第四話 救い
私の人生に恩師なんていないと思っていた。
数日前から朝夕、微かにピアノの音が聞こえる。向かいのマンションから聞こえてくるようだ。その音を聞いて思い出した。
もしかしたら下田先生は唯一の恩師だったのかもしれない、と。
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今から二十年前。私は小学生だった。三歳の頃からピアノ教室に通い始めた。母がピアノを習わせたがったのだ。自分が幼い頃、習えなかったから。
全くピアノに興味がない私は、全然練習をしなかった。通っていたピアノ教室はグループレッスンだったので、練習していなくても誤魔化すことができた。
転機が訪れたのは小学生三年生の時。
今までのジュニアクラスからアドバンスクラスになる時、人数が足りなかったのだ。グループレッスンができなくなった。
これでピアノを辞められる! と私は密かに思った。しかし、現実には辞められなかった。母がジュニアクラスでお世話になった下田先生に、直々に個人レッスンをお願いしたのだ。
そんな……と私は絶望した。母が言うことは絶対だった。「もう、ピアノ辞めたい」と言う権限はなかった。
「下田先生の家には、グランドピアノがあるんだって。グランドピアノが弾けるよ」
母は嬉しそうに言った。
そして、毎週月曜日、放課後、母が運転する車で三十分かけて、下田先生の自宅へ行き個人レッスンを受けることになったのだった。
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右手で辿々しく楽譜の音をなぞる。今週もやはり、練習したくなかったのだろう。先週も「右手しか練習していない」と言っていた。
詩季ちゃんのことは、三歳児レッスンの時から知っている。大人しい子だ。お母さんが教育熱心で、それに少々、萎縮してしまっているようなふしがある。
詩季ちゃん自身は、あまりピアノレッスンに興味はないのだろう。教本の進みも遅い。でも、休むことなく毎週レッスンに顔を見せる。真面目だ。
そんな詩季ちゃんに時々、はっとされることがある。
この子は、自分が弾く音をきちんとわかっているのではないかと。その音が平べったい音だと気づいているのではないかと。
ピアノを弾く人の中には、ピアノを歌わせるように弾くことができる人がいる。どの音をどれくらいの強さで鳴らすのか。そういうことを考えて弾ける人が、ピアノを歌わせることができる人だ。
私もそれはできると思っている。一応、音大を卒業したのだから。厳しいレッスンにも屈しなかったのだから。
詩季ちゃんは、自分がピアノを歌わせられないことを、きちんと理解している。だから、本当にいい音もわかるはずだ。そういう子の方が、ピアノを習った甲斐はあるのかもしれない。
あながち才能があるよりも。
詩季ちゃんのような子が、音楽には好かれると思う。
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「来週は左手も頑張ろうね」と下田先生は言った。
私は小さく「はい」と答えた。でも、きっと練習しない。来週のレッスン当日になって、慌てて二、三度弾くくらいだろう。
下田先生は優しい。友達が習っているピアノの先生の中には、間違えると生徒の手を叩いたり、つねったりする人もいると聞く。
下田先生は絶対にそんなことはしない。でも、たぶんイライラしているんだろうな。
そんなことを思いながら「さようなら」と挨拶をして先生の家を出る。
私がレッスンをする間、母は聞いている。レッスンで全然弾けないと、ものすごく不機嫌になる。その度、理不尽な思いになる。
――私がピアノを習いたいって言った訳じゃないのに
母は今日も不機嫌だ。そりゃそうだろう。練習をせずにレッスンに来たのだから。案の定、全く弾けなかった。
車の中では練習している教本のCDを聴く。練習をしないなら、せめて耳で聴いて覚えろという、母の無言の圧力を感じる。
同じ楽譜を見て、同じ音を弾いているはずなのに、CDから聴こえるピアニストが弾くピアノは、私が弾くそれと全く違う音色を響かせている。
私はこれに近づくことは、絶対できない。私の音はどうやっても、重たくて響かず平べったい音だ。ピアノが嫌がっているようにさえ思う。
早く辞めさせてくれないかな。そんな風にずっと思っていた。
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小学生だった詩季ちゃんは、高校一年生になった。相変わらず練習は嫌いみたいだけれど、レッスンが続いているのは、音楽と何かしら縁があるのだろう。
一月にあるピアノ発表会で、演奏したい曲があるか尋ねると、詩季ちゃんは「特にない」と言った。
私が講師をしていた音楽教室と共催という形で、毎年ピアノ発表会を開く。以前は音楽教室単体で発表会をしても十分な生徒数がいたのだけれど、今は年々生徒が減り、出演者を集めるために、私の個人レッスンで受け持っている生徒にも誘いが来たのだった。
小学生から高校生まで、約二十人。あくまでも日頃の練習の成果を発表するだけの、派手さのない小さな発表会だ。有望な子がいる訳でもない。
それでも、やはり出演するとなるとある程度の曲の方が華になる。詩季ちゃんの実力とピアノの経験年数を考慮して、私は有名な夜想曲を提案した。
その作曲家は難易度が高いことで知られているので、詩季ちゃんは一瞬、躊躇するように見えた。そんな躊躇いを拭うために、私は演奏して見せた。敢えてテンポを落として。
「練習したら弾けるよ」
そう言うと詩季ちゃんは無言で頷いた。
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先生からピアノ発表会の曲を夜想曲にしないかと言われた時、私は心の中で「無理! 無理!」と思った。だってその作曲家は難易度が高いことで知られている。
私に弾ける訳がない。及び腰になった。その作曲家の曲が弾けるというのは、ピアノを習っている人にはステータスかもしれない。
「そんな曲、弾けるなんてすごい!」曲名を見ただけで、誰もが思うだろう。
無理だと思う反面、プログラムに曲名と演奏者である私の名前が記載されるのを想像する。悪くない。コンクールじゃないし、どう弾いたって結果に影響する訳じゃない。そう思うとちょっと練習してみようかなという気になった。
発表会は来年の一月。本番まで三ヶ月。
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以前に比べると詩季ちゃんは練習しているようだ。辿々しいけれど、最後まで演奏できるようになった。ただ、暗譜して曲を仕上げるのは難しいだろう。
「暗譜しなくてもいいよ」
と伝えると詩季ちゃんは、明らかにほっとした表情を見せた。暗譜しない代わりに、もう少し曲の完成度を上げたい。だから、私は詩季ちゃんのプレッシャーにならない程度に、いくつか指示を出し、指導をした。
一月。発表会を来週に控えたある日、詩季ちゃんのお母さんから電話がかかってきた。
「高校の行事が重なってしまって、発表会をお休みしたいんです」
なんでも、詩季ちゃんが通う高校のサッカー部が、全国大会に進出し、学校から応援に行くのだという。それが発表会の日だった。
私は了承した旨を伝え、電話を切った。そして、ふと思った。詩季ちゃんは近いうちにレッスンに来なくなるだろうと。
詩季ちゃんには、もう会えなくなる。でも、彼女は私にとって、これからもずっと、かけがえのない生徒の一人だ。
そして詩季ちゃんはピアノをやめても、音楽とどこかで繋がっているだろうという予感が、私の中にある。
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人生最後のピアノ発表会を私は休んだ。サッカー部の応援なんて行きたくなかった。発表会を優先して応援の方を休むこともできたけれど、人前で未完成の夜想曲を弾くことの方が嫌で応援に行った。
結局、サッカー部は一回戦で負けた。夜行バスでの往復は体に堪えた。こんなことするなら発表会に出た方がマシだったなんて思う。
それからすぐ、私はピアノレッスンを辞めた。理由は大学受験。ようやく、練習から逃れることができた。
私は大学を卒業し就職した。小さい頃の私には考えられないような大企業だった。これで生活は保障されると思うと、安堵感に包まれた。両親もその快挙に喜んでいた。
ところがその幸せは長く続かなかった。人間関係で蔑ろにされ、私は精神を病んだ。二年近く休職したけれど、体調は回復せず、退職を余儀なくなれた。そして、実家に戻ったのだった。
最初はそのことが辛くて苦しかった。どうして私がこんな思いをしなければならないのか。自分は社会不適合者だ。自殺を考えたこともあった。自傷行為もあった。
それでも人というのは、しぶといもので少しずつ気持ちが落ち着いてくる。私も二年が過ぎて、これまでの自分を許せるようになった。
ただ毎日、息をしているだけだった私が、体調が良い時には唯一できたことがある。それは音楽を聴くこと。
私は父が若い頃に買い集めていた、クラシックのCDを何かに取り憑かれたように聴き漁った。それに満足すると、今度はピアノを弾きたくなった。
下田先生の所にレッスンに通っていた時は、あんなに嫌いだったピアノ。辞めたくて仕方がなかったピアノ。それなのに、今はほぼ一日中弾いている。
ピアノの前に座る度、下田先生の顔を思い出す。もうぼんやりとしか思い出せないけれど。もし、レッスンの度、叱られたり手を叩かれたりしていたら、私はピアノを憎んでいただろう。でも、下田先生は根気強く私に接してくれたから、私はピアノに戻ってこられた。
昔習った教本を最初から弾く。やはり運指はスムーズでないし、リズム感もない。でも、これが私の音なんだ。そんな風にして今、私はピアノに救われている。
今のもう一つの私の救い。
それは駅にあるストリートピアノだ。
私は今、福祉施設に通いながら、再就職を目指している。朝の九時に家を出て、午後三時に帰宅する。その生活リズムの中に、ストリートピアノを入れた。
週一回、その時に弾きたい曲を演奏する。
人に聴かせられるレベルじゃない。あくまで、自己満足だ。それでも、私は弾く。これからもずっと……
今週も、よろしくお願いします。