に食べるための、豚の生姜焼きを作っていた。
よし、もうすぐ焼き上がるぞ、っていうタイミングでスマホが震える。
LINEの通知。送信者は亮だった。
「ごめん、今日、凛ちゃんとご飯行くことになったから、飯いらない。ごめんね。」
そう書かれていた。
そのLINEを見た瞬間、少しイラッとした。
「またかよ……」って、思わず口に出た。
最近の亮は、彼女ばかりを優先してばかりだ。
別に彼女ができたことが悪いわけじゃない。けど、
せめてもう少し早く言ってくれればいいのに。
もうすぐ完成だった生姜焼きの匂いが、フライパンの熱とともに部屋に広がっていく。
一緒に食べようと思って用意したこの夕飯も、今夜は一人か――
まったくもう。
僕はため息をついて、火を止めた。
まあ、僕はそんなに器の小さい男じゃないし。
うん、ラップして冷蔵庫にでも入れといてやるか。
せっかく作ったけど、まあ亮が楽しそうならそれでいいか。
最近は、彼女ができたからか、亮は前より表情が明るくなった。
なんていうか、どこか浮かれてる感じもあるけど、
それがまた、見ていて悪い気はしない。
「しょうがないなぁ、今度は3人分の分量にでもしておくか」
ひとりごとのように呟いて、皿にラップをかける。
冷蔵庫の扉を閉めると、ふいに小さな静けさが部屋に広がる。
でも、そんなのも、慣れた。
きっと亮は、今頃どこかで笑ってるんだろう。
そう思うと、ちょっとだけ胸があったかくなった。
一方その頃、
僕の名前は亮。
今日は、凛ちゃんとごはんの日。
駅前のイタリアンカフェ。ちょっとだけ奮発して、パスタとピザが評判のお店に来た。
窓際の席に座ると、夕焼けが差し込んでいて、二人の時間がまるでドラマみたいに感じた。
「亮ちゃん、わたし今日は白ワインにしようかな」
そう言ってメニューを眺める凛ちゃんは、本当に楽しそうで可愛い。
「また飲むの?強いよね、凛ちゃん」
「えー、いいじゃん。亮ちゃんが飲まない分、私が飲むんだもん」
そう言って、にこにこ笑う彼女に僕もつられて笑った。
僕はシーフードトマトパスタ、凛ちゃんはカルボナーラ。
凛ちゃんは白ワイン、僕はいつものようにオレンジジュース。
お酒が飲めない僕に合わせて、凛ちゃんも控えてくれる時もあるけど、今日は彼女の好きなようにしてもらいたかった。
「乾杯、亮ちゃん」
グラスを軽く合わせる音が、静かな店内にやさしく響いた。
付き合って5年。
長いようで、あっという間だった。
でも、凛ちゃんと一緒に過ごす時間は、今でも新鮮で、毎回どこか嬉しくなる。
さっき兄にLINEを送った。
「ごめん、今日凛ちゃんとごはん行くことになったから、夕飯いらない」って。
既読はすぐついたけど、返信はなかった。
たぶん「ったく、もっと早く言えよな」って、少しだけ文句を言いながらも、冷蔵庫にラップしてくれてる気がした。
兄は、そういう人。
「亮ちゃんって、最近ちょっと変わったね」
「え、どこが?」
「なんか、前より穏やかっていうか、やわらかくなった感じ」
「…それ、太ったってこと?」
「違うってば!」
凛ちゃんが吹き出して、僕の手をそっと握った。
こういう何気ないやりとり。
当たり前みたいで、でも本当はかけがえのないものなんだと思う。
凛ちゃんが隣にいてくれるこの瞬間。
「今が一番幸せ」って、自然に思えた。
駅までの帰り道、凛ちゃんが僕の腕に絡みついて歩く。
「亮ちゃん、今日も楽しかった〜」
そう言って、少し酔っ払った顔で僕を見上げた。
その顔が可愛くて、たまらなくて、僕は自然と笑っていた。
「ねえ、亮ちゃん。いつか一緒に暮らせたらいいね」
凛ちゃんがぽつりとつぶやいた。
僕はすぐには答えられなかった。
今の僕の状況じゃ、自信がなかった。
でも――
「うん。きっと、そうなるよ」
そう言って、凛の手をぎゅっと握った。
凛ちゃんは嬉しそうに笑って、僕の肩にもたれた。
なんでもない、ただの帰り道。
でも、僕にとっては宝物みたいな時間だった。
あの瞬間だけは、間違いなく、幸せだったんだ。
凛ちゃんを幸せにしてあげたいって、それだけだった。
それが僕の一番の目標で、願いで、生きる理由だった。
デートはいつも凛が「行ってみたい」って言った場所を、僕がこっそりサーチして、全部計画して連れていった。
仕事の合間をぬってでも、どんなに疲れていても、凛が笑ってくれると、それだけで疲れなんてふっとんだ。
旅行も、たくさん行った。
静岡で食べたお茶ソフト。
箱根の温泉街を手をつないで歩いたこと。
鎌倉では鳩サブレーを買い込んで、海辺でぼーっとした。
築地で「食べすぎちゃう〜」って笑ってた凛ちゃんの顔。
熱海の夜景は本当に綺麗で、写真を何枚も撮った。
大阪ではたこ焼きをはしごして、道頓堀では観光客みたいにはしゃいだ。
ユニバでは絶叫に乗って手をぎゅって握ってくれた。
日光江戸村では、着替えずに歩くだけだったけど、楽しかったな。タイムスリップしたみたいだった。
僕のスマホのアルバムは、凛ちゃんとの思い出でいっぱい。
今でもたまに見返しては、あの時間に戻れたらって思ってしまう。
幸せって、あのときの僕にとって、あまりにも自然で、でも実は奇跡みたいな時間だったんだと思う。
季節が巡るたび、凛ちゃんとの思い出が増えていった。
バレンタイン。
凛ちゃんは毎年、手作りのガトーショコラをくれた。
「ちょっと失敗しちゃったかも〜」って言いながら渡してくれたけど、しっとり濃厚で最高に美味しかった。
ラッピングのセンスも凛らしくて、リボンの色まで僕の好みに合わせてくれてたのが、密かに嬉しかった。
ホワイトデー。
お返しは、ちょっと背伸びして予約したバリアンのホテル。
「室内に岩盤浴あるの!?え〜、すごい〜!」
無邪気に喜ぶ凛ちゃんの笑顔を見たくて選んだんだ。
ふたりでゆっくり汗を流して、夜はルームサービスを頼んで、お風呂あがりのアイスを半分こ。
ただただ、幸せだった。
5周年記念。
この記念日だけは特別にしたくて、夜景が見える鉄板焼きのお店を予約した。
凛ちゃんはちょっとおしゃれなワンピースを着てきて、
「大人っぽいでしょ?」って照れくさそうに笑ってた。
目の前で焼かれるステーキを嬉しそうに眺めながら、ふたりでワインを少しだけ飲んだ。
夜景も、凛ちゃんの横顔も、全部まぶしかった。
ディズニーランド。
凛ちゃんはアリスのコスプレ。水色のワンピースに白いエプロン、ヘアバンド。
僕は帽子屋、マッドハッター。
「なんかほんとに不思議の国っぽいね!」って言いながら、パレードに手を振った。
キャストさんに「かわいい!」って声かけられて、凛ちゃんが嬉しそうに手を振ってた。
夏の花火大会。
凛ちゃんは紺色の朝顔柄の浴衣。髪をアップにして、かんざしをさしていた。
「どう?似合ってる?」ってちょっと心配そうに聞いてきたけど、
誰がどう見ても、世界一かわいかった。
ふたりで手を繋いで、花火を見上げた夜。
「ねえ、来年も一緒に来ようね」って凛ちゃんが言った言葉、ずっと忘れられない。
お台場のレストラン。
ディナーの席から見えるレインボーブリッジが、まるで映画のワンシーンみたいだった。
グラス越しに笑う凛ちゃんの横顔と、揺れる光たち。
あの夜の空気ごと、瓶に詰めて取っておけたらよかったのに。
──ゆう目線
とある日、仕事から帰ってきた僕に、亮がぽつりと言った。
「ゆうくん……ごめん、今月ちょっと家賃、厳しいかも」
ラーメン屋の仕事から戻って、Tシャツのまま冷蔵庫を開けて麦茶を取り出そうとした手が止まった。
家賃と光熱費は、ちゃんと話し合って決めたルール。毎月きっちり折半。それが僕たちの約束だった。
正直、僕も余裕はない。汗まみれでフルタイム働いて、なんとか生活してる。
その中で決めたことなんだから、守ってほしいって気持ちは当然ある。
「凛ちゃんの誕生日、近くてさ。ちょっと余裕がなくて……」
なるほど、凛ちゃんか。
僕にはいないからわからないけど、そういうもんなんだろう。
でも、なんか面白くない。
別に羨ましいとか、嫉妬してるとか、そういうんじゃない。
ただ、言葉にできないもやっとした気持ちが胸に残った。
「……来月は、ちゃんと払えよ」
少しだけ語気が強くなってしまったかもしれない。
亮は気まずそうに笑って、「うん、ごめんね、ゆうくん」って言った。
その笑顔が、なんとなく、少し遠くに見えた気がする。
と言っても、こういうこと、たまにあるんだ。
家賃のこともそうだけど、凛との約束をいつだって最優先にしてくる。
この家に引っ越した日だってそうだった。
引っ越し業者が来る時間は12時って、何日も前から言ってたのに、亮がやってきたのはほんとにギリギリ。
引っ越しトラックが角を曲がってきたその瞬間、亮が少し遠くから走ってくる姿が見えた。
「ごめんごめん!凛ちゃんとご飯行っててさ、時間ちょっと押しちゃって……」
そんな風に笑って言われても、正直、こっちは朝からバタバタ動いてて、余裕なんてなかった。
あのときは、焦りと苛立ちとで、喉の奥がつかえるような気持ちだった。
亮のことは、僕にとって弟で、大切な家族だ。
それは間違いない。
だけど――
いつだって凛ちゃんが一番で、僕はその次か三番目か、みたいな扱いを受けると、
「なんか、なあ……」って思ってしまう。
惨めってほどじゃない。
でも、どこか腑に落ちない気持ちがずっと胸の中に残っていた。
でもまあ、
亮が幸せならそれでいいかって、そう思うようにしてた。
兄として。
弟の幸せが一番に決まってる。
これは仕方ないよなって――心を、納得させるようにしてた。
だって、彼女ができたら、そうなるんだろう。
相手のことが一番になる。優先順位も、生活の中心も。
僕にはわからない世界だけど、きっとそういうものなんだろう。
……そう、僕は今まで彼女ができたことがない。
誰かと手をつないだことも、
「好きだよ」って言われたことも、
誰かにとって一番になったことなんて、たぶん一度もない。
だから、亮と凛ちゃんの関係を見てると、
遠くの世界をのぞき見してるみたいな気分になる。
まぶしくて、ちょっとだけ、苦しい。
でも、それでも――
「亮が幸せなら、それでいいよ」って、
そうやって自分に言い聞かせることしかできない自分が、ちょっと情けないなって思うけど、他にどうしていいかわからなかった。
──亮目線
あぁ……今月、カードの支払いヤバいな。
先月もリボにした…全然終わらない。
でも、凛ちゃんとのデートの予定、たくさん入ってるし……キャンセルなんて考えられない。
次の誕生日には、前から欲しがってたペアリング買ってあげるって約束したし、
夜景がすごく綺麗なレストランも予約した。
ホテルは、凛ちゃんが好きなバリアン。室内に岩盤浴がついてるあそこ。
きっと喜ぶ。絶対、喜ばせたい。
……家賃、ゆうくんにちょっと待ってもらおうかな。
ゆうくん、彼女いないし、お金もそんなに使ってないはず。
悪いけど、今月だけ。ほんの少しだけ。
凛ちゃんの笑顔のためなら、僕はなんだってできる。
凛ちゃんが可愛くて、可愛くて仕方がない。
髪を結んだだけで、笑っただけで、僕の心は跳ね上がる。
ふとした瞬間に、どうしてもカメラを向けてしまう。
凛ちゃんの笑顔は、僕だけが知っていればいい。誰にも見せたくない。
誰かのスマホに凛ちゃんが映るのも、本当はちょっと嫉妬するくらい。
僕は、世界一の幸せ者だ。
凛ちゃんと一緒にいられる。それだけで、何もいらない。
この先、何があっても大丈夫。凛ちゃんと一緒にさえいられたら、それでいい。
きっと……いや、間違いなく、凛ちゃんは僕の運命の人なんだ。
──ゆう目線
僕の弟の亮は、ほんとに優しいやつだ。
普段は穏やかだけど、怒るとけっこう口が悪くなる。
でも根っこのところでは、誰よりも思いやりがある。
あれは、たしか数年前のことだった。
僕が飲みに出掛けた時、でベロベロに酔っ払って、歩けないくらいになった夜。
亮と妹の由香が、車で迎えに来てくれた。
由香が「これ飲んで酔い覚ましな」ってペットボトルの水を渡してくれたんだけど、
僕はなぜか、その水を口に含んで……亮の顔に向かって「ぷーっ」って吹き出したらしい。
ほんと、わけわからないよな。僕には記憶がないんだけど。
あとから由香に言われたんだ。
「亮兄、ブチギレだったよ?『ふざけんなよ、マジで!』って!笑」
……まあ、それは当然だよな。
でも次の日には、亮はちゃんと文句を言いながらも許してくれたんだ。
「お前マジでアホだな。今度やったらぶっ飛ばすからな」って、呆れ顔で笑ってさ。
ああいうところが、亮らしい。
怒っても、突き放さない。ちゃんと、受け止めてくれる。
そうそう。
またお酒の失敗ネタになっちゃうけどさ。
僕、酔うと……なんかもう、可愛い弟の顔が見たくなるんだよね。
亮が夜勤のコンビニで働いてる時なんか、ふら〜っと冷やかしに行く。
「うわ、また来たよ」って顔する亮。
でも僕は構わず、レジの前で仁王立ちしてさ。
「もぅ帰れよー」と、ため息まじりに呆れる亮の声も無視して、
「朝まで頑張れよ〜!兄は応援してるんだ〜!」なんて、わざとらしく声を張る。
で、満足げにこう言ってやるんだ。
「まっ!僕はこれから寝るけどねっ!ぐーすかぴー!」
亮は苦笑いしながらも、
「まじで帰れ、クレームくるわ」って、ポイッとレシートを僕に渡してくる。
でも、目元はちゃんと笑ってる。
……ああ、こういうのが幸せってやつなんだろうなって、
帰り道の夜風に当たりながら、ふとそう思った。
──亮目線
兄者が酔っ払うと、ほんと……ろくなことがない。
いやマジで、なんであそこまで飲んじゃうのか、僕には全然わからん。
前にさ、水、顔にかけられたやつ……あれはマジでこのやろー!ってなったよ。
びしゃぁって。目も開けられないしさ、思わず「ふざけんなよ!」って叫んだっけ。
それに、夜勤してるとき。
僕のコンビニに、ふら〜っと現れる兄者。
もう、冷やかし以外の何物でもない。
「朝まで頑張れよ〜!」って、店内に響き渡る声で叫ばれたり、
「僕は寝るんだけどねっ♪」って得意げに言われたり。
はぁ……しょうがない兄者だよ、ほんとに。
……でもまあ、なんだろうね。
あの人なりの“愛”なんだって、わかってる。
普段あんまり言葉にしない分、そうやって“存在”で示してくれてんのかなって。
うざいけど、ありがたい。
ムカつくけど、ちょっと嬉しい。
だから僕は、
「まじで帰れ」って言いながら、
内心ちょっとだけ、笑ってんだ。
ゆうくんとはさ、
カラオケ行ったり、ゆうくんの友達を混ぜて麻雀やったりして、
なんだかんだ、兄弟の中では仲いい方だと思うんだ。
カラオケじゃ、ゆうくんはいつもアニソンとか声優さんの歌ばっかりで。
「この曲、声優の◯◯が歌ってんの!神曲だから聞いてろ!」ってテンション上がってる。
僕はその隣で、スマホ見ながら「へえ〜」って相づち打ってるだけ。
たまに『ラルク』を一緒に歌おうって言われて付き合うけど、
僕、ほんとに音痴だからさ。音程も外れるし、声も安定しない。
「亮、今のヤバいって!マジで音程どこいった!?笑」
ってゆうくんがゲラゲラ笑うんだよ。
こっちは真剣に歌ってるのにさ、まったく。
でも、それも悪くなかった。
ゆうくんといる時間は、なんていうか、
家族だけど、友達みたいでもあって。
どこか安心できる、僕にとって大事な時間だったんだ。
そうそう、こんなこともあったな。
今思い出すだけで、顔から火が出そうな出来事。
僕たち兄弟って、どっちも1月生まれなんだ。
だから毎年、誕生日はまとめて祝うのが恒例で。
ある年の誕生日、母が「たまには外でお祝いしようよ〜」って言って、不二家に家族で行ったんだ。
まぁ、食事も済んで、「そろそろ帰ろっか」ってタイミングでさ――
突然、店内に流れる『ハッピーバースデイ』のメロディ。
店員さんがニコニコしながら近づいてきて、手拍子を始めて。
「お誕生日おめでとう、ゆうくん、りょうくん!」って、
名前入りのチョコプレートが乗ったホールケーキまで運ばれてきたんだ。
……僕たち、もう20代後半だったんだよ!?
正直、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
いや、子供の頃ならまだしも、もういい歳だし!
しかも周りの席の人たちまでチラチラこっち見てきて!
思わず口から出たんだよね。
「やめろ!!ババァ!!!」って。
母はケロッとした顔で
「なんでぇ?いいじゃない〜♪」って、いつもの調子で笑ってた。
ゆうくんも僕も、顔を真っ赤にしながら、
ケーキのロウソクをふぅ〜って吹き消した。
なんだかんだ言いながらも、家族で祝ってもらえるのって……
ありがたいことなんだよな、きっと。
──ゆう目線
僕は、朝から晩まで働くラーメン屋の店長。
スーツなんて着ることないし、指にはいつも豚ガラの匂いが染みついてる。
毎日疲労困憊の日々だ。
仕込みから接客、片付け、全部自分でこなす。
スタッフに任せたいけど、任せられるほど余裕がない。
人が足りないから、結局なんでも自分がやるしかない。
でもさ、たまにストレスが爆発する日があるんだ。
スタッフが無断欠勤したり、クレームが入ったり、
スープが納得いかない出来だったり。
そんなときは亮にLINEを送る。
「飲みに行くの付き合って」
亮はお酒弱いくせに、文句も言いいつ、付き合ってくれる。
カシオレとかカルーアミルクみたいな甘い酒をちょびちょび飲んで、
こっちを見ては笑う。
僕はというと、まずはビール。
冷えたジョッキを一気に飲み干して、次はハイボール。
何杯でもいける。
身体は疲れてるのに、酒だけは止まらない。
「ゆうくん、それで何杯目?」
呆れながらも亮は、僕の話にちゃんと付き合ってくれる。
「だけどさ、ゆうくん……店長なのに一番動いてるってすごくね?」
その一言だけで、また明日も頑張ろうと思える。
亮がいてくれて、本当によかった――
そう思える夜だった。
そして、いつもみたいに酔っ払って
カメラを亮に向けると、
何も言わなくても自然とピースしてくれる。
その顔が、たまらなく可愛かった。
くしゃっと笑って、目尻が下がって、
照れくさそうに小さく「やめろよ〜」なんて言いながらも、ちゃんとカメラ目線で。
僕のスマホのフォルダは、そんな亮の写真がたくさん。
馬鹿みたいにくだらない話をして、
笑って、飲んで、
写真を撮って──。
それだけで、救われた夜が何度もあった。
何気ない瞬間なのに、
どうしてあんなに愛おしく思えたんだろう。
きっと僕は、あいつが幸せでいてくれることが、
自分の幸せみたいに思ってたんだと思う。
兄って、そういうもんなんだろうな。
──亮目線
僕は、最近ずっと転職サイトばかり見ていた。
スクロールしては、ため息をつく。
凛ちゃんを幸せにしたい。
大好きな人とちゃんと将来のことを考えたい。
プロポーズだって、いつかはしたいと思ってる。
……でも現実は厳しい。
昼間はショッピングモールの中の本屋でバイト。
夜はコンビニでシフトを埋める。
一日が終わる頃には、身体はクタクタで、
凛ちゃんとのLINEも「おやすみ」のスタンプ一個だけになってしまう日もある。
これじゃ、ダメだ。
このままじゃ、
結婚なんて夢のまた夢だ。
ちゃんとした仕事に就かないと。
もっと稼がないと。
凛ちゃんに、ちゃんとした未来を見せてあげられない。
焦りが胸を締めつける。
だから僕は、
「高収入」「未経験歓迎」
そんな言葉にすがるように、スマホの画面をスクロールし続けていた。
──幸せにしたい。それだけなのに、どうしてこんなに難しいんだろう。
仕事を探し始めて、2週間ほどが経っていた。
季節は真夏。アスファルトが陽炎で揺れるくらいの、うだるような暑さ。
けれど、僕の心の中は、それ以上に焦りと熱気でいっぱいだった。
ようやく、ひとつの求人に目が止まった。
──自動車関係の工場
──月収35万〜43万
──寮完備
──未経験歓迎
画面を見つめながら、ごくりと唾を飲む。
「これ……いいかもしれない」
手先は、昔から器用なほうだ。
プラモデルだって得意だったし、細かい作業も嫌いじゃない。
きっと、慣れればやっていける。
なにより、今の生活とは比べものにならないくらい稼げる。
凛ちゃんとの将来が、ぐっと近づくかもしれない。
けれど──スクロールしていった先に書かれていた勤務地。
「愛知県……名古屋……か」
思わずスマホを持つ手に、ぐっと力が入る。
距離がある。
この千葉から離れることになる。
凛ちゃんと、会えなくなるかもしれない。
ゆうくんとも、会えなくなる。
けれど──このままじゃダメだ。
僕は変わらないと。
動かないと。
画面の「応募する」ボタンを、指先でじっと見つめた。
どうする、亮──。
それから僕は、何日も何日も、自問自答を繰り返した。
凛ちゃんと会えなくなる…大丈夫か?
離れても、ちゃんと続くかな。
寂しがらせないかな。
遠距離恋愛なんて、うまくいくのか。
でも──
このままじゃ、ダメだ。
今のままじゃ、ずっとこの部屋の中で、天井を見上げながらため息ついてるだけだ。
本屋とコンビニを行き来するだけの毎日で、凛ちゃんにちゃんとした未来なんて見せられない。
でも……でも……
ぐるぐると堂々巡りをして、心の中はすり減っていった。
「やれるか?」 「頑張れるか?」
何度も自分に問いかけた。
そして──
ある夜、ひとりで布団の中に潜り込んで、スマホの光だけを頼りに
画面をもう一度開いた。
──応募する
そのボタンを、僕は息を飲んで、指でそっと押した。
小さな音とともに、画面が切り替わった。
何かが、動き出した気がした。
怖い。でも…僕は、変わりたかった。
凛ちゃんのために。
ゆうくんに胸を張れる自分になるために。
そして、僕自身のために。
──走り出したんだ。
そしてその夜も、いつものように凛ちゃんと電話をしていた。
あの柔らかい声、甘えたような言い方。僕の一番落ち着ける時間。
少しだけ勇気を出して、名古屋の仕事に応募したことを話したんだ。
「実はさ……仕事、応募してみた。車関係の工場でさ、結構稼げそうで……」
最初、凛ちゃんは「えっ、そうなの?」って興味深そうに聞いてくれていた。
でも──
「名古屋って……え、県外じゃん」
その瞬間、空気が変わった。
「なんで相談してくれなかったの?」
電話越しの声が震えていた。
「え……?」
「なんで勝手に決めちゃうの!? そういうの、ちゃんと話してほしいよ……」
「ずっと応援してたのに……一人で遠くに行くなんて、ひどいよ……」
僕は、完全に言葉を失った。
凛ちゃんのために、もっとちゃんとした生活をしなきゃと思ってた。
そのために、一歩踏み出したつもりだった。
でもその“一歩”が、凛ちゃんにとっては“離れていく”一歩だったんだ。
「ごめん……」
情けないくらい、それしか出てこなかった。
凛ちゃんは、少しだけ沈黙してから、ポツリと呟いた。
「……勝手に遠く行かないでよ……」
胸がぎゅっと締め付けられた。
でも、もう“応募する”を押してしまった僕は、どこかで戻れない気がしていた──。
電話を切ったあと、僕はただただ、どうしていいかわからなくて
その場に座り込んだ。
胸の中がごちゃごちゃで、言いようのない罪悪感と不安が押し寄せてきた。
……やっぱり、勝手すぎたかな。
自分のことばかりで、凛ちゃんの気持ちをちゃんと考えてなかったかもしれない。
でも、でもさ。
このままじゃダメなんだよ。
今のままじゃ、凛ちゃんと未来なんて築けない──
そんなふうに頭を抱えていたとき、スマホがピコンと鳴った。
凛ちゃんからのLINEだった。
『さっきは感情的になってしまってごめんなさい。
まだ転職決まったわけじゃないもんね。
大丈夫。どんな結果になっても応援するよ』
文字を見た瞬間、視界が滲んだ。
優しすぎるよ、凛ちゃん……。
何度も読み返して、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
凛ちゃんに甘えすぎてたなって、思った。
僕は、ちゃんとしなきゃ。
もっと強くならなきゃ。
ありがとう、凛ちゃん。
本当に……ありがとう。
──ゆう目線
まだ残暑が残る9月のある日。
家で亮と並んで、いつものようにカレーライスを食べていた。
変わらない、穏やかな晩ごはんのはずだった。
「僕、2週間後、名古屋に転勤することになったよ」
──は?
一瞬、聞き間違いかと思った。
スプーンを持つ手が止まり、目の前の弟の顔をまじまじと見つめる。
「……ちょっと待って。名古屋? 転勤? 何それ」
亮はあっけらかんとした顔で言った。
転職先が見つかったこと、待遇が良さそうなこと、そして名古屋に行くこと。
まるで、ちょっとした予定変更みたいな口ぶりだった。
でも──こっちは、そうじゃない。
「は? いや、ちょっと待って。それ、勝手すぎるだろ」
気づけば声が少し強くなっていた。
苛立ちが、心の底からじわじわと込み上げてくる。
「これから家賃どうすんの? 生活費だって折半だっただろ。名古屋行っても、お前が折半すんのか?
前もって言ってくれてたら、こっちだって安いアパートに引っ越すとか、いろいろ考えられただろ」
少しの寂しさも、もちろんあった。
けど、それ以上に──勝手にすべてを決めて進めてしまう亮に対する怒りの方が、ずっと強かった。
「……いくらなんでも、相談くらいしてくれよ」
目の前の弟に、苛立ちを抑えながら、そう言い放った。
僕の苛立ちとは裏腹に、亮は平然とした顔でこう言った。
「……もう、決まったから」
その言葉に、カレーの香りも、テーブルのぬくもりも、すっと遠のいた気がした。
まるで僕の怒りも、不安も、何もかも通り過ぎる風みたいに受け流されたような気分だった。
「家賃の件は?」と食い下がるように聞くと、亮は軽く首を横に振った。
「……無理。新生活にお金かかるし、しばらく余裕ないと思う」
その一言で、僕の中の何かがぷつんと音を立てて切れた気がした。
ああ、こいつは本当に自分のことで精一杯なんだ。
僕の生活のことなんて、きっと考えちゃいない。
「ふーん……そっか」
それ以上何も言いたくなかった。
でも黙ってると、ますます惨めになる気がして、無理に平静を装ってカレーを口に運んだ。
味は、しなかった。
2週間なんて、本当にあっという間だった。
亮は大きなキャリーケースに、必要最低限の荷物だけを詰めていた。
荷造りに手慣れているわけでもないくせに、不思議と準備は早かった。
まるで気持ちだけは、ずっと前から名古屋に向かっていたみたいだった。
当日。僕と母さんで駅まで見送りに行った。
母さんは駅で気を使うように「体に気をつけてね」と声をかけた。
僕は、それ以上のことが言えなかった。ただ一言、「頑張れよ」とだけ。
亮は照れくさそうに「うん」と返事をした。
駅の改札の前で、僕は無意識に目で彼の背中を追った。
最後くらい、振り返ってくれるかと思った。
けれど、亮は一度もこちらを見ずに、真っ直ぐ改札の向こうへと消えていった。
その背中を見送りながら、
僕は、胸の奥がすうっと冷たくなっていくのを感じていた。
──亮目線
仕事は、思っていたよりもあっさり決まった。
応募して数日後、面接の連絡が来た。
履歴書には、自分の強みをしっかり書いた。
『昼勤と夜勤の仕事を約8年間、2つ掛け持ちしていたことから体力には自信があります。
病気や怪我を10年以上することもなく、健康に恵まれていますので、
生産ラインに支障をきたさずに、無遅刻・無欠席で勤務に努めます。
手先が器用で、コツコツと作業するのが得意なので、
早く正確かつ丁寧な製品の取り扱いをしたいと思っております。』
面接官はそれを読んで「頑張り屋さんなんだね」と笑ってくれた。
僕は少しだけ救われた気持ちになった。
住み込みの寮付き。
給与も、今までよりだいぶいい。
これなら凛ちゃんとの将来に少しだけ近づける──そんな気がした。
だけどその帰り道、嬉しいはずなのに、胸がすごくざわついた。
兄とも、凛ちゃんとも離れるんだ。
「……でも、やるしかない」
そう呟いて、僕は名古屋行きを決めた。
この一歩が、未来を変えてくれるって──信じたかった。
ゆうくんに名古屋行きを伝えたとき、
あの人は、納得したような顔はしていなかった。
「これからの家賃どうするの?名古屋に行っても折半するの?」
「こっちだって前もって言ってくれたら、安いアパート探したのに」
そんなふうに言われた。
……そりゃそうだよな。
突然すぎるし、生活にも直接関わる話だったのに、
僕は勝手に決めてしまった。
でも、譲ることはできなかった。
「もう決まったから」って、強く言い切った。
しぶしぶ──本当にしぶしぶ、ゆうくんは受け入れてくれたようだった。
心の中で、ずっと引っかかってた。
申し訳ないって、ずっと思ってた。
でも、でもね──
僕はこの先を変えたかったんだ。
凛ちゃんとの未来を、ちゃんと築きたかった。
ゆうくん、ごめんね。
僕は、信じてる。
この選択が、きっと、正しい未来につながるって。
名古屋に行く数日前。
僕は凛ちゃんとデートをした。
場所は、前から気になっていたイタリアンのお店。
こぢんまりしていて、落ち着いた雰囲気の店内。
名物の生ハムのピザは噂どおり美味しくて、パリパリの薄い生地に、しっとり塩気のある生ハムがたっぷりのっていた。
凛ちゃんは黒い花柄のワンピースを着ていた。
その服がすごく似合ってて、僕は何度もテーブル越しに見とれてしまった。
「寂しくなるね……」
凛ちゃんは、少しうつむきながら、小さな声で言った。
「うん、僕も。でも……頑張るよ」
そう返すと、凛ちゃんはゆっくり顔を上げて、笑ってくれた。
「大丈夫。応援してるよ」
その笑顔を見た瞬間、
名古屋での新しい生活に向けて、決意がさらに強くなった。
僕は凛ちゃんのために、ちゃんと稼いで、必ず迎えに行くんだ。
そして、デートの帰り際、凛ちゃんがそっと封筒を渡してくれた。
「これ、家についてから読んでね」って。
その夜、家に帰ってから、ひっそりと、ひとりで静かにその手紙を開いた。
優しい字で、こう書かれていた。
「いつでも、辛くなったら…戻ってきていいんだよ。
亮ちゃんの心のふるさと。
凛より」
……だめだ。
僕は、男らしくしていたかったのに、
涙をこらえるのに必死で、思わず笑ってしまった。
「ありがとう……凛ちゃん」
そう小さくつぶやいて、手紙を胸にしまった。
この気持ちを支えに、
僕は名古屋で、頑張ってくるよ。
そして、いよいよ名古屋へ向かう日が来た。
キャリーケースに必要最低限の荷物を詰めて、
母とゆうくんが駅まで送ってくれた。
車の中では、何を話すでもなくて、
でも、その静けさがかえって居心地よかった。
「頑張れよ」ってゆうくんが言って、
母は「無理だけはしないでね」って僕の肩を叩いた。
改札の前に立って、
僕はひと言、「ありがとう」とだけ言って、
そのまま、振り返らずに改札をくぐった。
泣きたくなったけど、
男なんだから、って思って前だけを見た。
未来のため。
凛ちゃんのため。
ちゃんと、幸せにするために。
それから新幹線に乗って、名古屋へ向かった。
東京駅では、駅弁コーナーを何周もして、ようやく選んだのは「牛たん炭火焼き弁当」。
ちょっと奮発したけど、自分への応援の意味も込めて。
席に座ってから、弁当の写真を撮って、
「今から食べるよ〜!」って凛ちゃんにLINEで送った。
すぐに「美味しそう!こっちは雨降ってきたよ〜」って返事がきて、
なんだか、少しだけ寂しさが和らいだ。
牛たんは分厚くて、思ったより柔らかかった。
駅弁って、こんなに美味しかったっけ。
ひと口、ひと口噛みしめながら、
「頑張らないとな……」って、自然と心の中でつぶやいた。
窓の外の景色が、どんどん変わっていく。
僕の生活も、これから変わっていくんだなって思いながら──
新しいスタートを、静かにかみしめていた。
名古屋駅に着いて、僕はリュックとキャリーを引きながら、
メモに書いておいた住所を確認して、電車を乗り継ぎバスに乗って、ようやくたどり着いた。
目の前にあったのは、古びた二階建ての寮。
管理人さんに名前を伝えて、案内された部屋は──
「ここだよ」と言われた6畳一間の畳の部屋だった。
押し入れに布団、机がひとつ。
テレビもないし、窓の外は隣の建物の壁。
だけど──ここが僕の新しい生活のスタート地点なんだ。
荷物をおろして、床に腰を下ろして深呼吸した。
「よし。……頑張るぞ」
声に出して自分に言い聞かせる。
凛ちゃんの顔を思い浮かべながら──
ここから始まる毎日を、必死に生き抜いてやろうって思ったんだ。
仕事は……つらかった。
正直、こんなにきついとは思ってなかった。
単純な作業のはずが、立ちっぱなしで腰は痛くなるし、
慣れない機械の扱いに戸惑って、何度も先輩に怒鳴られた。
昼夜逆転の生活も、身体にこたえた。
夜勤は特に地獄みたいだった。
夜中の3時ごろになると、もう意識がぼんやりしてきて、
でも手は止められない、作業は終わらない。
気を抜いたら怪我する。
焦れば怒られる。
眠い。身体も重い。心も擦り減る。
……それでも。
スマホの画面を開くと、そこには凛ちゃんからのLINE。
「今日もおつかれさま!頑張ったね、亮ちゃん♡」
「あと少しで給料日だー!がんばろうね」
その一言があるだけで、不思議と踏ん張れた。
本当にしんどい時は、凛ちゃんの写真を見てた。
楽しそうに笑ってる凛ちゃん。
ディズニーでふざけ合った時の凛ちゃん。
誕生日にケーキを食べながら「おいしーい!」って顔してた凛ちゃん。
――僕には、守りたい人がいる。
それだけで、頑張れる気がしてたんだ。
それから2ヶ月が経とうとしていた、11月のある日。
夜勤明けで、寮に帰ってきて仮眠を取っていたときだった。
寮の入り口から誰かの話し声がして、ぼんやりしながら扉を開けると……
「りょーうちゃん!」
……え?
目の前に、笑顔で立っていたのは、凛ちゃんだった。
一瞬、夢かと思った。
だって、なんの前触れもなかったんだ。
本当に突然で、僕は言葉を失って……そのあと、やっと声が出た。
「えっ……え、なんで!? え、なんでいるの!?!?!?」
凛ちゃんはにこっと笑って、
「サプライズだよ〜!びっくりした? めっちゃ早起きして新幹線乗ったの!」
って、いつもの調子で嬉しそうに話してくれた。
もう、嬉しすぎて心臓バクバクだった。
しかも凛ちゃん、「予約してあるお店があるんだ」って言ってくれて、
近くのちょっとおしゃれな居酒屋を予約してくれていた。
「名古屋名物とか、いろいろ調べたんだ〜!」って得意げに笑う顔が愛おしくて、
その場で抱きしめそうになるのを、なんとか我慢した。
ごはんを食べてるときも、ずっと笑ってた。
僕も自然と笑ってた。
お酒もほんの少しだけ飲んで、たわいない話をして。
そして、凛ちゃんはこう言ったんだ。
「休みでしょ?ホテルも予約してあるから、一緒に泊まろ?」
そう言って、小さなカバンを持ち上げて見せた。
……僕はもう、たまらなかった。
全然変わらない笑顔。
優しい声。
その存在が、全部。
すごく可愛かった。
すごく嬉しかった。
仕事の疲れが、一気に吹っ飛んだ。
心から、
「……来てくれてありがとう」
って、僕は凛ちゃんに言ったんだ。
そして、ホテルで一緒に過ごしているときのことだった。
ふたりでベッドに座って、テレビもつけずに話をしていたとき──
凛ちゃんが、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ、亮ちゃん。実はさ……会社で、昇格の話が出てたんだよね」
「えっ? 昇格?」
「うん。まだ確定じゃないけど、たぶん……部門のリーダー的なポジションになる話があったの。給料も上がるし、キャリアにもすごく良いって、上司に言われてさ」
「……すごいじゃん。めちゃくちゃ頑張ってたもんな」
僕は、本心からそう思っていた。
凛ちゃんは本当に努力家で、いつも責任感が強くて、どんな仕事でも手を抜かない。
そんな凛ちゃんが認められたこと、嬉しかった。
でも、凛ちゃんは少し微笑んで──そのあと、ふっと視線を落として言ったんだ。
「でもね、それ断ったの。辞退したの」
「……えっ、なんで?」
「亮ちゃんと、これから一緒に生きていきたいからだよ。昇格したら、きっと毎日遅くなるし、休みも合わなくなるし……名古屋と千葉って、今でも距離あるのに、もっとすれ違っちゃう」
「だったら、私は今のままでいい。亮ちゃんといる時間を大事にしたいの。そう思ったの」
その瞬間──胸がギュッと締めつけられた。
こんなに僕のことを思ってくれていたんだ。
僕は、凛ちゃんのために名古屋に来て、稼がなきゃって必死になっていたけど、
凛ちゃんは、僕の“そばにいたい”っていう気持ちを一番に考えてくれていたんだ。
嬉しいのに、ちょっと苦しかった。
申し訳なさも、じわりと滲んできた。
「……ありがとう、凛ちゃん」
僕はそう言って、凛ちゃんの手をぎゅっと握った。
「僕、もっと頑張るから」って。
凛ちゃんは、何も言わずに、にこっと笑ってくれた。
その笑顔が、あったかくて、優しくて──
僕はこの人と、一緒に生きていきたいって、改めて強く思ったんだ。
凛ちゃんが帰ったあとの数日間は、不思議と心が満たされていた。
あの笑顔が胸の中に残ってて、何度も思い出しては元気をもらってた。
──でも、現実は容赦なかった。
仕事は、とにかくキツかった。
夜勤が終わっても、そこから3時間…いや、ひどい時は5時間の残業がついてくる。
帰ってシャワーを浴びて、少しご飯を食べたら、もう次の勤務の時間。
眠りたいのに、頭はギンギンして眠れない。
睡眠時間は2時間あるかないかの日が続いた。
昼夜逆転の生活に身体はどんどん悲鳴をあげてきて、
集中力が切れてくる。
些細なことでミスをしそうになるし、作業の手が止まりそうになる瞬間が何度もあった。
でも…休めない。
僕には目標がある。
凛ちゃんとの未来のために、お金を貯めなきゃいけない。
せめて、貯金が貯まるまではって、必死に言い聞かせる。
だけど、つらい時は本当にあるんだ。
誰にも言えないくらいの孤独と疲労が、毎日、波のように押し寄せてくる。
布団に入っても眠れず、
狭い天井を見上げながら、
「これで本当に正解だったのかな…」って、
ふと弱気になってしまう夜もあったんだ。
それは、夜勤明けの朝だった。
もう、限界だった。
工場の更衣室で作業着を脱ぎながら、
ぐったりと壁にもたれかかって、息を整える。
手は震えてるし、足元はフラフラ。
たった今も、作業中にうっかり機械に手を挟みかけた。
ダメだ、もう限界だ。
身体も、心も、張りつめていた糸がプツンと切れる音がした。
帰りのコンビニで買ったおにぎりを手にしたまま、駅のベンチに座り込む。
ポケットからスマホを取り出して、
思わず凛ちゃんの名前をタップした。
LINEの画面に、「ごめん…もう限界かも」とだけ打ち込んで、
しばらく指が止まる。
「帰っていいかな」
「帰りたい」
「つらい」
「苦しい」
まるで子どもみたいな言葉。
でも、今の僕には、それ以外に出てくる言葉がなかった。
送信ボタンを押したあとのスマホの画面が、涙で滲んで見えなかった。
あんなに強がって、頑張ってる姿だけ見せたかったのに。
僕は、とうとう、弱音を吐いてしまった。
そのLINEを送ってから、スマホを握りしめたまま、何分たっただろう。
「ピリリリ…」と着信音が鳴った。
凛ちゃんだ。
すぐに出た。
震える声で「凛ちゃん……」とだけ言うと、
その次の瞬間、凛ちゃんの言葉が突き刺さった。
「なんで……?
だって、今ここで戻ってきちゃったら、
私、何のために昇格を諦めたと思ってるの?」
その言葉が、心臓をわしづかみにされたみたいに痛かった。
「亮ちゃんが、頑張るって言ったから。
私、昇格を断ったんだよ……!
もっと稼げるチャンスだったんだよ?
でも、離れたくなかったから。
亮ちゃんと未来を作りたかったから…!」
凛ちゃんの声が震えていた。怒りと、悔しさと、悲しさと…全部混じっていた。
「なのに……なんで、そんなに簡単に『帰りたい』なんて言えるの!?
私、信じてたのに……っ」
僕は何も言えなかった。
言葉が、何一つ、出てこなかった。
ただ、心の中で何かが、静かに崩れていく音だけが響いていた。
でも──
辛いものは、辛い。
苦しいものは、苦しいんだ。
それが現実だった。
夜勤明けの残業、寝る間もない生活、責任感、プレッシャー。
全部がどんどん肩にのしかかってきて、
その重さに押し潰されそうだった。
心の中は、ごちゃごちゃになっていた。
「僕が弱いのか?」
「逃げたいって言ったら、全部が終わっちゃうのか?」
「凛ちゃんを失うのか?」
そんな思いがグルグルと回って、
もう何が正解かわからなかった。
そして──
僕の口から漏れたのは、弱音だった。
「もう限界かも……」
「帰っていいかな……」
「つらい……苦しい……」
その言葉を聞いた凛ちゃんは、しばらく沈黙して、
小さく、「……もういいよ」って言ったんだ。
そして、電話はぷつんと切れた。
耳に残るのは、無音だけ。
スマホの画面を見つめたまま、僕はただ動けなかった。
心がぐしゃぐしゃに潰れていた。
あの優しかった凛ちゃんの「もういいよ」は、
きっと、僕のすべてを否定されたような気がして──
息をするのも苦しかった。
それから……
1週間がたとうとしていた。
あの夜、凛ちゃんと電話が切れてから、
一度も連絡はなかった。
僕も、できなかった。
送ろうと思って何度もLINEの画面を開いたけど、
何を送ればいいかわからなかった。
「ごめん」?
「もう一度話せるかな」?
どれもしっくりこなくて、結局スマホを伏せた。
仕事は相変わらず忙しくて、
毎日、時計の針だけがぐるぐると回っていった。
起きて、働いて、仮眠して、また働く。
心がどんどん麻痺していくのがわかる。
感情が、なんとなく鈍くなっていった。
でも、夜になるとふと、思い出す。
凛ちゃんの声。
凛ちゃんの笑顔。
サプライズで名古屋に来てくれたときの、
嬉しそうに笑った顔。
……やっぱり、僕が悪かったのかな。
いや、でも……僕だって、頑張ってたんだよ。
誰かに少しだけ甘えたかっただけなんだ。
あのとき、ほんの少しの「大丈夫」が欲しかっただけなんだ。
ベッドの天井を見つめながら、
僕はまたスマホを手に取った。
けど、画面は暗いまま。
でも──
その時だった。
着信音が鳴った。
画面には「凛ちゃん」の名前が光っていた。
僕は迷わず通話ボタンを押した。
「……凛ちゃん」
声が震えていた。
だけど、返ってきた声は、あのいつもの凛ちゃんの声だった。
ただ、そこにはあの頃みたいな柔らかさがなかった。
「亮ちゃん……話があるの」
その言葉の温度で、すべてを察してしまいそうだった。
「今日ね、職場の人に……告白されたの」
「ちゃんと、『お付き合いしてください』って言われた」
「すごく真面目な人で、優しくて、私のこと、ずっと見ててくれたって」
胸の奥がざわっとして、言葉が喉の奥でつかえた。
「……で、返事は?」
それだけが、精一杯だった。
「まだ、してないよ
でも……すごく迷ってる
亮ちゃんが名古屋に行ってから、ずっと寂しかった…
電話の声だけで、私は大丈夫って思いたかったけど、やっぱり寂しいものは寂しかった。
……私、強くないんだよ。」
その言葉が、胸に刺さる。
凛ちゃんが泣きたいくらい辛かったこと、知らなかったわけじゃない。
でも──
僕は、なにも返せなかった。
携帯を持つ手が震えていた。
呼吸がうまくできない。
脈が早い。
けど、心だけが、冷えていた。
嘘だ。
そんな、まさか。
凛ちゃんが……僕以外の人に告白されて、迷ってるなんて。
僕以外の人を選ぶなんて──
そんなわけないよね。
僕たち、5年も一緒にいて、たくさんの景色を一緒に見て、
一緒に笑って、一緒に泣いて、未来の話までして……
そんなの、他の誰かが入り込めるはずないじゃん。
……ないよね?
ないはずだよね?
でも、凛ちゃんの声は確かに──
僕を突き放すような、優しさじゃない響きをしていた。
不安が、押し寄せてくる。
海みたいに、容赦なく、ザブンザブンと音を立てて、
僕の胸を、心を、押し潰すみたいに。
すごく、不安で。
すごく、怖くて。
はち切れそうだった。
壊れそうだった。
もう、だめだって思った。
こんな気持ち、耐えられない。
涙が、止まらなくなりそうで……
いや、もう止まらなかった。
部屋の中で一人、声も出せずに、
ただ携帯を握りしめて、
暗い天井を見上げていた。
──凛ちゃん、お願いだ。
僕を、捨てないで。
それから………
僕は何度も、凛ちゃんに電話をかけた。
でも、出ない。
火曜日と土曜日、いつも決めてた時間に「電話しようね」って言ってくれてたのに。
あの約束──あれも、もう意味なんてないのかな。
火曜日、スマホを何度も見て、待った。
……鳴らない。
こちらからかけても、「応答がありません」とだけ。
土曜日、も同じだった。
待って、かけて、でも、出てくれない。
LINEも既読はつくけど、返信は来ない。
「ごめんね、仕事で寝ちゃってた」
「ちょっと疲れてて、また今度話そう」
そんな短い文だけが、冷たく届く。
……ねぇ、凛ちゃん。
僕、なにかしたかな?
どうしてこんなに遠くなるの?
僕が名古屋に来たのって、全部、凛ちゃんのためだったのに。
怖い。
毎日、どんどん、怖くなる。
このまま、大切な人が、僕の手から、するりと、消えてしまいそうで──
次の火曜日も、また電話が鳴らなかったら……
もう、僕、きっと……。
火曜日。
いつもなら凛ちゃんの「おつかれさま」って声が聞けたはずの時間。
僕は、布団の中でスマホを握りしめたまま、画面を何度も何度も見ていた。
電波が悪いんじゃないかって、部屋の中を歩き回って、スマホを天井にかざしてみたりもした。
……でも、鳴らなかった。
ただ、静かに、時間だけが過ぎていった。
LINEの返信はなかった。
でも、「既読」はちゃんと、ついていた。
その「既読」って文字が、胸にナイフみたいに突き刺さった。
あぁ、読んでくれてるんだ。
でも、返してくれないんだ。
“今、電話できる?”
“ちょっとだけでも声が聞きたい”
そう送ったメッセージのあとに続くのは、ただの沈黙だった。
冷たい沈黙が、スマホの画面から溢れて、僕の心を凍らせていく。
もうダメなのかもしれない──
そう思うたびに、苦しくて苦しくて、声が出そうになるけど、
寮の隣の部屋に聞こえるのが怖くて、
枕に顔を埋めて、声を押し殺して泣いた。
泣きたくなんてなかった。
男だし、もう大人だし、弱いとこなんて見せたくなかった。
でも、どうしようもなかった。
僕は、ただ、凛ちゃんが好きなだけだったのに。
──思い返すと、
「応援するよ」「待ってるね」って言ってくれた凛ちゃんの言葉も、
あの優しい手紙も、
あの夜、笑ってくれた顔も、
全部、僕の勘違いだったのかなって思えてくる。
だって、いま僕は、
こんなにも置いてけぼりにされて、
まるで要らない人みたいに扱われてる気がするんだ。
僕、何のためにここに来たんだろう。
何のために働いて、何のために頑張ってるんだろう。
凛ちゃんのためって信じてたけど……
もしその「凛ちゃん」が、もう僕をいらないのなら――
僕、どうやって、ここに立っていればいいのかな。
そういえば……
年末に千葉に帰るってなったとき、
凛ちゃんのご両親とも「会ってみようか」なんて話をしていた。
少し照れくさかったけど、でも嬉しくて。
凛ちゃんと結婚する未来が、うっすらと現実になっていく気がして。
……夢を見てた。
でも、なんでだろうな。
もう、その約束さえ、幻だったように思えてきた。
……たぶん。いや、きっと。
このまま終わってしまうんだ。
そう思うたびに、胸の奥がズキッと痛む。
勝手にひとりで思い詰めて、勝手にひとりで不安になってるって分かってる。
だけど、
だけどね、凛ちゃん──
君の言葉も、態度も、時間も、
今の僕には、全部が「終わりのサイン」に見えてしまうんだ。
“好きだよ” ずっと一緒にいようね”
あんなにたくさん言ってくれたのに。
優しくて、可愛くて、ずっと隣にいた凛ちゃんが──
いまは、僕の知らない場所で
僕の知らない時間を生きてる。
……新しい職場の、誰かと。
“告白された”“付き合おうって言われた”
……あの言葉が、心にこびりついて、離れない。
彼がどんな顔をして、どんな声で凛ちゃんの名前を呼ぶのか。
どんな風に笑いかけたのか。
想像したくないのに、勝手に頭が浮かべてしまう。
……あぁ、やめてくれ。
なんで全部、辻褄が合っちゃうんだよ。
僕のLINEに返さなくなったこと。
電話に出なくなったこと。
言葉がどんどん、冷たくなったこと。
「頑張ってね」が、ただの定型文みたいになっていったこと。
僕を嫌いになった理由なんて、
もう聞かなくたってわかる気がしてしまうんだ。
……でも。
まだ、凛ちゃんの「声」が聞きたい。
「もう一度やり直そう」なんて言えないかもしれないけど、
せめて、ちゃんと終わりを、君の声で聞かせてほしい。
僕は、まだ──
ちゃんと、君のこと、好きなんだよ。
夜、布団の中。
部屋の天井を見つめながら、手元のスマホに目をやる。
最後に凛ちゃんと電話で笑ったのは、いつだっただろう。
もう思い出せない。
指が、勝手にLINEのトーク画面を開く。
スクロールすると、並ぶ言葉のやりとり。
「今日はお昼なに食べた?」「ちゃんと寝てる?」「好きだよ」
そんな日常が、まるで昨日のことみたいで。
でも、それを送ってくれた“今”の凛ちゃんが、
僕の知らない場所にいることが、苦しい。
ふと、震える指で
「元気?」って打ってみる。
でも送れない。
送ったら、もう全部が終わる気がして。
“既読スルー”が怖くて。
スマホを握ったまま、ため息だけが漏れる。
こんなに人を好きになったのは、初めてだった。
凛ちゃんの笑い声も、少し怒ったときの顔も、
ご飯を食べて「美味しいね」って言ってくれる幸せも──
全部、忘れたくない。
だけど、
どんなに願っても、時は戻らないんだ。
もう、僕のことを「亮ちゃん」って笑いかけてくれないかもしれない。
もう、僕の撮った写真の中でしか、凛ちゃんに会えないのかもしれない。
そんな現実が、
少しずつ、じわじわと僕を締め付けてくる。
悔しいな。
もっと頑張れた気もする。
もっと違う選択肢があったんじゃないかって思う。
でも、それも全部“今だから”思うことなんだよな。
──こんなに好きなのに、
なんでうまくいかないんだろう。
もう一度、凛ちゃんに「好き」って伝えたら、
何か変わるのかな。
それとも、もう遅いのかな。
涙は出ない。
ただただ、胸の奥がヒリヒリと痛んで、
眠れない夜だけが、また一日、僕を追い越していく。
夜の寮の部屋、蛍光灯の白い光がやけに冷たい。
畳の上に座って、何度も何度も書いては消していた。
スマホの画面に映るのは、LINEの入力欄。
指が震えていた。
心臓がドクンドクンと音を立てて、頭の中まで響いてくる。
「火曜日も土曜日も電話する約束をしていたのに電話出来ない理由を教えてください?
調子のいい事ばかり言って振り回すのはもうやめてください。
最後にちゃんとお別れしたいので明日時間ありますか?
もし無いのでしたらお時間作ってください。お願いします。」
これが最後になるかもしれない──
そんな覚悟を込めて、指で「送信」ボタンを押した。
送った瞬間、呼吸が止まったような気がした。
目を閉じた。耳が熱い。
脈が跳ねて、鼓膜まで脈打っている気がする。
本当は、こんなふうに責めたくなかった。
怒りたいわけじゃない。
悲しませたいわけじゃない。
ただ──ちゃんと向き合って、
「終わるなら終わる」
「続くなら続く」
その言葉を、凛ちゃんの口から聞きたかった。
……でも、既読にならない。
通知が鳴るたびにスマホを見た。
でも全部、違う通知。
広告だったり、ニュースだったり。
時間だけが流れていく。
既読にならない画面が、
僕の心をじわじわと壊していくみたいだった。
スマホが震えた。
ピコン──。
「凛ちゃん」の名前が画面に浮かぶ。
鼓動が一気に早くなった。
「……りんちゃん?」
通話ボタンを押した瞬間、
耳に飛び込んできたのは、どこか遠くを見ているような、淡々とした凛ちゃんの声だった。
「……ごめんね、亮ちゃん。LINE、読んだ。ちゃんと話さなきゃと思って……」
その一言で、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
覚悟しなきゃ。わかってた。わかってたはずだったのに。
凛ちゃんは続けた。
「私たち……友達に戻ろう。亮ちゃんのこと嫌いになったわけじゃないよ。
でも……恋人としては……もう……戻れないと思う。」
言葉が刃みたいに鋭く胸に突き刺さった。
「……戻れないの?」
僕は喉が詰まるような声で聞いた。
なんとか、絞り出すように。
電話の向こうで、凛ちゃんは少し黙った。
沈黙が、ものすごく長く感じた。
心の中で「違うって言って」と何度も何度も叫んだ。
「……わからない。」
凛ちゃんはそう言った。
やっぱり、僕のことを想ってはくれてるんだって思いたかった。
でも、「わからない」という言葉は、もう「答えが出ている」のと同じだった。
どうしようもなくて、息がつまって、
僕はスマホを耳に当てたまま、声を出せなかった。
凛ちゃんは、そっと続けた。
「亮ちゃんには幸せになってほしい。……ほんとに、心から。」
優しさが一番残酷に感じた。
その優しさがある限り、僕は希望を捨てきれなくなるじゃないか。
僕の手が、ゆっくり震えだした。
目が熱くなった。
でも、僕は──
「……ありがとう。連絡くれて、ありがとう」
それだけ言って、通話を切った。
──これが終わりなんだ。
そう、認めたくなくても、
その時、僕の中で何かが「終わってしまった」と、確かに感じた。
通話が切れた。
スマホの画面には「通話終了」の文字がじっと光ってる。
音が消えた部屋の中に、ただ静けさだけが残ってた。
僕はそのままベッドにスマホを落として、背中から倒れ込んだ。
白い天井を見上げても、何も答えてくれない。
……友達って、なに?
恋人として一緒に過ごした5年間。
凛ちゃんと笑い合った時間、泣いて抱きしめ合った夜、
毎年の記念日、季節のイベント、全部が大切な思い出だ。
あんなに好きだったのに。
それを「友達」って言葉に、変えられるわけない。
でも……もしそのまま、友達にすら戻れなかったら、
もう一生、凛ちゃんに会えないかもしれない。
それが、怖かった。
なんでだよ。
頑張ってたのに。
全部、凛ちゃんのために頑張ってたのに。
心の中がぐちゃぐちゃで、息をするのも苦しい。
感情を無理やり押し込めてた何かが、ぷつんと切れた。
「……凛ちゃん……」
名前を呼んだ瞬間、涙がぶわって溢れた。
最初は静かに泣いてたけど、
すぐに喉の奥からぐしゃぐしゃの音が漏れて、
ベッドの上で、僕は顔を両手で覆って、
子どもみたいに声をあげて泣いた。
「……嫌だよ……凛ちゃん……嫌だ……」
情けない。でも止まらなかった。
どれだけ目を拭っても、涙が次から次へと溢れてくる。
呼吸もうまくできないくらいだった。
恋が終わるって、こんなに痛いんだ。
僕はその夜、ひとりきりの寮の部屋で、
何度も何度も、凛ちゃんの名前を呼びながら泣き続けた。
──ゆう目線
12月の半ば。
僕はお母さんと一緒に、創作料理屋「一幸」でお昼ご飯を食べていた。
湯気の立つ小鍋をつつきながら、たわいもない話をしていたときだった。
テーブルの上のケータイが震えた。
画面には「亮」の名前。
名古屋に行ってからというもの、LINEもほとんど来なかったし、連絡すらなかった。
だから、その着信には思わず箸を置いた。
「お母さん、ちょっと電話出るね」
そう言って、僕は席を立たずにそのまま通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『……ゆうくん?』
少しか細い声だった。
「おぉ、亮。元気か?」
『……うん、元気だよ』
かすかに、でもどこか力のない声だった。
なんだろう、仕事疲れてるのかな?と思いつつ、あまり深く聞くのも悪い気がして。
「まあ、年末に会えるでしょ?そのときまたゆっくり話そうよ」
少し間を置いて、亮が言った。
『……そうだね』
わずか、1分ほどの短い会話だった。
でも、胸の奥に、どこか引っかかるものが残った。
僕はその夜、あの短い電話のことを何度も思い返していた。
亮の声が少しか細かったこと、どこか上の空みたいだったこと——
でも、それを「仕事の疲れ」だと、僕は純粋にそう思い込んでしまった。
慣れない土地での暮らし。
慣れない仕事、きつい夜勤。
そりゃ疲れて当たり前だ。
凛ちゃんとだって、離れ離れなんだし。
「頑張ってるんだろうな、亮……」
僕はグラスの中の麦茶を見つめながら、そっとつぶやいた。
そのときの僕には、まだ気づけなかった。
亮の“助けて”のサインを。
亮の“本当の声”を──
亮の電話から、ちょうど3日が経った。
その日は仕事が休みで、僕はコンビニで買ってきたプリンパフェを食べながら、のんびりテレビゲームをしていた。
何気ない、いつもの休日。
そのときだった。
スマホが震える。
画面には……見覚えのない番号。
「……誰だ?」
一瞬、無視しようかとも思ったけれど、なんとなく胸騒ぎがして指が勝手に通話ボタンを押していた。
「もしもし」
受話口から聞こえてきたのは、聞き慣れない中年男性の声だった。
「すみません、私、亮くんの職場の上司でして……」
「え?」
「……亮くんが、今日の朝、寮で倒れているのを同僚が発見して……救急搬送されました。今は病院にいます」
頭が真っ白になった。
「えっ……え……!? 亮が!? なんで!?」
パフェの甘さも、スマホの画面も、全部一瞬で遠くに感じた。
声が震えた。心臓がどくんと鳴る。
「状況はまだ詳しくわからないのですが……意識は……今のところ、戻っていません」
その上司と名乗る男性は、
「また何かわかり次第、すぐご連絡いたします」と言って、電話を切った。
僕は震える手でケータイを握りしめたまま、すぐに母に電話をかけた。
呼び出し音がやけに長く感じた。
やがて、お母さんの明るい声が聞こえた。
「どーしたのぉ〜? なにかあったぁ〜?」
その瞬間、僕は深く息を吸って、絞り出すように言った。
「……落ち着いて聞いてほしい」
少し間を置いて、言葉を続けた。
「亮が……亮が、意識不明で、病院に運ばれたって……職場の人から電話があった」
電話の向こう側で、母の声がぴたりと止まった。
「え……?」
ほんの数秒が、何十秒にも感じられた。
「……えっ……うそ……なにそれ、ほんとに……?」
お母さんの声が震えていた。
その震えは、スマホ越しでもはっきりと伝わってきた。
僕は言った。
「いますぐ、実家に行くから。待ってて」
気がつけばもう、足は玄関に向かっていた。
実家に着くと、玄関の扉はすでに開いていた。
僕は靴を脱ぎながら、「お母さん……」と声をかけようとしたけれど、言葉が喉に詰まった。
リビングの奥、仏壇の前に、母が座っていた。
背中を丸め、小さく揺れながら、手を合わせていた。
「亮……帰ってきて……帰ってきて……お願いだから……」
母の声が震えていた。何度も、同じ言葉を繰り返していた。
僕はその場から動けなかった。
母の肩が、小刻みに揺れているのが見えた。
僕の弟が、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。
それが現実だって、ようやく体の隅々まで染み込んできた。
「……お母さん」
やっとの思いで、声を出した。
でもそれ以上の言葉は、どうしても出てこなかった。
母はゆっくりと顔を上げた。目は真っ赤だった。
それでも、僕の顔を見ると、少しだけ笑ってくれた。
「ゆう……来てくれて、ありがとう……」
僕は黙って母の隣に座った。
二人で、ただ静かに、祈った。
亮が、無事に、帰ってくることを──。
実家に着いてから、まだ30分も経っていなかった。
母と仏壇の前で並んで座っていたとき、僕のスマホが震えた。
あの番号だ──さっきの亮の上司の人。
震える指で通話ボタンを押すと、すぐに沈んだ声が聞こえた。
「……大変申し上げにくいのですが……亮さんが、先ほど、亡くなられました」
その瞬間、空気が凍りついた。
目の前の景色が、すうっと色を失っていく感覚。
「……うそだ……」
思わず口から漏れたその言葉は、かすれて震えていた。
信じたくない。
信じたくない。
信じられるはずがない。
電話を切ると、僕は固まったまま、動けなかった。
すぐに母がこちらを向いた。
「……ゆう? 亮は……?」
何かを言おうとしても、声にならなかった。
僕はただ、ゆっくりと首を横に振った。
その瞬間、母の顔から血の気が引いて、目が見開かれた。
「……そんな……そんな……亮……亮……亮ぉ……」
母の叫び声が、家中に響き渡った。
その声に引っ張られるように、僕の中にあった何かも決壊した。
我慢していた涙が、音もなく一気にあふれ出した。
顔を手で覆っても、止まらなかった。
声が漏れるのを抑えきれなかった。
「なんで……亮……なんで……」
こらえようとしても、無理だった。
泣いても泣いても、心は空っぽになっていくばかりだった。
僕は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けずにいた。
けれど、伝えなければならない相手がいる。
震える手で「凛ちゃん」の名前をタップした。
コール音のあと、すぐに電話は繋がった。
「……はい、もしもし?」
変わらない、凛ちゃんの声。
でも、どこか張り詰めたような、沈んだ響きがあった。
僕は、静かに問いかけた。
「……最近……亮と、何かあった?」
一瞬、沈黙が続く。
受話器の向こうから、小さく息を飲む音が聞こえた。
「……色々あって……別れました……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがつながった。
あぁ……やっぱり、そうだったのか。
でも、責めることなんてできなかった。
そんな余裕すらない。
そして、僕は深く息を吸ってから、静かに伝えた。
「……亮が、亡くなりました」
その瞬間、電話越しに凛ちゃんの泣き声が響いた。
抑えきれない嗚咽。取り乱したように、涙をこらえることもせずに、彼女は泣いていた。
「……今から、名古屋の亮のところに行くけど……どうする?」
そう問いかけると、凛ちゃんは震える声で、泣きながら答えた。
「……行きます……行きます……っ」
その声に、僕はそっと目を閉じた。
「……わかった。待ち合わせの場所が決まったら、また連絡する」
そう言って電話を切る。
言葉の一つひとつが、胸の奥に重く沈んでいった。
でも今は、ただ──亮のもとへ向かうだけだった。
それからすぐに、僕とお母さんは荷物をまとめて、東京駅に向かった。
凛ちゃんと東京駅で待ち合わせをしたから。
そして合流して…。
向かうのは、亮が今いるという名古屋の安置所──。
新幹線の中、手が震えながらスマホを握りしめて、職場のオーナーに電話をかけた。
画面が呼び出しを繰り返す間も、涙が止まらなくて、声を整えることもできなかった。
「……あ、もしもし……オーナー……明日、休ませてください……」
嗚咽交じりの声に、電話越しのオーナーが少し戸惑った。
「……おい、どうしたんだよ」
「……亮が……亮が、死にました……弟が……名古屋で……」
その瞬間、しばらく沈黙があって──
次に聞こえたのは、オーナーの怒鳴るような声だった。
「お前がしっかりしないでどうするんだ!……しっかりしろ、今すぐ行ってこい!また落ち着いたでいいから連絡くれよ。」
その言葉が胸に刺さって、また涙が溢れた。
「……ありがとうございます……すみません……すみません……」
電話を切ると、僕は小さく丸まって、目を閉じた。
窓の外には変わらぬ景色。
でも、僕の世界は、確かに変わってしまった。
隣でお母さんは、無言のままずっと泣いていた。
凛ちゃんは憔悴してるように見えた。
祈るように、何かを抱きしめるように、俯いた背中が小さく揺れていた。
僕はその肩に、そっと手を置いた。
「亮……もうすぐ会えるからな……」
そう心の中で繰り返しながら、ただ前へ進むしかなかった。
新幹線の中。
車窓の外には冬の空が広がっていたけど、僕たちの心はずっと曇ったままだった。
お母さんはハンカチで何度も目を押さえていた。
凛ちゃんは俯いたまま、小さく震える肩を黙って抱えていた。
その空気の中、僕はどうしても聞かずにはいられなかった。
「……なんで、別れちゃったの?」
静かな車内に、僕の声だけが浮いた。
凛ちゃんはしばらく俯いたまま動かなかった。
でも、やがてぽつりぽつりと話しはじめた。
「……亮くんが、帰ってきたいって……言ったんです。
でも私……私も、昇進の話を断ってしまってて……」
言葉を詰まらせながら、それでも凛ちゃんは続けた。
「それで……、どうしていいかわからなくなって……
未来が見えなくなっちゃって……
距離ができてて……」
凛ちゃんは涙を堪えながら、それでも一生懸命言葉を選んでいた。
目の前の彼女が、亮とちゃんと向き合っていたことが、僕には痛いほど伝わった。
「ごめんなさい……。本当に……ごめんなさい……」
小さく絞り出すように謝るその姿に、僕はもう何も言えなくなっていた。
誰が悪かったとか、そういうことじゃない。
きっと二人とも、どうにもならない苦しさの中で、精一杯だったんだ。
ただ、知りたかった真実が、今こうして少しずつ明かされていく。
その重さに、僕は深く息を吐いた。
凛ちゃんの「ごめんなさい……」という声が、新幹線の中にじんわりと染み渡っていく。
その声に、ずっと黙っていたお母さんが、ゆっくりと口を開いた。
「……貴方のせいじゃないよ」
凛ちゃんは顔を上げられずにいたけれど、その言葉にハッとしたように目を見開いた。
お母さんは、優しいけれど、どこか遠くを見るようなまなざしで言った。
「亮がね……弱かったの。
ずっと、自分の中の苦しさを言えない子だったから……
頑張りすぎて、抱え込んじゃうの。昔から、そうだったのよ」
凛ちゃんは、膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、何も言えずにいた。
名古屋の最寄り駅に到着すると、冷たい風が僕たちを包んだ。
ホームから改札へ向かう途中、僕とお母さん、そして凛ちゃんの三人の足取りは重たかった。
改札を出ると、スーツ姿の男性が二人待っていた。
「亮くんの会社の者です」
そう名乗ったのは、管理職らしき男性と、もう一人は現場で亮と一緒に働いていたという直属の上司だった。
「突然のことで…本当に申し訳ありませんでした」
二人は深く頭を下げた。
僕たちも無言でそれに倣い、会釈を返した。
彼らが用意してくれていたのは、会社のワゴン車だった。
前列には会社の二人。
後部座席には、僕とお母さん、そして凛ちゃんが並んで座った。
車が走り出してしばらくの間、車内は静まりかえっていた。
道路の音と、時折鳴るウィンカーの音だけがやけに響いた。
やがて、助手席に座っていた現場の上司が静かに口を開いた。
「亮くん、すごく真面目な子でした。仕事は慣れないはずなのに、いつも一生懸命で……。きつい夜勤明けも、文句ひとつ言わず、黙々と作業してくれてました」
「僕たちももっと声をかけていればよかったのかもしれません。最近はちょっと疲れてるような、そんな顔もしてて……でも、こっちが気づいてあげられなかったんです。本当に……すみません」
運転席の管理職の方が続けた。
「ご家族に、こんなご報告をすることになるなんて……言葉が見つかりません。ただ、亮くんは、最後まで真面目に働いてくれました。ほんとうに、いい子でした」
助手席で凛ちゃんはずっと前を向いたまま、じっと黙っていた。
お母さんは膝の上で両手をぎゅっと組み、涙を拭っていた。
僕は、ただ、目を閉じて祈るように息を殺していた。
どんなに悔やんでも、後悔しても、時間は戻らない。
そんな当たり前のことが、今は残酷でしかなかった。
そして、車は静かに警察署の前に止まった。
警察署に着くと、案内されたのは無機質な待合室だった。
時計の針の音がやけに大きく響いて、みんな無言のまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
しばらくして、係の人に名前を呼ばれた。
「ご遺体に…会っていただけます」
その言葉に、お母さんがふるりと肩を震わせた。
凛ちゃんはぎゅっと口を閉じて、静かにうなずいた。
僕は深呼吸をして、二人を促しながら歩き出した。
案内された部屋の中には、白い布に包まれた亮がいた。
静かに布をめくると、そこには、僕たちの知っている亮ではない、変わり果てた姿の亮がいた。
目は半開きで、口も開いていて
生えてきた無精髭と、やつれきった顔
頬はこけて、色もなく…
もう、亮の体から温もりは消えていた。
「亮ぉ……」
お母さんが声をあげて泣きながら、亮を抱きしめた。
「なんで……なんで……帰ってこなかったの……」
凛ちゃんは、震える声で呟いた。
「会いにきたよ……亮ちゃん……」
声にならない涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちていた。
僕は、ただ立ち尽くしていた。
直視できないのに、目を逸らせなかった。
こんなに痩せて、こんなに……苦しかったんだな。
僕の弟、亮が
もう、どこにも行けない存在になってしまった。
言葉が何ひとつ出てこなかった。
頭の中では「嘘だ」と何度も繰り返していたけど
目の前の現実は、何度まばたきしても変わらなかった。
その後に待っていたのは、
あまりに現実味のない「事情聴取」だった。
僕とお母さんは一つの部屋へと案内された。
凛ちゃんは、別室へ。
無機質な空気の中で、警察の人が淡々と語りはじめる。
「最後に亮さんと連絡を取ったのはいつ頃ですか?」
僕は一度、目を伏せた。あの日の声を思い出す。
「……12月の半ばです。亮から突然、電話がかかってきて……」
「どんな様子でしたか?」
「……元気って、言ってました。でも……声が細くて、
どこか……無理してるような、そんな感じがしました」
言葉を絞り出すたびに、胸の奥がチクチクと痛む。
横にいたお母さんにも質問が飛ぶ。
けれど、お母さんは涙を堪えるので精一杯で、
「……亮……亮……」と名前を呼ぶだけで、うまく言葉にできなかった。
警察の人は、僕たちの沈黙に待ち時間を与えながら、
「亮さんの職場での様子や、悩んでいたことについて何か聞いていますか?」と尋ねる。
僕は首を横に振る。
「……あまり連絡がなかったんです。名古屋に行ってからは……数えるほどしか」
そう言って、自分の中にある後悔が胸をつく。
──もっと連絡していれば。もっと寄り添っていれば。
ふと、凛ちゃんのことを思い出した。
でも、彼女のいる部屋からは、何も聞こえない。
完全に隔てられた空間の中で、彼女もまた一人、
言葉と向き合っているのだろう。
事情聴取を終えると、警察の人は頭を深く下げて言った。
「ご協力、ありがとうございました。……本当に、ご愁傷さまです」
でも、どれだけ丁寧な言葉をもらっても、
亮がもういないという現実は、
じわじわと、心の奥底に、冷たく染み込んでくる。
答えなんて、きっと一生出ない。
ただ、知りたい気持ちだけが、胸をずっと締め付けていた──。
事情聴取を終えた頃には、すっかり日が暮れていた。
冷え込む夜の空気が肌を刺すようで、駅前の街灯がぼんやりと地面を照らしていた。
僕たちは会社の方に案内されて、近くのファミレスへ向かった。
その道すがら、ワゴン車の窓から見える名古屋の夜景が、まるで何かを覆い隠すように静かだった。
ファミレスの店内も静かだった。
時間が遅かったせいか、他に客はほとんどいなかった。
窓際のテーブルに案内され、
お母さんと凛ちゃんと僕、それに会社の人が2人。
誰もすぐにはメニューを開こうとしなかった。
テーブルの上の小さなライトが、みんなの顔を照らす。
でも、その光すら、どこか悲しく見えた。
やがて、会社の方がぽつりと話し出した。
「亮くん、ほんと真面目で…責任感の強い子でしたよ」
「夜勤の後も、最後まで手伝ってくれてました。
飲み会にも顔出してくれて……甘いお酒しか飲めないって言いながら、
いつもカシオレ頼んでました。可愛い子でした」
お母さんは手元のナプキンを強く握りながら、小さくうなずいていた。
凛ちゃんは、手を膝に置いたまま、俯いていた。肩が小刻みに震えていた。
僕もただ頷いていたけど、
心の奥ではずっと叫びたかった。
(もう、そんな話を聞いても、亮は……)
今こうして話されている亮は、
どこか遠い場所の、過去の話のように思えてしまっていた。
誰も悪くないのに、胸の奥がズキズキしていた。
外を見れば、冷たい雨がパラパラと降り始めていた。
街灯に反射する水滴が、まるで泣いているみたいだった。
僕は黙ったまま、
水のグラスを、ただ見つめていた。
ファミレスを出たあとは、会社の人に案内されて、亮の住んでいた寮へと向かった。
名古屋の夜は静かで、風が強かった。
車の窓を叩く風の音が、何かを急かすように響いていた。
寮に着くと、外観は古びたアパートのようだった。
細い階段を上がり、カチャリと鍵が開く音がして、ドアが開いた。
そこが亮の“部屋”だった。
六畳一間の畳の部屋。
片隅には小さな真新しいベッドがあり、布団がくしゃっと寄せられていた。
蛍光灯の白い光が、やけにまぶしく見えた。
部屋の中には、ごく少しの荷物しかなかった。
黒いボストンバッグ、畳まれたセーター、歯ブラシ、コップ、ハンドクリーム。
あとは数冊の漫画本と、書きかけのスケジュール帳。
亮の“生活”が、こんなにもコンパクトにまとまってしまうなんて──
凛ちゃんはそっとセーターに手を伸ばし、袖口を撫でながら目を伏せた。
お母さんは、静かにバッグを手に取っていた。
僕は部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
そこに亮がいた気配だけが、まだ空気の中に残っているようで。
ひとつひとつのものが、手放せない思い出に見えてきた。
亮は、どんな気持ちでここにいたんだろう。
誰にも相談できず、何も言わず、静かにこの場所で苦しんでいたんだろうか。
僕たちは、それぞれに荷物を持ち、
亮の“最後の部屋”をそっと後にした。
寮を後にして、夜の名古屋の街を車で走った。
車内は静まり返り、誰も言葉を発さなかった。
街の灯りがただ流れていく。眩しいはずのネオンも、今はまるで無機質に見えた。
ホテルは、凛ちゃんがネットで事前に予約してくれていた。
「ビジネスホテル……小さいけど、三部屋ちゃんと取れました。」
凛ちゃんの声は小さく、でもしっかりしていた。
お母さんがうなずき、僕は「ありがとう」とだけ言った。
チェックインを済ませ、それぞれが部屋の鍵を受け取る。
そのまま部屋に入ることもできたけど、なぜかそれができなかった。
お腹に何かが溜まっているような、空っぽなような──そんな変な感じがして、
僕は「ちょっと、何か食べようか」と言った。
誰も返事はしなかったけれど、黙ってついてきてくれた。
ホテルを出てすぐのところに、ココイチがあった。
看板の灯りが、やけに目についた。
「……ここにしようか」
僕がそう言うと、凛ちゃんとお母さんは、静かにうなずいた。
店内は、驚くほど普通だった。
明るくて清潔で、テーブルも椅子もいつも通り。
店員さんも、にこやかにメニューを差し出してくれた。
でも、僕たちの心は、まるでそこにいなかった。
誰もが、口を開かず、メニューもろくに見ないままカレーを頼んだ。
出てきたカレーは、いつもなら少しわくわくする香りがするはずなのに、
今日は何の味もしなかった。
ただ、食べる。口に入れて、飲み込む。
温かいはずなのに、心の中はずっと冷たいままだった。
「亮……あの子、ちゃんとご飯食べてたのかな」
ぽつりと、お母さんが言った。
その一言に、僕はスプーンを持つ手を止めた。
喉が、締めつけられるように苦しくなった。
凛ちゃんは、下を向いたまま、静かに涙をぬぐっていた。
それでも、誰も席を立たなかった。
食べ終えるまで、無言でスプーンを動かしていた。
今はもう、亮のいない世界。
それを、僕たちはカレーの皿の向こう側で、ひとつずつ噛み締めていた。
そして、ご飯を終えて、それぞれホテルの部屋に戻った。
無言のまま、エレベーターに乗り、部屋番号を確認して、静かに別れた。
僕の部屋は、いちばん端だった。
鍵を開けて、部屋に入ると、どこか病室のような無機質さを感じた。
ベッドの上に荷物を置いて、何気なくカーテンを開けると、
名古屋の夜景が遠くに広がっていたけれど、
その光すらどこかぼやけて見えた。
僕は、深呼吸をしてスマホを手に取る。
オーナーに電話をかけるために。
数コールで繋がる。
「……あ、僕です…」
「ああ、……大変だったな」
受話器越しに聞こえるオーナーの声は、いつもの調子だったけど、どこか優しかった。
僕は何も言えず、ただ「……はい」と答えるだけ。
「言葉が出てこないよ」
オーナーはそう言って、しばらく沈黙したあと、ゆっくり言葉を続けた。
「でも、お母さんも、妹さんもいるんだろ? お前がしっかりしないとな」
その言葉が、じわりと胸に染みた。
「……はい。ありがとうございます」
「こっちは気にすんな。落ち着いたらでいい。連絡、またくれ」
電話を切ったあと、僕はベッドの上に座り込んだ。
部屋の冷たい空気が、背中を押すように静かに流れていた。
何もかもが、現実のようで現実じゃない。
……亮は、もういないんだ。
部屋の天井を見上げながら、
僕はようやく、心の奥からこみ上げてくる感情に、
一人、そっと涙を流した。
亮がいない。
その現実が、胸の奥に重たく沈んでいる。
まるで、鋭い杭が心に打ち込まれているような、そんな痛み。
ふとスマホの写真フォルダを開いた。
笑ってる亮、ふざけてる亮、酔っ払ってる僕に呆れてる亮。
たくさんの亮が、そこにいた。
でも、もうこの先に写真は増えない。
笑い声も、文句も、くだらない会話も、全部──もう聞けない。
「……なんでだよ…」
声が漏れた。
ひとりきりのホテルの部屋で、静かすぎる空気のなかに、僕の嗚咽が吸い込まれていった。
目をぎゅっと閉じて、涙をこらえようとするけど、
まぶたの奥に浮かぶのは、冷たくなった亮の顔。
もう頬を叩いても、名前を呼んでも、目を開けてくれない弟。
苦しくて、苦しくて、
呼吸が浅くなっていく。
「ごめん……亮……ごめんな……」
何に対する謝罪なのかは分からない。
でも、ごめんって言わずにはいられなかった。
そして──
泣き疲れて、
知らないうちにベッドに倒れ込んで、
目を閉じた。
重たくて、冷たい夜のなか。
静かに、深く、眠りへと落ちていった。
次の日──。
早朝、まだ空がぼんやりと明けてきたころ。
葬儀屋さんのワゴン車が、名古屋のホテル前まで迎えに来た。
その車の後ろには──
亮がいた。
棺に入って、冷たく、静かに眠っていた。
お母さんと僕は、後部座席に並んで乗った。
車がゆっくりと走り出す。
名古屋の街が、少しずつ遠ざかっていく。
「亮……帰るよ……」
お母さんがそう呟いた。
その声が、小さく震えていた。
途中、何度かパーキングエリアで休憩したけれど、
車内はほとんど無言だった。
誰も何も、言葉を見つけられなかった。
窓の外を見ていても、
どこかに亮が立っているような気がして。
ふと振り返れば、
笑って「どうしたの、ゆうくん」って言ってくれそうな気がして。
でもそこにいるのは、無言の白い箱だけだった。
一方で、凛ちゃんは──
「ひとりで帰ります」と言って、
新幹線で千葉に向かった。
最後まで、気丈に見えたけれど、
改札を抜ける直前、涙を拭うようにしていた姿が、
今も焼きついている。
亮はもう、帰ってこない。
けれど、
僕たちは──亮を連れて、
家に帰るんだ。
12月24日――クリスマスイブ。
本来なら、恋人たちが笑いあい、イルミネーションに照らされた街が華やぐはずの日。
だけど僕たちの家には、線香の香りと、重たい沈黙だけが流れていた。
亮のお通夜が行われた。
親戚たちも集まり、亮の友達、僕の職場のオーナー達が顔を出してくれた。
静かに手を合わせてくれる人たちの姿が、どこか遠くに見えた。
僕はずっと、亮の遺影の前に座っていた。
微笑んでいる亮の写真。
こんなに優しい顔をしていたんだなと、改めて思った。
妹の由香も駆けつけていた。
棺の前に膝をつき、泣き崩れた。
「亮兄ぃ……なんで……」
「なんで逝っちゃったの……っ」
何度も何度も、泣きながらそう叫んでいた。
僕はその隣に座って、肩を抱こうとしたけれど、
自分の手も震えていて、言葉なんて、何ひとつ出てこなかった。
お母さんは、喪服を着ていたけれど、
どこか魂が抜けたようで、
ぽつんと座ったまま、ただ「亮……亮……」とつぶやいていた。
凛ちゃんも来てくれていた。
静かに手を合わせて、
誰よりも長く、棺の前に座っていた。
24日の夜――
本当なら、亮と凛ちゃんは並んでケーキを食べていたかもしれない。
プレゼントを贈りあって、笑いあっていたかもしれない。
でもその夜、そこにあったのは――
ひとつの棺と、終わってしまった未来だった。
お通夜が終わり、人が少しずつ帰っていくなか、
凛ちゃんは親戚のひとり――お母さんの妹であり、僕にとっては叔母さんに呼び止められていた。
「ちょっと、凛ちゃん。話があるの。」
控え室の片隅に呼ばれて、
凛ちゃんは少し緊張した面持ちで、静かにうなずいていた。
そこにいたのは、険しい表情の叔母さんだった。
目は涙で赤く腫れているけれど、声には怒りと悲しみがにじんでいた。
「ねぇ、凛ちゃん……どうして、ちゃんと別れてくれなかったの?」
凛ちゃんは言葉を失っていた。
「亮はね、大事な家族だったの。私にとっては甥っ子であり、息子みたいだったのよ。」
「なのに、あんな状態になるまで…どうして気づいてあげられなかったの?どうして、ちゃんと向き合ってくれなかったの?」
凛ちゃんはうつむいて、何も言えず、ただ拳を握りしめていた。
叔母さんの言葉は止まらなかった。
「あなたが昇格の話を断ったっていうのも聞いた。
でもね、それがあの子にとってどれだけのプレッシャーになったか、考えたことある?」
「もしちゃんと別れてくれていたら……亮は、そこまで思いつめなかったかもしれないのよ。
もう、いっそ損害賠償を請求したいくらいよ……!」
言葉は刺のように鋭く、凛ちゃんの胸に突き刺さっていった。
でも、凛ちゃんは反論しなかった。
ただ、声を殺して、肩を震わせながら泣いていた。
──誰も、正解なんてわからない。
でも、誰かを責めずにはいられないほどに、
みんな傷ついていた。
亮がいないという現実が、あまりにも大きすぎたから。
お通夜が終わって、親戚たちもほとんど帰った頃。
夜風が冷たくて、会場の外には誰もいなかった。
僕はジャンパーを羽織りながら、凛ちゃんに声をかけた。
「凛ちゃん……もう遅いし、車で送るよ」
凛ちゃんは一瞬僕の顔を見て、すぐに目をそらした。
「大丈夫です……大丈夫ですので」
そう言って、小さく笑ってみせた。
「いや、でもさ……こんな時間だし、送るよ?本当に」
何度か言っても、彼女はただ、何度も「大丈夫」と首を振るばかりだった。
しばらく沈黙のあと、
彼女は意を決したように口を開いた。
「……迎えが来てるんです」
「……え?」
「今、お付き合いしてる彼氏が……外で待ってます」
一瞬、時間が止まった気がした。
頭の奥で「そんなはずない」と叫ぶ声と、
「そうか、もう次に進んでるんだ」と冷静に受け止める自分とが
交錯していた。
でも、現実はとても静かで、
ただ胸の奥に冷たい波のように悲しみが押し寄せてきた。
……もう、新しい人がいるんだ。
亮のことは……本当に、終わったんだな。
彼女の中では。
──僕の弟が、必死に想っていた人。
最後の最後まで、大好きだった人。
その人は、もう別の誰かの隣にいる。
それが……たまらなく、辛かった。
そして、告別式の日。
昨日と同じように、静かで、寒い空気の中に
昨日来てくれた親戚や友人たちが、また集まってくれた。
あの優しかった亮のために。
たくさんの人が、最後のお別れに来てくれた。
けれど──
そこに、凛ちゃんの姿はなかった。
前もって「行けないかもしれない」と聞いていたから、
驚きはしなかった。
けれど、心のどこかで、
もしかしたら……という気持ちがあったのかもしれない。
ほんの少し、寂しかった。
式の最後。
棺の中に一輪一輪、みんなが手向けた花。
白い百合に、菊の花。
「亮、安らかにね」
「忘れないよ」
そう言いながら、みんなで静かに花を入れていった。
僕も、お母さんも、妹の由香も。
何度も何度も、亮の顔を見ては涙がこぼれてしまった。
そして、棺の蓋が閉じられた。
みんなで、木槌で棺に杭を打つ音が、
胸にズシンと響いた。
「カン、カン、カン……」
それはまるで、「本当にこれで終わりだよ」と告げられているようだった。
──その後、亮は霊柩車に乗せられて、
僕たちは火葬場へ向かった。
言葉も出ず、ただ車窓から見える冬空を眺めていた。
火葬場に着いて、亮を送り出すとき──
「本当に、これが……最後なんだな」
心の中で何度も何度も言い聞かせたけれど、
信じられなかった。
扉が閉まり、炉の奥へと亮が運ばれていくとき、
お母さんが、嗚咽をこらえきれずに泣き崩れた。
僕も、もう、耐えきれなかった。
「亮……」
そう呼ぶ声が、自分のものかすら、もうわからなかった。
火葬の終わる時間が、あんなに長く感じたことはなかった。
そして、骨壷に納められた亮を見て、
本当に本当に……
これで亮との人生が終わってしまったのだと、やっと実感が押し寄せてきた。
──亮目線
凛ちゃんからの…「友達に戻ろう」っていう宣言。
あれから、何日たったんだろう。
何度も頭の中で繰り返してる。
「友達ってなに?」
「もう戻れないの?」
「どうして…こんなことになっちゃったの…?」
もしかしたら、僕が名古屋に行かなければ…
凛ちゃんは昇進を諦めなかったかもしれない。
そのまま笑い合って、千葉で、ふたりで暮らしていたのかなって。
そんなことばかり、考えてしまうんだ。
もうすぐ……クリスマス。
街はイルミネーションでいっぱいで、
カップルが手を繋いで笑ってる姿が街にあふれてて。
なのに、僕は。
今年は、一人きりのクリスマス。
一人で見るツリーなんて、ただの電飾の棒だ。
一人で食べるケーキなんて、甘くもなんともない。
……そんなの、嫌だよ。
去年のクリスマス、凛ちゃんが買ってくれたチョコレートのケーキ、
「亮ちゃん、あーん」って食べさせてくれたの、
本当に本当に、幸せだったのに。
あれが、最後のクリスマスだったなんて…
そんなの……やだよ。
まだ、凛ちゃんの笑った顔が、携帯の中にも、記憶の中にも、
どこにでも残ってて……消せないよ。
「ねえ、凛ちゃん……僕は、まだ、君が好きだよ。」
誰にも聞こえないように、畳の部屋の天井に向かって、そう呟いた。
返事なんて、あるわけないのに。
でも言わずにはいられなかった。
泣きたい。でも泣けない。
声を上げたら、もう自分が壊れてしまいそうで、怖くて。
本当に、大切だった。
誰よりも、大切だったんだ。
凛ちゃん。
僕、どうすればいい?
ねえ…どうすれば、よかったの?
僕は…震える指でスマホを持って、
勇気を振り絞って、凛ちゃんにLINEを送った。
「凛ちゃんと会いたいです」
それだけ。
ただ、それだけだった。
もう一度だけ、顔を見て話したい。
せめて、ちゃんと向き合って終わりにしたい。
心の奥では、ほんのわずかでも、希望を抱いていたのかもしれない。
…でも、返ってきたメッセージを見た瞬間、
その希望は無残に砕け散った。
「私も会ってお話したいです。
ただ、先日、お付き合い始めたので
ちょっと考えさせてください」
付き合った……?
あの時、電話で「好きって言われて迷ってる」って言ってた男と……?
……もう答えは、出ていたってことなんだ。
一瞬で、時が止まったような気がした。
目の前の光景がぐにゃりと歪んで、音が消えた。
頭の中が真っ白になって、胸の奥に鈍い痛みがズンと走る。
あぁ……
そうか……凛ちゃんは、もう僕のことなんか……
スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
息を吸うのがこんなにつらいなんて、思わなかった。
返事なんて、できなかった。
できるわけ、ないじゃないか。
指先が冷たくなって、心まで冷たくなっていくのがわかる。
他の男に奪われたんだ。
凛ちゃんの心も、笑顔も、未来も。
こんなにも好きなのに、
こんなにも大事に想っていたのに──
……僕には、何も、残らなかった。
夜の部屋は、真っ暗だった。
電気もスマホの光も、今の僕にはまぶしすぎる。
布団にくるまっているのに、寒い。
でも体は汗ばんでいて、心臓の音が耳の奥でうるさい。
凛ちゃんのメッセージが、何度も何度も脳内でリフレインする。
「お付き合い始めたので」
「考えさせてください」
考えさせてって、何を?
もう十分考えた結果じゃないのか?
…そんなの、わかってるのに。
わかってるのに、わかりたくなくて、何度も読み返してしまう。
気づいたら涙が頬を伝っていて、
でも拭う気力もなかった。
声を出したら、崩れてしまいそうだったから、
口をギュッと結んだまま、
ただ、静かに泣いた。
何がいけなかったんだろう。
もっと優しくすればよかった?
もっとお金を稼げていたら?
もっと…もっと…
“もっと”を考えるたび、心がどんどん引き裂かれていった。
僕は、凛ちゃんのために生きてた。
凛ちゃんの「おつかれさま」のひとことのために働いて、
凛ちゃんが笑ってくれることが、生きる意味だったのに。
全部なくなった。
その笑顔も、言葉も、存在も。
彼女の未来に、もう僕はいない。
なのに、まだ好きなんだ。
まだ、会いたいって思ってしまう。
どんなに惨めでも、どんなに情けなくても、
今でも、凛ちゃんの名前を胸の奥で呼び続けてる。
ねぇ、凛ちゃん。
僕、こんなにも苦しいよ。
息ができないよ。
どうして…どうして、置いていくの。
──このまま、朝なんて来なければいい。
毛布をかぶって、
暗闇の中、僕は声を殺して泣き続けた。
誰にも気づかれないように。
ひとりぼっちで、世界から忘れられたように。
…凛ちゃん、僕、壊れそうだよ。
凛ちゃんの一番になれなくてもいい……
二番目でもいいから、そばにいたいって思ってしまった。
そんな関係、惨めだってわかってる。
だけど、もうそれでもいいって思ってしまうくらい、僕は弱っていた。
でも──凛ちゃんは、そういう人じゃない。
優しすぎるくらいに、まっすぐで、ちゃんとしてて、
ズルなんて、絶対に許さない。
だから僕の願いは、最初から叶わない。
どれだけ、苦しくても。
スマホの横に置いてあった、小さな箱を手に取る。
中にあるのは、僕たち二人で選んだティファニーのペアリング。
凛ちゃんが「これがいい」って笑って言ったあの日のことを、今でも鮮明に覚えてる。
僕はそれを、ぎゅっと握った。
手のひらの中で、銀色の輪が静かに冷たさを伝えてくる。
まるで、今の凛ちゃんの心みたいだった。
あの頃は、あたたかかったのに。
「りんちゃん……」
名前をつぶやいた。
誰にも聞こえない。
ここには僕しかいない。
…なのに、その声すら、震えていた。
この指輪に何度でも願いたい。
時を巻き戻せるなら、って。
もう一度、笑ってくれるなら、って。
…だけど、願いはもう届かない。
いくら願っても、時間は戻らない。
それが現実で、それが、今の僕の人生だった。
涙が、ぽた、ぽたと、
ティファニーの青い箱の上に落ちた。
そして僕は、
静かに指輪を両手で包み込んで、
ひとりきりの部屋で、目を閉じた。
──凛ちゃん、会いたいよ。
あぁ……
疲れちゃったなぁ……
なんかもう、全部。何もかも。
頑張ってきたはずなのに。
どうしてこんなに、心の中が空っぽなんだろう。
クリスマスなんて、大っ嫌いだ。
街はキラキラしてて、みんな笑ってて、
イルミネーションが綺麗で、カップルが手をつないで歩いてて。
僕の凛ちゃんは、
その笑顔を今、別の誰かに向けてるんだろうなって。
……そんなの、耐えられるわけないじゃん。
どうして僕じゃないの。
どうして、僕じゃだめだったの。
あんなに大切にしてたのに。
あんなに好きだったのに。
──もう無理だよ。
息を吸うのもしんどい。
心臓がずっと締め付けられてるみたいで、
眠っても夢に出てきて、目が覚めても現実は地獄で。
疲れた。
もう、なにもかもが嫌になった。
スマホの通知も見たくない。
誰かの幸せそうな顔も、
凛ちゃんの名前すら──苦しい。
そっと上着を羽織って、
財布を持って、外に出た。
冬の風が頬を刺した。
でも、その冷たさでさえ、もう何も感じなかった。
足が自然と向かったのは、近くのホームセンター。
目的は、決まっていた。
練炭を買うため。
静かに棚の前に立って、
誰にも話しかけられないように、帽子を深くかぶった。
カートにそれを入れて、
自然にレジに向かった。
レジの店員さんは、普通の顔で袋詰めをしてくれた。
きっとこんな僕の中身なんて、誰も気づかないんだろうな。
「ありがとうございました」
その言葉が、どこか遠くに聞こえた。
家に帰る道のりは、すごく静かだった。
でも心の中だけが、嵐みたいに、
ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃで。
──僕は今、ちゃんと生きてるのかな。
それすらも、わからなかった。
部屋に戻って、
僕はゆっくりとガムテープを取り出した。
無言で窓を閉め、
隙間という隙間を目張りしていく。
ドアの下も、換気口も。
ここを、外の世界から切り離すように、
慎重に、ひとつずつ。
ペリッ、ペリッ……
テープをちぎる音だけが響いていた。
ふと、机の上に置いていた小さな箱に手が伸びた。
開けると、そこにはあのペアリング。
ティファニーの指輪。
二人で選んだ日が、思い出される。
凛ちゃん、嬉しそうに笑ってた。
「やっぱりこれがいい」って。
僕もそれが嬉しくて、胸がいっぱいだった。
指にそっとはめる。
ひんやりと冷たくて、でも、
僕にとってはこの世で一番、温かい証。
膝を抱えて、
そのままうずくまった。
涙が頬をつたう。止まらない。
「……ごめんなさい」
ポツリと口からこぼれた。
「ゆうくん……ごめんね……」
「お母さん……ごめんなさい……」
「由香……駄目な兄でごめんな、ダメだったんだ……」
みんな、僕を愛してくれてた。
それでも、僕は、もう……限界なんだ。
誰も責められないよ。
誰のせいでもない。
僕が弱かっただけなんだ。
でも、苦しかったんだ。
どうしようもなく、孤独だったんだ。
愛してほしかった。
最後まで、凛ちゃんの隣にいたかった。
静かに深呼吸をして、
目を閉じる。
明日が来ないことを、
心のどこかで願いながら。
部屋にこもった静寂の中、
僕は机に置いた袋を手に取った。
買い込んだ睡眠薬。
ひとつ、またひとつと、
水で流し込んでいく。
数えていない。
ただ、無心で飲み込む。
部屋の片隅には、火を入れた練炭。
ゆっくりと、赤く燃えていた。
ポッ……ポッ……と
わずかに聞こえる炭の音。
目の前がぼんやりしてきた。
体がふわふわして、
頭の中の輪郭が溶けていく。
このまま、
世界が、僕を包んで、終わってくれたらいい。
「さようなら……」
小さく声に出した。
「ごめん……」
「本当に……ごめん……」
心の底からの言葉
「もう……嫌なんだ……」
「無理なんだ……」
「辛いんだ……苦しいんだ……」
誰かに助けてほしかった。
本当は、どこかで気づいてほしかった。
でも、言えなかった。
僕は……弱かった。
目の奥がぼやけて、
呼吸がだんだん浅くなっていく。
意識が遠のいていく。
「……あぁ……これで、終わるんだ……」
苦しくないと、信じたい。
この痛みも、この孤独も、
もう、なくなるなら。
さようなら。
僕の世界。
僕の凛ちゃん。
僕の家族。
全部、大切だったよ。
静かな部屋の中。
ほんの少し、息を吸い込む力が残っていた。
もう言葉を声には出せないけれど、
僕の心の中は、あたたかな誰かの顔でいっぱいだった。
だから、最後に──
伝えたい。僕からのメッセージを。
お母さんへ。
こんな最後になってしまって、本当にごめん。
もっと親孝行、したかった。
たまには旅行とか連れて行ってあげればよかった。
でも、僕にはそんな余裕も勇気もなかった。
よく「亮は何も言わない子だね」って言われたよね。
……言えなかったんだ。情けないけど、ずっと。
お母さんの子どもでよかった。心からそう思う。
ありがとう。生んでくれて、育ててくれて。
由香へ。
ユノちゃんのこと、大切に育ててね。
きっと、やさしくて、強い子に育つと思う。
その成長を見守れないのが……ごめん。悔しいよ。
兄らしいことって、全然してあげられなかったけど
僕はずっと、由香のことが大好きだったよ。
自慢の妹だった。ありがとう。
そして──ゆうくんへ。
迷惑ばかりかけて、ごめん。
苦しませて、悲しませて、本当にごめん。
でも、ゆうくんの弟でいられて、僕は幸せだった。
いつも守ってくれてありがとう。
怒ってくれてありがとう。
笑ってくれて、からかってくれて、ありがとう。
……来世があるなら、また兄弟になりたい。
それが、僕のたったひとつのわがまま。
ゆうくんは、きっと出会うよ。
運命の人に。
僕は……なんとなくわかるんだ。
だから、どうか幸せになって。
絶対に、だよ。
僕がこんなこと言っちゃいけないかもしれないけど──
みんなには、幸せになってほしい。
誰よりも。
身体が、ふわりと軽くなっていく。
やっと、願えるようになった。
やっと、心の底から。
ありがとう。
お母さん。
由香。
ゆうくん。
──さようなら。
そして、どうか……幸せに。
──ゆう目線
亮が亡くなってから、
毎日、ずっと、胸の奥に引っかかってるものがある。
なんで気づけなかったんだろうって。
なんで助けてやれなかったんだろうって。
俺は兄なのに、
亮の変化にも気づけなかった。
名古屋に行ってからの亮は、連絡もほとんど寄こさなかった。
でも、元気にやってると思い込んでた。
……思い込みたかっただけなのかもしれない。
あいつの部屋には、何も残されてなかった。
何も教えてくれなかった。
理由も、苦しみも、願いも、全部──何も。
でもさ、亮。
俺にはわかる気がするよ。
お前、ギリギリまで頑張ってたんだろ?
誰にも頼らずに、
凛ちゃんのこと、未来のこと、全部抱えて──
最後まで、優しいままで逝ったんだよな。
……バカだよ、お前。
でも──ありがとう。
ありがとうな。
僕の弟でいてくれて。
何も返せなかったけど、
僕、これからはちゃんと生きるよ。
誰のせいにもせずに、
お前の分まで背負って、生きていく。
だから、見ててくれよ、亮。
どこかで、ちゃんと。
──いつか、また会えるといいな。
この物語を書くきっかけは、夫の何気ない言葉でした。
酔うといつも話してくれた、弟の亮くんのこと。
そのたびに私の胸には、なにか言葉にできない感情が残りました。
「亮が生きていた証を、形に残せたら──」
そう聞いたとき、私はふと、この物語を書こうと思ったんです。
事実と想いを織り交ぜた、ひとつの記録。
読んでくださる方の心にも、何か温かい灯りのようなものが届きますように。