さよなら、イデア
そういえば、狐が僕の首を絞めた記憶を思いだした。僕の首に、狐の、今にも折ってくれといわんばかりに生えている指が掛かる。その時の記憶がまざまざと脳裏に蘇った。鏡に映った僕の姿はすっかり痩せこけ、毒々しくて、目の下にクマを飼っているし、唇は荒れ果てている。
鏡に映る僕の首には、痣が残っている。爪を立てられた。何より狐は僕なんかよりも握力が強いのだから、ひきはがせるわけがない。僕は仕方がなく、狐の指を一本折ってしまおうと朦朧とする意識の中で思った。死ぬ前にせめて一つくらい狐に勲章をあげても良いのではないかと思ったのだ。だけど、狐の指は僕の首にめり込んでいるのだから厄介。僕は狐の指を折る以前に死んでしまったのだった。ただ、何が問題なのかと言えば、「死んだはずの僕が、今ここで日常を送っている事実」である。鏡に映っている虚ろな僕の首には狐の痕。まるで積もった雪の上を歩いた如く、それはくっきりと僕の身体に印を残し、まるで何かの呪縛の如く、それははっきりと「死にゆく僕」を思い起こさせるのだった。
「僕は君を殺さなくちゃいけないんだ」
狐はまるで愛の告白をしているように、照れ臭そうに笑う。
僕はあまりに合っていないセリフと表情に、気の抜けた相槌を打ってしまった。これが良くなかった。狐は「キスしていいの?」という口調で、「殺していいの?」と僕に言ってくるのだから、またしても僕は気の抜けた相槌を打ってしまう。これが更に良くなかった。狐は僕の首に躊躇なく手をそえて、喉仏を細い親指の腹で指圧する。まるで、僕の喉仏の疲れをとっているようだった。狐は呼吸音と共に、指をグリグリ動かすから、その都度、狐の綺麗な爪が僕の皮膚に食い込んでいく。今思えば、絞殺じゃなくて、下手したら出血死だったかもしれない。確かにあの時、狐の爪によって僕の首の皮膚は裂かれていたはずだ。それくらいの痛みがあったように思う。思い起こせば、の話だが。
「綺麗なあっちゃん」
遠のく意識の中、狐がそう言っていたのを思い出す。
綺麗なあっちゃん。死にゆく僕が、綺麗だったのだろうか。きっと、失禁していた。臭ったはずだ、おしっこの臭いが。目はぼっこりと腫れぼったく、今にも落っこちてしまいそうに見開いていたかもしれない。鼻水も、よだれも、ありとあらゆる液状のものが僕の肉体から逃げだそうとしたはずだ。首なんて見るものじゃない、きっと乾いてボロボロに崩れゆく紙粘土のようだっただろう。僕は決して「綺麗」なんかではなかったはずだ。世間一般に見れば、の話だが。
狐のことは元々、人間だとは思っていなかった。狐を人間として見るには無理があった。狐の容姿は人間だが、人間ではない。あまりにも美しく醜かった。美しいのだが、醜いのだ。恐ろしく青白い顔、皮膚が薄いのか血管がうっすらと浮かんでいる。唇は誰かの血でもすすってきたのかと思うほどの真紅で、人形の様な細い髪の毛。何故立っていられるのか不思議に思うような細く伸びた足。誰につけられたのか、ぽかんと浮いた「狐」という名前。この世のものではない、やつれた生き物で、狐はこの世界に存在を置いていない生き物のようだった。狐はここにいてはいけない「何か」なのだと、直感的に思った。
「僕、死んじゃわないかな」
「いつかはね」
「あっちゃん、僕、あっちゃんより先に死ぬのは気が引けるんだ」
「気が引けるもなにも、きっと僕よりも君の方が先に死ぬよ」
「あっちゃん、僕ってちゃんと人間の如く死んで、人間の如く生まれ変わるのかな」
「君の場合、人間である証明が何もないから分からない」
「僕はあっちゃんの綺麗を知らない」
「僕の綺麗?」
「あっちゃんの綺麗」
「僕の綺麗……」
「今のあっちゃんはまるで……」
狐は続きを言わなかった。言葉を紡ぐことを放棄した。狐はコンクリートの床の上に寝転がり、口笛を吹き始め、僕の鼓膜をきんきん痛めつけ始めた。狐の口笛は凶器、そう、不安定なのだ。僕はそれを狐からの攻撃だと思う。だから仕方がなく、その攻撃をギリギリまで受けてあげて、叫んだ。「バリア!」と大声で叫んだ。腕をクロスして。狐はその「バリア!」が好きで、口笛を中断して楽しげに笑い転げる。
「あっちゃんのバリアが出た」と、狐は言う。
「……――の口笛が出たからね」と、僕は言う。
ああ。そういえば、僕は狐を「狐」と呼んだことがない。なら、僕は狐のことを何と呼んでいたのだっけ。その部分だけがぽっかんと抜け落ちている。狐。おい、狐。狐、狐、狐。今思い起こすと、「狐」という名前は狐が付けたのか。それとも、僕が付けたのか。あれ、狐はどこだ。狐はどこへ行って、僕はどこへ行くのだ。狐が僕を殺す。それもしっくりこない。狐。君は、僕を、置いていったのか。それとも逆か。
僕は、鏡の中の自分をジッと見つめて、話しかける。
「どうして生きているんだ」と、僕は僕に尋ねてみる。答えは無い。
いや。答えはある。首元にはっきりと答えを導く足跡がある。狐の痕だ。
死ぬ瞬間の記憶。
「綺麗なあっちゃん」。
「綺麗なあっちゃん」と、狐の薄気味悪い顔、真っ青な空に、白い月と、赤い鳥。真っ赤な鳥。それは、血だらけのように見えた。鳥が、ばっさりと狐の背後を羽ばたいて、血を、血を、血を、狐に向かい流していた。狐の首を垂れて、僕の眼球の中へと落ちた。鳥の血液。そういえば、僕の目はいやに充血していないだろうか。僕の右目は真っ赤に血走っている。これは、鳥が与え、狐が与えた、血潮。
学校へ行こう、と僕は思う。
学校に行けば、狐に会えるかもしれない。
鞄はどこか。学校へは何で行っていたか。僕はそれを覚えている。行くことが出来るのだ。死ぬと、生前の記憶がなくなりはしないのだろうか、と僕は思う。だが、そんなこと、今はどうだってかまわない。現に今、僕の記憶ははっきりとしている。それも、恐ろしいほどに。(ただ、何故かは分からないが、「狐」の名前は奪われてしまっている)
鏡の中の僕が少し、笑った。僕は、蛇口から水を盛大に噴出させて、顔を何度も擦るように洗い、歯も磨いた。それでもクマは、目元に居座り続けた。
ダイニングへ行けば、トーストが置いてあった。トーストにはハムとマヨネーズかのっかっていた。トーストの皿の隣に、コップに入った牛乳が置いてあった。誰が飲んだのか、コップの淵に、唇の跡がついている。トーストを手に取れば、焼きたてなのか、耳が熱くなっていた。僕は、トーストを食べようと口元に持っていく。しかし、僕はそれを拒否している。食べろ、と僕の右手は言うのだけれど、僕の口はそれを拒絶している。「薬だ」、と言う。「毒だ」と言う。僕は、それを、どうしてよいのか分からず、知らずのうちにポロポロと泣いていた。頬さえも伝わずに、真っ赤な眼球から、涙、が、一粒一粒、落下していた。気持ちが良いものではなかった。僕の頬を伝わないから、下瞼にぶらりぶらり、まるで死ぬのが怖くビルの屋上から飛び降りる事の出来ない自殺者の如く、僕の下瞼に掴まっていた、臆病な涙が、二・三、死んでいった。フローリングの木の中に。
よだれも出ている。気持ちが良いものではない。おしっこは漏れていない。
僕は、手に持ったトーストを落とした。まるで、機能を放棄したかのように、静かに、それは僕の手から解放された。なので、僕は、テーブルに置かれた、誰かの飲みかけである牛乳を一気に飲み干した。酸っぱかった。
ところで、僕には家族がいる。父親と母親と妹がいる。リビングの机の上に、手紙と五百円玉が二枚、置かれていた。「――と彩子ちゃんの朝ごはんです。お昼ごはんはこれで買ってね」と書かれていた。――。僕の名前は、――。僕の名前は、何だ。――。彩子、が僕の妹の名前だ。父親は敏文。母親は梓。僕は……。狐は――。僕と狐の名前は一体、どこへ消えたのか。
僕はダイニングのソファーの上に置かれた制服を手に取った。それはハンガーに掛けられているのに、吊るされておらず、ソファーの上に寝かしつけられていた。どれくらい、こいつは眠っていたのだろう。ネクタイを結ぶのに、手が上手く動かなかった。その時に僕は気づく。僕の手が、小刻みに震えていることに。だけど、僕はさしてそのことに興味を示さない。僕は僕が怯えている事実に、触れることを恐れているようだった。ネクタイをぎこちなく結び終えれば、ソファーの脇に忍ぶように置かれた鞄を取った。何故、こんなかくれんぼをしているような所に蹲り、隠れていた鞄を、僕は探すことなくあっさりと見つけることが出来たのだろうか。僕がここに鞄を置いたのは、遠い記憶ではないのだろうか。そうだ。僕は昨日、何をしていたのだろう。だけど、何をして、何を行い、どこへ行き、エネルギーを消費し、お腹を空かせて、物を胃へ納めていたのか、思いだせない。僕は、僕を、分からないでいる。それは、とても奇妙で、居心地悪い、感覚である。
鞄の中には、数冊の教科書とノートが入っていた。筆箱はなく、シャーペンが一本に、消しゴムが鞄の奥底に転がっている。僕は、その中身のまま、鞄を肩にかけ、机の上に置かれた五百円玉を一枚、ブレザーのポケットに入れた。そして、玄関で靴を履き、家を出た。鍵は掛けなかった。
僕は、思うままに歩いた。記憶はある。学校への道は、僕が覚えている。僕の足はぐんぐんっと道を歩いていく。それに僕は従う。僕が歩く道には、人がいなかった。日の光からして、昼ごろなのだろうか。人がいないことは珍しいことではない。人一人いなくても、何ら不思議ではない、と僕は思う。それは、きっと正しいのだ。
だけど、僕は、人に会うことになる。
僕の真向かいから、ランドセルを背負った少女が一人、歩いてきた。その少女はたて笛を吹いている。俯き加減に、たて笛の穴を見つめている。小さな指で、塞いだり、開けたり、少女は拙く演奏していた。真っ赤な膝上丈のプリーツスカート。真っ白なブラウス。薄らと下に着ているシャツが透けている。僕は少女を避けることなく、止まった。少女は、たて笛を見つめたまま吹き続けていたが、数メートルの距離で立ち止まった。笛の音も止んだ。少女は上目で僕を見る。真っ黒な眼球に僕が映る。妖しく光を知らない眼球だった。僕はその少女の闇に映されている。そのことが、幻想のように背筋を走った。少女は笛の先端から唇を離した。荒れた唇は、笛に少し纏わりついた。その荒れた地に水を与えるべく、蛇のように現れた少女の舌。舌舐めずり、ベロリ。始終、少女は僕から目線を外さなかった。これは威嚇なのか、それとも。
そして、僕は気づく。この少女は――。
「き」「つ」「ね」少女は言った。そして、にんまりと挑戦的に笑った。
「ね」「ず」「み」少女は言った。
「み」少女は言った。
「み」僕は反復する。
僕が、しばらく黙りこむと、少女は口が裂けそうなほど、口角を吊り上げて笑った。
「みんなしんじまえ!」
と、少女の小さな身体からは想像も出来ないような爆音で叫び、僕の隣を全速力で横切って、走って行った。スカートが捲れ、下着が見え隠れする。それでも、少女はたて笛をバトンのようにして、走って行った。
「狐……」
狐に似ているのだ、と僕は思った。
僕は学校へ続く道を、再度歩き始めた。
狐との思い出を馳せながら。
狐は、僕とは違うクラスだった。僕は狐がどこのクラスなのかを知らない。狐は僕が屋上に行けば、必ずそこにいた。とても優しく、そこにいた。狐はとても、優しくて、優しくて、恐ろしいほど、優しい、そんな人だった。ただ、僕はその優しさが、憎らしく怖かった。狐はひたすら笑っていた。それを一種の優しさだと、僕は思う。狐は、きっと人間なんかじゃないのだ。だから、僕は狐を別の生き物として、美しく、そして、優しく、思ってしまう。それは、幻想なのかもしれない、と、僕は思う。狐は、僕に、優しかったから。否、優しい行為を、見せた事はないけれど、狐の存在は「優しさ」だった。
狐が、どうして、屋上にいるのか、僕には分からない。それは、大雨が降っていた日だった。屋上のドアを開けた僕。さすがに今日はいないだろうと思って、ドアを開けた僕。そして、そのドアから、狐の姿を見つけた僕、は、ひどく青ざめた顔をしたに違いない。狐は大粒の雨にしんしんと撃たれながら、僕を待っていた。雨は弾丸のように、狐を殺しにかかるかの如く、容赦なく空から放たれていた。それでも狐は、僕を待っていた。笑ってた。優しく、笑ってた。僕は、そんな狐が、怖くて、怖くて、怖くて怖くて怖くて怖くて、逃げ出した。逃げる前に、狐から声が届いた。何故、大雨の中、距離もあったのに、僕の元にその囁きが届いたのか、今でも分からないけれど。
「あっちゃん、僕を、あっちゃんの、弾丸に」
僕が、その囁きに振り返ると、狐は、優しく微笑んでいた。今思うと、狐は、泣いていたのかもしれない。雨に紛れて、雨と溶け合うように。だけど、僕は、そのまま階段を下りた。走って、下りた。その時の僕は、泣いていた。それは、狐への涙だった。
学校は、静まり返っていた。
教室に、明かりは点いておらず、生徒も教師も、その箱には収まっていなかった。
僕は、開け放たれた学校の門をくぐり、校舎へと入った。自然と足は、ある場所へと向かっていた。それは僕の、最後の場所だ。
誰もいない学校はひどく閉鎖的で、冷たさを放っていた。それでも僕は、階段を上る。ただ、ひたすらに、階段を昇った。僕の、最後の空気、を吸いに。
階段を上った先にある、重たくたたずんでいるそのドアのノブを握る。冷やりと、金属の冷たさが、掌を通り、神経を刺激した。なんて、おかしな感触をしているのだろう、と僕は思った。まるで、僕は生きているかのようだ。僕は、その「生」の感触を与えてくれるドアノブから手を離す事が出来ず、しばらくドアノブをひしと握り締めて、ドアの前に立っていた。離すと、僕はまた、死んでしまうのだ、と思った。ドアノブの冷たさは永久ではない。僕の掌の温度に温められたのか、それとも、僕の掌が感覚を失ったのか、「生」の感触は、止んでしまった。僕は、ゆっくりとノブを左へ回した。キ、キ、キ、キ、と痛々しく、そのノブは泣いた。少しの力ではドアは開いてはくれない。僕は自分の体重をかけてドアを押した。ドアは更に空っぽに泣きながら、世界を僕の眼球の前に、広げて見せた。
青く澄んだ空。フェンスに反射する日の光。所々欠けたアスファルトの床。僕を待っていたかのようにたたずむ、狐。僕の喉仏が上下した。
「待っていたかのように、たたずむ、僕」狐は言う。
「ずっと?」僕は言う。
「おかえり、あっちゃん」狐は言う。そして、笑う。
「ずっと、待ってたの」僕は言う。そして、目が潤む。
「綺麗なあっちゃん」狐は、優しく、言う。
「ずるい、汚いよ」僕は、震えながら、言う。
狐は、ぽろん、と涙を落とした。
僕は、ぐしゅぐしゅと鼻水を啜る。ぼたりぼたり、目から、鼻から、液体が溢れだす。
狐、君の名前はなんだったかな。と僕は、狐に尋ねようと、口を動かした。
狐の、痛々しい笑顔に、言葉を発するのに、少し間が生じたが、僕は言った。
「君はだれ?」
狐は、痛々しい笑顔に、言葉を添えた。
「僕は君の弾丸」
「君は僕の…弾丸」
「私、は、君、の、ふたご」
「君、は、私、の……」続ける。「ふ」「た」「ご」向き出した歯は浮いていた。
狐の名前と、わたし、の名.前を脳裏に浮かべる。何でしたか、僕と私の名前は一体。
「狐、君はいったい」
「名前は、――」
「――」
狐と私。
僕と狐。
二人は双子で、片方の弾丸として生まれた。
「私の首を絞めたのは、僕」
「僕が首を絞めたのは、私」
狐は、僕の方へとゆっくり、歩み寄ってきた。僕は、狐の真っ黒な絹糸のように細い髪の毛を触った。ひやりと冷たい感触がする。髪の奥へと手を侵入させれば、それは冷たさを手の甲に与え、温かさを掌へと与えた。目の前に立っている少年は、僕を見つめ、僕に優しい、を向けていた。狐の優しいは、胸にきた。僕はしんしんと泣いている。頬を伝う。名残惜しく、僕の体内から溢れ出ていく。惜しむように遅いペースで。
「僕は、可哀想な、ひとりぼっちの、女の子を、弾丸で、さよならさせた」
「私をあの世界からさよならさせて、この世界に迎えたのは狐という名の私」
ゾッとするほど美しい少年、狐は、僕の首に手をかけた。そして、僕の唇に、狐の真紅の美しく実った唇を重ねた。
「綺麗なあっちゃん。もう一人の僕」
私が意識を失う瞬間に見えたのは、優しいもう一人の私の姿。
もう一人の私の弾丸。私を撃ち抜くために生まれた狐。
あのときの少女は私だ。き、つ、ね、ね、ず、み、み、ん、な、し、ん――。
さよなら、きれいな、あっちゃん。
「さよなら、イデア」
お疲れ様でした。
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