第二話 居場所
施術用のベッドから起き上がると、腰の痛みはだいぶん楽になっていた。来週の同じ時間に予約をとって整骨院を出る。
「お大事にー」
という先生の声が背後から聞こえた。
パートを始めてから腰痛持ちになった。下の息子も大学生になったし、私、園田瑛子は、もう自分の役目は終わったと思っている。
自分のやりたいことをやる。そう考えた時に、二つの選択肢が頭に浮かんだ。一つはパート。もう一つは習い事。
私は結婚後、専業主婦になった。たまに期間限定のパートに出ることはあったけれど、ありがたいことに夫の収入だけでやりくりができた。
だから、一度、長期でのパートがしてみたかったのだ。
そして、習い事の方だが、小さい頃、私はピアノを習っていた。当時ピアノは今以上に高価なものだっただろう。小学校入学と同時に近所のピアノ教室に通い始め、高校生まで続けていた。
手前味噌だけれど、そこそこ上手だと思う。それなりの曲は練習すれば、今でも弾けるだろう。
だから、もう一度ピアノを習ってみようかなと思ったのだ。とはいえ、我が家にピアノはないし、実家のピアノも長らく調律をしていなくて、恐らく演奏できないだろう。
という消去法のような考え方で、パートを始めようと決意したのだった。
♫♬♫ ♫♬♫
パートをしているのは、家から歩いて十五分程の場所にある惣菜店。〝お母ちゃんの手作り〟を売りにしている。私は厨房ではなく、レジ担当。レジ担当と言っても、お金を扱うだけではなく、弁当に入れるご飯をよそったり、味噌汁の注文が入るとそれを容器に入れたり、といろいろ仕事はある。
慣れるまではこのマルチタスクがきつかったけれど、今ではご飯のグラム数にまで気を回し、「少し多めですが大丈夫ですか?」「少量はこれくらいでよろしいですか?」と、お客様に訊けるようにもなった。
だから、パートは楽しい。そして、私は運よくもう一つのやってみたかったことも、叶えることができた。
パート先に向かう途中、地下鉄に続く地下通路を通る。その途中にピアノがあるのを見つけたのだ。この街の市長は、代々音楽に力を入れているらしく、駅や商業施設にストリートピアノを設置することに心血を注いでいるという記事を新聞で目にしたことがある。
通路の途中にある広場に、ピアノは設置されている。ピアノの横には折りたたみ式の看板が立てられていて、そこには『八幡幼稚園より移設されたピアノです』と書いてある。
ピアノを弾いている人を見たことがない。でも、ストリートピアノなのだから、誰が弾いても構わないだろう。何度かピアノを横目に通り過ぎていたのだけれど、ある日、思い切って弾いてみることにした。
♫♬♫ ♫♬♫
学校からの帰り道、地下鉄を降りて通路を歩いていると、軽やかな音が聞こえた。通路にBGMを流すようになったのか? と首を傾げながら歩く。
すると音は段々大きくなってきた。私は音のする方に早足で向かう。音の主はピアノだった。
地下通路に設置されているピアノ。ストリートピアノというらしい。そのピアノの前に一人の女性が座っていた。年齢は母より少し上、五十代に見える。
音楽の時間に習った曲だ。確かバッハのメヌエット。ゆっくりとしたテンポで柔らかい音が響く。目を瞑ると音に抱きしめられているようだった。
「ふぅ」
声が漏れる。さっきまで喉が塞がっていたのに。
家に着くまでに声が漏れるなんて、いつぶりだろう。
私は家から一歩外に出ると、全く声が出なくなる。声自体が自分の体から、すーっと消えてしまうのだ。
学校の先生から連絡を受けた両親は「嘘でしょう」と、最初は信じなかった。家では普通に喋れるから。でも、繰り返し先生から連絡が来るので、私は病院に連れて行かれた。
そして、場面緘黙(今は選択制緘黙、という名称が用いられているらしい)と言われた。ある特定の場所で声が出なくなるのだそうだ。中には体を動かすことも瞬きもままならいことも起きるらしい。
学校でトイレに行けなかったり、給食を食べられなかったり、学校生活が困難な症例もあるという。
私の場合は緊張するけれど、トイレには行けるし、弁当も食べられる。まだ、マシなんだと言い聞かせている。
でも、声を出せないのは辛い。
いつから声が出なくなったのか、思い出したくない。
♫♬♫ ♫♬♫
パートの帰り道にピアノを弾くのが日課になった頃、いつも演奏を聴いてくれる子がいることに気づいた。見たことのない制服だから、高校生だろう。
セミロングの髪は若干癖毛のようで、毛先がくるんとカールしている。黒目がちだからか、年齢より幼く見える。私が演奏を終えると、そっと立ち去る。
だから、女の子がいるか確認するのも日課になった。今日も所定の位置にいる。それを確認してからピアノの前の椅子に座る。
楽譜を鞄から出す。演奏するのは、とある卒業ソング。10月の今には相応しくない気もするけれど。
私がこの曲を初めて聴いたのは、息子の卒業式でだった。メロディーが切なくそれでいて美しく、私は一瞬でその歌の虜になった。息子に曲名を教えてもらい、近所の本屋で楽譜を見つけ、購入したのだった。
イントロの部分で早くも胸を打たれる。やっぱりいい曲だと思う。サビの部分に近づいた時、何気なく女の子に目をやった。
唇が動いているのがわかった。残念ながら声までは聞こえない。そして、その表情が気になった。喜怒哀楽が抜け落ちたようだったのだ。
最後の音を弾き終えるまで、彼女をちらちら見やった。その表情は最後まで変わらなかった。そして、音がやむや否や、彼女はピアノの側を離れた。
♫♬♫ ♫♬♫
ピアノの音が鳴った時、この曲、知ってると思った。大好きな曲だ。中学3年生の時、合唱コンクールで歌った。ピアノ伴奏をした山中さんの音も好きだった。
あの頃は学校でも声が出ていた。みんなと声を合わせて歌うことができた。
高校受験を控えた頃から、たまに喉の調子が悪いなと思うことがあった。詰まるように感じたり、塞がるように感じたり。勉強で忙しいから疲れているんだろうと思った。
私が進学したのは家から一時間半はかかる場所にある、有数の進学校だ。昔からそれなりに勉強はできた。両親は官公庁に勤めている。
だから「絵凪ちゃんも、お父さんとお母さんに似て優秀だね。将来が楽しみだ」と、近所の人や親戚から言われ続けて育った。
私は自分に――頑張ること を課した。
いつでも死にものぐるいで頑張った。
念願の高校に入学したら、周りはみんな天才に思えた。自分が場違いに思えるようになった。喉が塞がる日が増え、声を出したくても出なくなった。
♫♬♫ ♫♬♫
彼女が歌う姿が脳裏に焼きついた。
彼女の歌う姿を確認したくて、毎回あの合唱曲を弾いた。歌が始まるとやはり小さい唇は動く。でも、表情は無だ。
彼女が何か抱えているようで気になった。でも、お節介を焼くのは嫌がられるような気がした。しかし、放っておいていいとも思えなかった。
何度も考えて、この日、思い切って彼女に声をかけた。
「ちょっと待って」
ピアノに背中を向け、立ち去ろうとした足が止まる。
「あの……いつも聴いてくれて、ありがとう」
自分の声がどこか頼りない。彼女はこちらに振り向きながら
「いえ……」とピアニッシモのような声で言った。それと同時に、信じられないことが起きたとでも言うように、目を丸くし、喉に手をやった。
中野絵凪。そう彼女は名乗った。高校二年生。下の息子と二歳しか違わないのに、随分幼く思えた。娘がいたらこんな感じかと勝手に想像をする。
絵凪ちゃんの手には私が自販機で買って渡した、ペットボトルのお茶が握られている。
少し前の絵凪ちゃんの様子が、普通ではなかったので、落ち着けるようにと、すぐそこの自販機で買ったものだった。
「……ありがと、ございます」
と今にも消えそうな声で言い、二口程それを飲んだ。
そして、今、ピアノの前にあるベンチに並んで座っている。
絵凪ちゃんが何か口にするまで待とうと思った。もし、このまま無言で帰って行っても、それならそれでいいと思っていた。
「私、普段、外で、喋れない、んです」
不意にそう口を開いた。一言一言区切るように言った。
♫♬♫ ♫♬♫
『私、普段、外で、喋れない、んです』
声にならないだろうなと思っていたのに、声が出た。自分の声だとは信じられなかった。両親と話す時の声とは違い無機質な声色だった。
女の人は園田さんといった。この近くのお惣菜屋さんで働いていて、昔、ピアノを習っていたと教えてくれた。
私は園田さんに訊かれ名前と高校二年生であることを伝えた。外で喋れないと話しても、園田さんは深く追求しなかった。そんな振る舞いをする大人は初めてだった。
私が外で喋られないことを知ると、「どうして?」と必ず訊かれる。私にだってはっきりした原因がわからない。
強いて言うなら、初めて病院に行った日、先生に言われた
―― 不安になりやすい 緊張しやすい
といった生物学的要因がベースになっていることが多い。ということだ。
「私、ここでピアノを弾くのが、日課になっちゃって」
からりとした笑いを含んだ声で園田さんが言う。
「また、聴いたり歌ったりしてくれる?」
慈愛に満ちた目を向けられる。
この人がお母さんだったら……私は違ったのかもしれない。
♫♬♫ ♫♬♫
私の『また、聴いたり歌ったりしてくれる?』という問いかけに、絵凪ちゃんは黙って頷いた。そして、立ち上がり一礼すると、地上に出る階段の方へと向かって歩いて行った。
外で喋れない――そう教えてくれた絵凪ちゃん。
どれほど苦しいだろう。きっと重いものを抱えている。でも、赤の他人である私が絵凪ちゃんの人生に直接関わることはできない。
私が弾くピアノによって絵凪ちゃんの声が惹き出せるのなら、そして、そのことが絵凪ちゃんの気持ちを一時でも楽にするのなら。それで十分だ。
絵凪ちゃんと出会って季節が一つ過ぎた。
来週にはクリスマスを迎える。今年が終わる。
ピアノの横に絵凪ちゃんが立ち、私の伴奏に合わせて歌う。まだ、表情は固いし声量も弱いけれど、声色が豊かになってきた。素人の目と耳でもわかるほどに。
「いつも、ありがとう。あの、メリー、クリスマス」
ピアノの蓋を閉めていると絵凪ちゃんはそう言って、何かを私に差し出した。
それは小さな編みぐるみの黄色いくまのキーホルダーだった。
「絵凪ちゃんが作ったの?」
訊くと照れたように頷く。「ありがとう」と言って受け取り、早速、トートバックの持ち手につけた。白いトートバッグに黄色いくまは映えた。
「学校で、出席とかとる時、返事、できるようになった」
黄色いくまを見つめていると、絵凪ちゃんの声が耳に届いた。驚いて顔を上げる。
「そう。そっかぁ〜」
「すごい!」とか「頑張ったのね」とか、そんな言葉を絵凪ちゃんは求めていないと思った。口元を緩め僅かに笑顔になった。
「また、来年もよろしくね」
私がそう言うと絵凪ちゃんは「こちらこそ……」と言ってくれた。手を振ると振り返してくれる。そして、くるりと向きを変え歩き始めた。
その背中を見ながら、絵凪ちゃんは大丈夫だ、と確信に近い気持ちになる。私のそばに佇むピアノに触れる。
――ありがとう
絵凪ちゃんとピアノに向かって、そう思った。