最終話 思い出と再会
私にはずっと想っている人がいる。初めは恋心に近かったかもしれない。でも、時間が経つにつれてそれは、兄を慕うような気持ちに変わっていった。
その人は私より十歳年上の、近所に住むお兄ちゃんだった。名前は前原色音。ちょっと変な名前だなと小さい頃、思っていた。
髪は長めでたまに後ろで一つにまとめていることもあった。体のラインが全体的に丸っこくて、ピアノを弾く指も太短かかった。
でも、色音君の弾くピアノの音色は、どこまでも澄んでいて、色とりどりの糸を紡いだように鮮やかだった。
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色音君が高校二年の時、私にピアノを教えてくれることになった。もちろんレッスン料は払う。色音君は、うちにアルバイトをしにきていたのだ。
色音君のお母さんはピアノの先生をしていた。だから、色音君は小さい頃から、ピアノの英才教育を受けていたらしい。期待に応えるように、めきめき上達したらしかった。
「運がよかっただけだよ。多分、俺には才能はない」
色音君はそう言っていたけれど、音楽の専科がある高校に通っていて、音大を目指していた。小学二年生の私にピアノの基礎を教えるのは簡単だったのだ。
もちろん色音君は音大受験のための、自分のレッスンもあったから、とても忙しかっただろう。でも、疲れた様子や、やる気のない様子は全く見せず、いつもにこにこしていた。
私は色音君のピアノレッスンが好きだった。教本を少し練習すると、後は私が弾ける曲で連弾したり、色音君が私のリクエストした曲を弾いてくれたりした。
私は当時好きだったアニソンを何回もリクエストし、色音君のピアノに合わせて歌っていた。
そして、小学三年生を迎える春休み。
うちは父の仕事の都合で引っ越すことになった。色音君も高校三年生になり、いよいよ受験に本腰を入れないといけない時期でもあったから、ピアノレッスンの終了は、ごく自然に訪れたのだった。
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引っ越す時にピアノを処分した。といっても捨てたり売ったりしたのではない。街の広報誌で〝ストリートピアノの寄贈を受け付けています〟という案内を母親が見つけ、我が家のピアノを街に寄贈したのだった。
当時、住んでいた街ではストリートピアノの設置に力を入れているらしかった。寄贈したピアノが設置された様子を知らせてくれるサービスもあり、後日、引越し先にうちのピアノが三宅台駅という私鉄駅に設置された旨の案内が郵送されてきた。
『みなさんに素敵な音楽を。みなさんの身近に音楽を』というキャッチフレーズのような言葉の下に、駅の構内に設置されたうちのピアノが写っているポストカードが一枚、封筒の中に入っていた。
「たくさんの人が弾いてくれるといいわね」
母親は笑顔でそう言った。
私は少し寂しかった。私と色音君だけが触れていたピアノが、見ず知らずの人にも演奏される。
色音君に会えないことが、急に悲しくなった。その日から私は、ほぼ毎日、色音君のことを想っていた。音大に合格しますように。色音君のピアノを聴ける日がまたきますように、と。
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そんな幼き日から十六年経ち、私は今年二十三歳になった。社会人一年目だ。私が勤めているのは小さな食料品メーカー。
人数が少ないので、新人でも次々、仕事が振られる。あっぷあっぷしながら、それをこなす毎日だ。毎週末は平日の睡眠不足を取り戻すかのように、混々と眠る。
でも、そんな週末の過ごし方は、もったいないのではないかと突然思い、今日は出かけることにした。
とはいえ買い物したい訳ではないし、映画も観たいものがない。どうしようかなと考えていた時に、閃いたのだ。
うちのピアノを見に行こうと。十六年も前だから、もしかしたら撤去されているかもしれない。それでも、私と色音君を繋いでいたピアノが、どんな場所にあるのか、この目で確かめたいと思った。
ピアノがある三宅台駅までは、途中で違う路線に乗り換え、私のマンションから一時間程かかる。ちょっとした電車の旅。飲み物を買って、ゆっくり電車に揺られるのもいいかもしれない。
私はリュックサックにスマホと財布を入れると、早速、部屋を出た。
三宅台駅に着いたのは、午後二時前だった。
ピアノはきちんとあった。うちにあった時より埃っぽくなっていたけれど、大きな痛みはなさそうだった。ピアノを見た時、その前で連弾している小学生の私と高校生の色音君を思い出した。
初めて二人で弾いたのは、たしか、ジングルベル。クリスマスが近い頃だった。私が両手でメロディーを弾き、色音君が伴奏をしてくれた。楽しかったあの瞬間。
もう十六年ピアノから離れているので、私は弾けない。だから、ピアノの後ろにあるベンチに座って、ピアノを眺めていた。
誰かが運よく弾いてくれないかな、なんて考えていた。
持ってきたペットボトルのミルクティーの最後の一口を飲み干した時だった。ホームに続く階段から子どもの声がした。
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「お父さん、あった!」
声のする方に目をやると小学校低学年くらいの男の子と三十代半ばの男性がいた。
男の子はキャップを被り、青いリュックサックを背負っている。男性の方は中肉中背の体型で、斜め掛けのカバンを下げている。
「弾いてみな」
男性が言うと男の子は「うん」と頷き、ピアノの前の椅子に座り、蓋をあける。そして、リュックサックを父親に渡す。
この小さな男の子が、今から演奏してくれるのか。そう思うと鳥肌が立った。
最初の部分を聞いて、さらに鳥肌が立つ。
昔、色音君に何度も弾いてもらったアニソンだった。
アニメ自体、何回もリバイバルされていて、今でも人気だ。
男の子の演奏は辿々しかった。それでも、一生懸命に弾いているのがわかる。
ピアノの横に立つ男性に目を向ける。男の子が演奏する様子を目を細めて見ている。その横顔に何となく見覚えがあった。
――! 色音君だ!
高校生の頃と比べると、目尻の皺やほうれい線が深い。でも、優しい表情は変わっていなかった。
人違いかもいれない。でも、色音君であることを確かめたかった。男の子の演奏が終わるのを待って、思い切って声をかけた。
「あの……」
二人は同じタイミングで私の方を見た。
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李杜君の前には赤いさくらんぼが目に鮮やかなクリームソーダ。私と色音君の前にはホットコーヒーが置かれている。
駅前にあった純喫茶と呼ぶのが相応しい店に私達はいる。
男性は色音君だった。息子の李杜君は小学一年生。親子で市内にあるストリートピアノを、弾いて回るのが週末の楽しみだと話してくれた。
李杜君が弾いていたピアノが、昔うちにあったピアノだと話すと色音君は「えぇっ! あのピアノなの!」と驚いていた。
色音君は音大を卒業し、しばらくしてからピアノの調律師になったのだと話してくれた。
「昔、七奈ちゃんに話したことあったでしょう。『多分、俺には才能はない』って。その通りになったよ」
自虐っぽく聞こえない、あっさりした口調で色音君が言う。奥さんがピアニストでその専属の調律をしたり、個人的に幾つかの自宅のピアノの調律をしたりしているとも話してくれた。
私は引っ越し後はピアノを辞めたこと、今は小さな食品メーカーで働いていることを話した。そして唐突にこんな言葉が口をついて出た。
「色音君が元気で幸せそうでよかった」
と。それを聞いて色音君は「七奈ちゃんもそうでよかった」と言ってくれた。
私達が話す横で、李杜君はクリームソーダに乗ったアイスを柄の長いスプーンで口に運んでいる。
十六年の時を経て、まさか再会するなんて。多分、もう一度、色音君に会うことはない。だから、お願いした。
「色音君にもマジカルラビリンスのオープニング、弾いて欲しいな」
マジカルラビリンスは、例のアニソン。さっき李杜君が弾いていた曲だ。私の突然のお願いを聞いて、色音君はびっくりしたようにこちらを見た。
アイスクリームに夢中になっていた李杜君が、スプーンの動きを止め、無垢な瞳を私に向けた。
「お父さん、マジカルラビリンス弾くの、めちゃくちゃ上手いんだよ!」
そう言った李杜君の頭に色音君が手を乗せる。その指にも見覚えがあった。
「仕方ないなぁ」
色音くんは、やれやれと言うように言った。でも、嬉しそうだった。このコーヒーを飲み終えたら、三人で駅に戻って色音君にマジカルラビリンスのオープニングを弾いてもらおう。
もしかしたら、歌ってしまうかもしれない。
わくわくしながらコーヒーに口をつける。
砂糖を入れていないのに、それは甘かった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。