1-17.ガラス玉はどこから
「落ち着いて」
ゾーラが祠の中に手を伸ばし、ガラス玉を握った。
「ガウッ!」
「奴の目的はこれ。遠くに投げれば追いかけていくはず」
しかしゾーラが実行するより早く、狼が鋭く吠えた。
「あああ!」
お婆さんが悲鳴と共に腰を抜かした。恐怖に耐えられなかった。こんな状況に陥ること自体、人生の中で無かっただろうから。
「ガウゥッ!」
「ああもう!」
同時に狼が突進をかけようとして、ゾーラが苛立った声と同時に生やした闇の蔓によって前足の一本を取られて前に倒れる。
僕も動いた。狼に接近しながら枝を構える。狼をよく見て、動きを見極める。
倒れたために、見上げる高さだった頭部が目線近くまで下った。魔物でも、頭を両断すれば殺せるはず。
頭部へ枝を真っ直ぐ振り下ろした。狼もまた危険を察知したのか、強引に足の蔓を引きちぎりながら後ろに飛び退いたため、斬り込みが浅くなった。
殺すことはできなかった。狼の右目に、縦に大きな傷を作っただけ。片目が潰れて血を流していたけれど、奴は生きている。
生きて、僕を睨んでいる。
「オオオオオ!」
「うわっ!?」
全力の咆哮。片目を失った痛みによるものか。それとも、奪われたままでは済まさなという怒りの宣言か。僕の体をビリビリと震わせるほどの声量と共に、片目でこちらを見つめる。
僕を殺すつもりか。いいぞ相手してやる。来い。
「させないわよ」
直後に闇の球が狼の鼻先に激突。
狼は怯み、不利を悟ったのか踵を返して森の奥へと駆けていく。地面に、点々と血の跡が残っていた。
「ヨナ様!」
「おい! 無茶はやめろ!」
ふたりが駆け寄ってきて、ティナの手が肩に触れた。
その瞬間、足の力が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「ヨナ様!? どこかお怪我が」
「ううん。大丈夫。なんか、怖かったみたい。自分から狼に突っ込んで行ったのにね。安心したら力が入らなくなって」
「そうでしたか。もう心配いりませんからね。怖かったですね」
「おい。怖いなら前に出たりするなよ。ガキはガキらしく歳上に守られてろ」
「うん。そうだね。でも僕には異能があるから」
「あっても、お前自身が弱かったら意味ないだろ」
「そんな言い方はないと思いますよキアさん!」
「こいつのこと心配してんだよ。ヨナが死んだら、お前も悲しいだろ!」
「それは……そうです」
ありがたいな。こんな風に僕のことを想ってくれる人がいるのは。
そういう人たちを守りたいと考えて飛び出したけれど、僕はまだまだ弱い。
「ふたりともありがとう。僕を心配してくれて。ゾーラも、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。それより、状況を整理したいわ。このガラス玉には魔力が込められて、近くの魔物を引き寄せる術式も刻まれていた。狼はこれに呼ばれたのね。そこまで強力ではないから、傷を負って不利を悟れば逃げていく。ちゃんとしたものなら、死ぬまでこれを追い続けるわ」
祠の中から、今度こそガラス玉を手に取りながらゾーラが語る。
「こんなものでも、例えば殺したい人間の鞄に放り込むとか、戦争中に敵の陣地に放り込むとかすれば被害を出すことができる。人間に危害を与える類の道具だから、一種の禁術と言えるわ」
「禁術……」
その言葉の重さとは裏腹に、ゾーラはガラス玉を手のひらの上でポンポンと軽く放り投げてはキャッチしている。
ガラス玉それ自体は危険じゃないからか、それとも間違って落として割った方が危険が無くなると考えているのか。
「下手すれば罪に問われかねない代物。それがここにある。……お婆さん。あなたはこれが祠の中にあることを知ってたのね? だから必死に止めた」
「あ……ああ……」
お婆さんは真っ青になってガタガタと震えていたが、ゾーラは気にしない。
「これはあなたの物かしら? だとしたら兵士に身柄を引き渡さないと」
「ちっ! ちが! あたしんじゃないよ!」
「じゃあ、どういうことかしら? 説明してほしいのだけど」
「そこまでですよ! ゾーラさん! お婆さん怖がってるじゃないですか!」
「そうだ。お前は顔が怖いんだから、せめて態度は優しくしろ」
「えっ。態度? というか、あたしの顔が怖い?」
「うん。さっき食堂で僕に見せた笑顔とか、怖かった」
「そうなの!?」
自覚なかったんだ。
僕みたいな男の子に見せる笑顔と、お婆さんを問い詰める顔は違うのだろうけど。でも感情が乗ったら怖くなるのは同じか。
「村長のお孫さんが、そういうのに気づかないほど小さいのは幸せだったね」
「ちがっ。あたしそんなつもりじゃ」
完全に気勢を削がれたゾーラは、詰問するって感じじゃなくなった。代わりにキアが、腰を抜かしたままのお婆さんの前に来て、しゃがんで目線を合わせた。
「婆さん。アタシもあんたのことは知ってる。ちょっと口は悪いが、悪いことする人じゃない。なあ、知ってることを教えてくれねぇか?」
優しく尋ねれば、彼女は恐る恐る語り始めた。それによると。
――――
五日前、お婆さんは森の中に木の実や山菜を取りに入った。
日常的に何度もやっていることであり、この日も村の決まりを全部守った上での採取をした。
つまり、採り尽くさないこと。日が暮れる前に帰ること。そして、祠の向こうから百歩の距離から先は行かないこと。
お婆さんは教えを忠実に守りながら採取を終え、その日を一日無事に過ごせたことを、ふと目に入った祠に感謝しようと考えた。
そして見た。男がふたり、必死で森の奥から走ってくるのを。
動きやすい格好で、腰には剣を提げている。冒険者といった様子だ。
ただならぬ様子に、お婆さんは咄嗟に木の影に隠れた。
男たちは祠を見つけ、その影に隠れた。随分と怯えた様子で、息を切らしている。
「なんだよこの仕事! 割に合わねえ!」
「楽な仕事だって聞いてたのに! くそっ! くそっ!」
「こんな依頼やってられるか! こんなもの!」
男の片方が手に持っている何かを恨めしげに見つめた。ガラスの球体だった。
「なあ。こんなもの捨てて、とっとと逃げちまおうぜ!」
「ああ。それがいい。ここに……」
男は罰当たりにも、祠を開けて中にガラス玉を放り込むと、閉めた。
それとほぼ同時に唸り声が聞こえて、男たちは揃って悲鳴を上げた。
巨大な真っ赤な狼。その口元には、今しがた誰かを食ったように血がついていた。
狼が男たちに襲いかかる。男の片方は覚悟を決めて剣を抜き対峙したが、もう片方は恐怖に負けて一目散に逃げ出してしまった。
「あ! おい待て!」
逃げた仲間を制止する声も虚しく取り残される男。それが致命的だった。
狼が男に飛びかかり、男には避ける暇が無かった。
最後の抵抗とばかりに振った剣は狼の前足の付け根あたりに切り傷を作ったが、それだけだった。
男は頭を噛み砕かれて、剣を握ったまま死んだ。
狼は自身が手負いになったことを悟ったのか、何かを探す様子を見せながらも、男の死体を咥えて森の奥へと消えていった。
――――
「それで、あたしゃしばらく腰を抜かしていて、それから祠に変なものを入れていたのを思い出して、怖くなったけれど確かめなきゃって思って。それで……」
「開けたのか」
お婆さんは震えながら頷いた。




