第四十話
・佐藤健視点
薬品の匂いと清潔な空気。こんな空気を吸える場所は一つしかない。病院だ。
目を開けると朝日が顔を照らす。
「お兄ちゃん!」
体を起こすと妹の顔が視界に入ってくる。そうだ。昨日事故にあったんだ。でも傷がない。
「よかった~!」
妹の安堵の声が耳の中を走る。泣き顔が目の中を走る。
「僕…事故にあって…」
あまり思い出せない。何か重大なことをしていた気がする。
「お医者さん呼んでくるね。」
「う、うん」
車に轢かれたと思ったけど違ったのかな…。
病院を出る。至って健康らしい。これ以上入院しても治すところがないと言われた。車に轢かれて病院に搬送されたのに怪我一つないのは運が良すぎるどころか人間離れしていると驚かれた。
見慣れた街の風景。なんだか安心する。
「お兄ちゃん。ほんとに大丈夫?」
「何が?」
「傷だよ。だって昨日は、もう会えないと思ったんだから。」
妹は覚悟していたらしい。僕に会えないことを。それほどの重症だったのかな。横断歩道を渡っているところから記憶がない。
「大丈夫ならいいんだ。」
「そう?」
「うん。」
「そうだ。卒業おめでとう。」
「ありがと!お兄ちゃん。」
妹は大学を卒業した。入学式に泣きながら参列したのが懐かしい。卒業式は出れなかったけど、卒業報告を受けたときは本人よりも喜んだ気がする。
「これからはお兄ちゃんのことを支えていくからね。」
「助かるよ。」
「もう、自分のやりたい事をしていいんだよ?」
「考えておくよ。」
やりたいとこか…。学歴がない僕からしたらやりたいことがあっても手が届かない。今までは妹のためを思って仕事一筋に頑張ってきた。今更何かしようとは思わない。いや、思わないようにしていたの方が正しいな。
「久しぶりだなぁ」
家の前で久しく会っていない父に遭遇した。世界で一番会いたくない人物だ。
「親のこと放って、兄妹で仲良く暮らすなんて寂しいじゃんよぉ。」
「なんの用ですか?」
「敬語って、お前。家族だぞ、もっとフランクに喋れよ。」
「もうあなたとは関係ないですから。失礼します。」
妹の手を牽いて家の中に逃げようとするが肩を掴まれる。
「5万。」
「なんですか?」
「5万寄越せ。」
「なんで…」
「家族だろ?仕送りくらいくれよ。」
「それで帰ってくれますか?」
「今日からここ住むわ。」
「なっ!」
体の震えが止まらない。トラウマの数々を植え付けた張本人としゃべっているだけでも心が壊れそうなのに、一緒に住むなんて絶対に無理だ。
「い、嫌です。」
「あ?」
「いやです…」
「何言ってんの?」
「一緒に住む、なんて、無理、です…」
「おい、おい。親に逆らうとは立派に育ったなぁ、おい!」
腹を蹴られて地面に転がる。
「誰に向かって口利いてんの?」
転がったところを何度も蹴られる。妹も震えて動けていない。
「ふざけやがって。鍵寄越せ、鍵。」
「いや、、、です。」
「しつけえな。親の言うことは絶対だろ?」
足を振り上げたとき
「何をしているんですか?」
そこには女性が立っていた。格好から警察だとわかる。反射できれいに光る銀髪に、整った顔立ち、すらりと伸びたそのスタイルに目が離せない。
「別にぃ、家族で話してただけだよ、なぁ」
転がっている僕に父が唾を飛ばしながら声をかける。
「怯えてますけど。本当に保護者の方ですか?」
「さっき叱っていたのがよくないのかな~。」
ふざけた口調で答える。
「お二人とも尋常じゃないくらい震えていますけど?」
「そりゃ、まだ朝は寒いからなぁ」
「一度、ご同行できますか?」
「いや~困るね、お嬢さん。家族団欒を邪魔してもらっては。」
団欒なんかじゃなかったのは誰が見ても分かることだろう。
腕を鳴らしながら警官に近づいていく。
「なんの真似ですか?」
「見たらわかるだろ!」
父が放った拳は簡単に止められて、その威力を利用して警官が背負い投げをした。手錠をかけて、倒れている父を鎮圧する。父は気絶していた。
「大丈夫ですか?」
警官が駆け寄ってくる。
「え、ええ」
手を差し伸べられたのでその手を捕まえて立ち上がる。
「傷だらけですね。確かここに…あった!はい、どうぞ。」
警官は絆創膏をくれた。
「一度署に来ていただけますか?」
「はい…わかりました…」
「はい…」
トラウマが蘇った僕らは十分に声が出ないまま連れていかれる。
警察署なんて入ったことがないから新鮮だった。でも、どこか靄がかかっている感じがする。
「どうぞ。」
コーヒーを出してくれた。顔をあげると先ほどの女性警官が立っていた。
「そんな目で見ないでください。」
笑いながらこちらに話してくれる。なんだろう…この子の顔から目が離せない。
「尋問したりするわけではないですから。」
こちらを安心させてくれる笑顔。この顔を見るために何かを頑張っていた気がする。初対面とは思えない再開に心が躍る。
「すみません。」
「はい!」
しまった。顔を見すぎて不審がられている。
「どこかでお会いしましたか?」
「?」
「いえ、どこかで…。すみません。初対面、ですよね。」
「いや、」
次の言葉が声に出ない。なんでこんなにわくわくしているのだろう。どこかで期待しているのだろう。心臓がうるさくするのだろう。
「すみません。変なこと聞いて。」
その言葉が耳に入ると体が自然に立ち上がった。
「い、いえ、その、な」
「?」
「いや、あの、」
「どうしました?」
「ば、番号…」
「番号?」
「な、なんでもないです…」
「ふふふ。」
「すみません…」
笑われてしまった。自分でも何がしたかったのか分からない。でもこれを逃したくないと思った。顔も見れないくらい赤面しているのが体温でわかる。
「はい、これ。」
「?」
「私の携帯番号です。」
「え!?」
「今晩暇なんですよ。」
「は、はあ」
「電話、してくださいね。」
「は、はい!」
警察署を出る。父からは薬物反応が出たらしい。前々から何を考えているのか分からない男だったが、そこまで行っているとは知らなかった。もうどうでもいいか。他人だし。
妹と我が家に帰る。久しぶりな気がする。一日しか経っていないのに新鮮な空気だ。
「そうだ。今日の夜、僕いないから。」
「そうなの?」
「出かけてくるよ。」
「あんまり無理しないでね。怪我の後なんだから。」
「分かってるよ。」
夕方に電話を掛けると朝あった女性の声が聞こえる。おすすめの店を紹介してくれるらしい。
「朝ぶりですね。」
「そうですね。よろしくお願いします。」
「なんですか?その他人行儀な挨拶は。」
会ってすぐ笑われた。あまり女性と出かけたことがないのでどうすれば正解なのかわからない。
お店に到着する。普通の居酒屋だ。何品か料理を注文し、運ばれてくるのを待つ。
「誘ってくれてうれしいです。」
「ほんとですか?よかった…」
「なんです?その顔は。」
「ちょっと、緊張してて…」
「逮捕したりしないから大丈夫ですよ。」
「そういうことではなく…。」
料理が来るまで軽い雑談をした。料理が運ばれた後も何気ない会話で盛り上がった。
「名前を聞いてなかったですね。」
「僕は、佐藤健です。」
「私は、小林さくらです。なんだか、堅苦しい挨拶になってしまいましたね。」
「そうですね。」
店を出て、別れの挨拶をする。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。気を付けて帰ってくださいね。」
「はい。」
「では、」
彼女が背中を向けた途端、肩に手が伸びた。
「どうしました?」
「い、いや、こ、これは…」
「ふふふ。」
「すみません…」
「スマホ出してください。」
「?」
「早く。」
「は、はい。」
僕のスマホを操作する。
「はい、これ。」
「なんですか?」
「私のメッセージです。今後は電話じゃなくて、メッセージでやり取りしましょう。」
「わ、分かりました!」
「ふふふ、いい返事ですね。」
ここで別れる。
帰り道にふと思った。なりたい職業が一つだけあることに気が付いたんだ。
「消防士…」
昔、小学生の頃。消防署に見学に行ったことがあった。そこでは火を恐れない人たちが毎日訓練している様子を見学できた。純粋にかっこいいと感じた。自分もこんなかっこいい人になりたいと憧れていた。
妹から言われた、好きに生きてほしい。この言葉をずっと無視していたけど、今日小林さんに会ってこんなかっこいい人になりたいと思った。強く思った。まだ夢をあきらめたくないと思った。
夜の街灯の下で、一つ決意した。トラウマで身を固めるんじゃなくて、自分の好きに生きてみたい。
軽やかに歩き出す。なんだか、体が軽い。どこまでも飛んでいける気がする。万能に広がる未来への可能性を胸に秘めて、明日を歩こう。ここからが僕のやり直しだ。




