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街角、ピアノ  作者: はやはや
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第一話 届け

 私は学校からの帰り道、遠回りをして帰ることがある。本当は決められた通学路を通らなければならないのだけれど。

 道を一本渡ると、地下鉄へと繋がる地下通路の入り口がある。その階段を降りて、百メートルほど歩くと、ベンチが円を描くように置かれている広場がある。


 灰色のタイル張りの壁、床で殺風景な広場の真ん中に、一つだけ色がある。艶やかな黒色をしたグランドピアノ。

 それはストリートピアノだった。


 近くにある幼稚園がなくなった時に、この場所に移されたものらしかった。

 鍵盤は黄ばんでいて、ひびが入っているような傷さえある。でも、このピアノはこれまでに数え切れない音を鳴らし、子ども達に寄り添ってきたのだろう、と思うと胸がきゅっとした。


 私は篠原紗由理しのはらさゆり。この近くの公立中学に通う、一年生。今年の三月に父の転勤で、この街に引っ越してきた。


 小学校六年間、大手のピアノ教室に通っていた。そこではコンクールに出たり、ピアノ教室が主催するオリジナルコンサートで、私の作曲した曲が賞を獲ったりと才能の片鱗を見せていた。

 でも、新しい家が狭く、ピアノが置けなくなったことでピアノをやめた。先生は残念がっていたし、私もピアノを続けたかったけれど仕方ない。


 でも、ピアノは好きだから、このストリートピアノを見つけて以来、頻繁に弾いている。

 蓋を開けると見慣れた黄ばんだ鍵盤が、私を見て笑顔を見せたような気がした。



♫♬♫ ♫♬♫


 私が弾くのは自作の曲だ。もちろんクラシックも好き。でも、自分の頭の中で流れる音を、実際にピアノで弾く方が好きだった。

 将来はシンガーソングライターとまではいかなくても、音楽を作ったり編曲したりする仕事に就きたいと思っている。


 家にはピアノがないから、頭の中の音を五線譜に書く。そして、それをストリートピアノで演奏するのだ。

 頭の中で流れていた通りの音楽になる時もあれば、実際に音にすると、なんか違う、変、と思うこともある。それが楽しい。


 時々、私の演奏を立ち止まって聴いてくれる人がいる。拍手をもらうと、私を受け入れてもらえたような安心感とくすぐったさを覚える。


 そんな人の中に、ある人を見つけた。

 男の子。いつも円形に並んだベンチの、一番ピアノに近いところに座っている。

 私は彼のことを知っている。同じ中学。しかも同じクラスなのだ。名前は確か、楠本くすもと君。


 学校での楠本君は寡黙で誰とも喋らない。

 私と同じように中学入学に合わせて、この街に引っ越してきたようだった。


 何度か席替えをしたけれど、楠本君の席は、いつも教卓の前だった。そこから動いたことがない。何かしら理由があるのだろうけれど、誰もその理由を知らないと思う。


 楠本君の周りには、透明の膜が張ってあるように感じる。壁ほど強固なものではなく、膜というような柔らかな何か。蝶々の蛹にも似ている。


 誰とも喋らない、関わろうとしない楠本君。

 でも、からかわれたり、いじめの標的にはならない。そういう次元とは違う世界で生きているように見える。

 そんな彼がいつもピアノの側にいる。それが不思議だし、何か縁のようなものを感じた。



♫♬♫ ♫♬♫



 目の前でピアノに向かう女子に目を向ける。その音は途切れ途切れに聴こえる。それは彼女の演奏技術の問題ではなく、僕に問題がある。


 ピアノの前に座っている彼女が、同じクラスの子だと気づいた時は驚いた。名前はわからない。

 この上なく幸せそうな、嬉しそうな表情で彼女はピアノを弾く。それを見ていると幸せのお裾分けをしてもらったような気持ちになる。

 だから、通院の時はあえてこのピアノが置かれている広場を通るようにしている。


 僕、楠本真魚斗くすもとまなとは、難聴を抱えている。伝音難聴というらしい。両耳の耳小骨という小さな骨に先天的な奇形があり、手術を受けたものの、僕の場合は改善が難しかった。


 ずっと耳が詰まっている感じだ。大きな音は聞こえるものの、通常の音が聞こえにくい。低音になるとその障害が目立つ。


 人の唇の動きを読めば、だいたい言われていることは理解できる。だから、学校では先生の唇の動きが、確実に読める教卓の前が僕の定位置だ。

 何度か席替えをしたけれど、僕の席は変わらないので、クラスメイトは不思議に思っただろう。もしかしたら、僕の知らないところで変な噂や悪口を言われているかもしれない。


 先生からも耳のことを、みんなに説明しようかと提案されたけれど、僕は断った。守秘義務があるからか、先生もそれ以上、何も言ってこなかった。


 僕は中学入学を機に転校してきた。

 それは新しい人生を始めるためだった。


 小学生の頃、僕はいじめられていた。何ごともないふりをして流したり、無視すればいいような些細なことが、当時の僕には屈辱だった。


 僕の話し方は特徴がある。くぐもったような、あやふやな喋り方になる。それを同じクラスのお調子者に真似されたのだ。

 みんなも「おもしれー」とか「もう一回やって」と言って笑っていた。僕が聞き間違えると、これ見よがしに、ぐぃっと顔を近づけて、唇の動きを読ませる奴もいた。


 僕はだんだん喋れなくなり、学校にも行けなくなったのだった。


 だから、中学に入ったら自分を守ろうと決めた。

 誰とも関わらない。そうすれば、傷つかずに済む。



♫♬♫ ♫♬♫


――今日の演奏は今一つだったな


 そう思いながらピアノの蓋を閉める。どこをどんな風に変えれば良くなるか考えながら、ピアノを弾いていた。

 こっちの音の方が、しっくりくるかな? と思う箇所がいくつかあったから、帰ったら五線譜を書き直そう。


 ふとベンチに目を向けると、楠本君が目に入った。短めに切られた髪をきちんと整え、制服のシャツのボタンをぴしっと一番上まで閉めている。


「楠本君、だよね?」


 私がそう声をかけると彼はじっと私の口の辺りを見た。そして、こくりと頷いた。


 今までで一番近くで楠本君の顔を見た。奥二重の瞳の右目の下に小さな泣きぼくろがあることに気づく。

 立ったまま話すのは、見下ろすようになって嫌だったので、「ここ、いい?」とベンチの隣を指差した。彼は再びこくりと頷いた。


 隣に座ったものの、どう会話を切り出していいかわからない。すると


「ひあの ふまいね」


 と妙なイントネーションの言葉が聞こえた。でも、可愛らしい声だった。それが楠本君の声だとわかるまで、しばらく時間を要した。


「ありがと……」


 独特な喋り方が気になりながらも、そう返した。しばらくの沈黙の後、再び楠本君が口を開いた。


「みみ、ひほえにくいんあ」


〝耳、聞こえにくいんだ〟 そう言ったのだとわかるまで、やはり少し時間を要した。


「そうなんだね」


 何て言っていいかわからず、簡素な言葉を返してしまう。そんな私を見て楠本君は気を悪くする風ではなく、逆に少し微笑んだように見えた。


「しゃあ」


 じゃあ―― そう言って楠本君は立ち上がった。


 そして地下鉄の出口の方へと向かって歩いて行った。



♫♬♫ ♫♬♫


 病院に向かいながら、さっきの会話を思い出す。


『耳、聞こえにくいんだ』


 僕は自分からそう話した。そんなこと今までにあっただろうか。僕の喋り方を聞いて、事情を訊かれた時に耳のことを話すことはあっても、何も聞かれていないのに自分から話すなんて。


 そもそも『ピアノうまいね』と、自分から話しかけたことにも驚いている。

 彼女なら馬鹿にしたり変に気を使ったりしないだろうと思ったのだ。あんなに幸せそうに、嬉しそうにピアノを弾くのだから。

 そして、それは間違いじゃなかった。


『耳、聞こえにくいんだ』

『そうなんだね』


 僕のあるがままを受け入れてもらった気がした。

『大変だね』なんて、簡単にわかったような気になる言葉を言わないでくれた。それが嬉しい。


 肩につくくらいの長さの髪を揺らしながら、ピアノを弾く彼女。顔のパーツが真ん中により気味だけど、目も鼻も口も、どれも綺麗な形をしていた。


 誰かと話す時は、唇の動きに集中するので、顔のパーツなんて印象に残らない。それなのに、彼女の目、鼻の形は思い出せた。


 遠足に持って行くお菓子を買った後のように、胸が弾んでいる。


 彼女のことを知りたい、と思った。



♫♬♫ ♫♬♫


 学校での楠本君は、やはり誰とも喋らない。

 でも、ふと顔を合わせた時に、微笑んでくれているように見える。そんな表情を見ると、楠本君と親しくなれそうな気がする。


 毎週水曜日、通院していると楠本君は教えてくれた。

 私のピアノを聴いて、少しだけ会話して別れる。それが私達二人の時間の過ごし方だった。


 楠本君の話し方にも、その言葉を聞き取ることにも慣れた。少しずつスムーズに会話ができるようになってきている。


「しおはらさん」


 と楠本君は名前を呼んでくれるようになった。

 私のピアノの音は一部聞き取れないこと、低い音が特にそうであることを楠本君は、一生懸命、話してくれた。


 そして、私が幸せそうに嬉しそうにピアノを弾く表情が好きだと言ってくれた。そんな風に言ってもらえて、とても嬉しかった。私がピアノを好きなことが、楠本君には、きちんと伝わっている。


「せんぶのおと、ひこえはら ひいのに」

――全部の音、聴こえたらいいのに


 最後に楠本君はそう言った。

 それを聞いて、私も楠本君に、自分の音を全て届けることができたらいいのにと思った。


「またね」

 

 と言葉を交わして互いに背を向ける。一歩一歩歩く度に、楠本君が遠ざかる気配がした。

 階段を上り切ると、地上の明るさが目に入った。その時、私はあることを思いついた。



♫♬♫ ♫♬♫


『全部の音、聴こえたらいいのに』


 恥ずかしいことを言ってしまった。篠原さんに引かれたんじゃないか、なんて今頃になって心配になる。


 彼女のピアノを聴いた後に、僕達は少しだけ喋る。それを繰り返すうちに、彼女を篠原さんと呼べるようになった。篠原さんと話していると、心が落ち着いて本音がぽろりと出てしまう。


 全部の音、聴こえたらいいのに―― その言葉も自然に口から出ていた。


 水の中からピアノ音を聴いているように、僕には聞こえる。輪郭がはっきりしない音なのに、それが心地のいい音だとわかる。

 はっきり聴こえたなら、どんなに心を揺さぶるだろう。もしかしたら、涙も出てしまうかもしれない。


 僕は音楽を聴くことは、好きではなかった。流行りのアーティストの曲は聴かない。歌詞がわからないから。

 歌詞が聞こえない自分を惨めに思うのが嫌で、そもそも音楽に興味を持たないようにしていた。


 それが篠原さんに出会った変わった。僕が音楽を聴いてもいい、そう思わせてくれたのだ。篠原さんが弾くのは、クラシックではない。僕が知らない、最近の流行りの曲なのだろうか……

 それでも拒否感は生まれなかった。ずっと聴いていたくて、僕はピアノに一番近い位置にあるベンチに座る。


 空気を振動させて、僕の耳まで届け! と念じながら、篠原さんの演奏を聴いている。



♫♬♫ ♫♬♫


 家に帰ると私はクローゼットの中から、一つの段ボール箱を引っ張り出した。その中にはピアノの教本やメトロノーム、コンクールやコンサートでもらった賞状が入っていた。


 この中のどこかにあるはず、そう思いながら私は箱の中身を一つ一つ出す。そして見つけた。ピアノ教室に通っていた頃に買った五線譜のノート。

 水色の表紙には音符を抱っこした、コアラの絵が描かれている。ページを捲ると、辿々しい文字で曲名が書いてあった。


――森に吹く風


 三年前。ピアノ教室が主催する、オリジナルコンサートで初めて優秀賞をもらった曲。私が作曲したものだ。

 オリジナルコンサートは二年に一回開かれ、私は三回出場した。二回目に出場した小学四年生の時、〝森に吹く風〟を演奏した。


 この曲は題名にもある風という言葉の通り、頭の中をふーっと風が吹くようにメロディが流れてきたのだ。本当に風に乗って、音が私の頭の中に届いたようだった。


 すごく好きな曲だったのに、最近は弾かなかった。それが、楠本君にピアノを聴いてもらううちに、この曲のことを思い出した。

 風に乗るようにして生まれたメロディだから、楠本君にも届くんじゃないかと思ったのだ。

――彼が聴きやすい音程に転調すれば


 私は早速、五線譜の新しいページに、楠本君に届けたい音をつけ始めた。



♫♬♫ ♫♬♫


 篠原さんはピアノの前に座ると、一度、僕の方を見た。口角を上げて笑顔を見せると頷いた。その様子を見て、僕に何か伝えたいのだと思った。言葉ではない方法で。


 篠原さんの指が鍵盤の上で動く。いつもは途切れ途切れに聞こえる音が、今日は連なって聴こえた。ちゃんと聴こえたのだ。

 とはいえ僕のちゃんと聴こえるは、他の人の聴こえるより、ぼんやりした音だろう。それでも、今までで一番、耳が反応したと思った。


 メロディの風が吹く。

 あぁ、ずっと聴いていたいと思った。

 優しい音。


 篠原さんはピアノを弾きながら、僕の方をちらりと見た。そして、また笑った。僕に音が届いているのが、わかったのだろう。



「あいあと」


 ピアノの演奏を終え、僕の隣に座った篠原さんに言う。

「どういたしまして」と彼女の唇が動く。

 僕は生まれて初めて幸せな気分になった。



♫♬♫ ♫♬♫


 ピアノを弾きながら楠本君を見ると、驚いたような表情をしていた。きっと、ぼんやりとしていても、全部の音が聴こえているのだろう。


 私は今までで一番、心を込めて演奏した。傲慢かもしれないけれど、楠本君の幸せを願うような気持ちだった。


『あいあと』 ――ありがと


 楠本君はそう言ってくれた。

 その言葉は何より嬉しかった。私のピアノ演奏が誰かにきちんと届いた証拠だった。


 楠本君と私。

 同じクラスの子は誰も知らない。私達がピアノを通じて親しくなっていることを。


 やっぱり音楽って素敵だ。


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