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受付に要件を告げ、一通の手紙を差し出すと、それを受け取った女性は訝しげな表情で奥へと引っ込んでいった。若い女が団長に何の用だと思われているのだろう。
五分ほど経ったのちに、建物の中央にあった階段から足早に人が降りてきて、その顔に浮かんだ満面の笑みにリフィスも自然とほほ笑んだ。
「マリオット嬢!」
騎士団長であるメルヴィン・サルビアは、階段の最後の段を三つくらいすっ飛ばして、リフィスのもとへとやって来る。
「よく来た! たった今手紙を読んで、飛び上がっていたところだ。たった一人でここまでやって来たんだろう、怪我はないか? 疲れてはいるか」
「怪我はありませんが、確かに少し疲れました。ここに来るまでの間、たくさん道に迷ったんです。先ほど騎士団見習いの方に助けていただいて、無事来られました」
「そうか、それはよかった。――ここじゃ落ち着いて話せないから、応接室に行こう」
受付の横にある部屋に入り、熱々のコーヒーが運ばれてきてから、「さて」とメルヴィンが改まったように言った。
「疲れているだろうから、今日は必要なことだけを手短に話そう。君の父上からの手紙はもう読んだ」
先ほど受付の女性に手渡し、メルヴィンに渡った手紙は、リフィスの父ジョン・マリオットが書いたものだった。娘が一人で国外に出るのだから、無事に生活が送れるよう配慮をしてくれたのだ。
メルヴィンはエルドナ国の王国騎士団の団長。ジョンはシュタンフェーゼ王国の王国専属魔法使いの隊長。国家間の交流がある度に両者は顔を合わせていて、周知の間柄であった。そしてリフィスも、五年前にメルヴィンがシュタンフェーゼ王国に大統領の護衛としてやって来た際に顔を合わせている。一度屋敷に呼んで、会食をしたこともある。
「あまり詳しく書かれていなかったが、国外追放になったいきさつを聞いてもいいか?」
「国王陛下から、結婚を下賜されたんですがお断りをしたんです。そのために、国王陛下に不敬の罪を働いたとして、国外追放に」
「随分と思い切ったことをしたもんだな」
そう言いながら、メルヴィンの口元が笑っている。彼が豪気で、何でも笑い飛ばす快活な性格をしていることはよく知っているから、リフィスも少し自嘲気味にほほ笑んだ。
「よっぽど結婚したくない相手だったのか?」
「いえ、お相手の方には何の文句もありません。ただ、一度もお会いしたことがない方で……好きでもない方と結婚するのは、難しいと思ったんです」
さらにメルヴィンが笑う。
「それは実にあっぱれなことだな。確かに好きでもない相手とは結婚したくないだろう。でも、マリオット嬢の身分からすると、すごく勇気がいることだな。でも、こうやってわざわざ手紙を書くくらいだ、マリオット氏は怒らなかったのか?」
「最終的には認めてくださいました」
不敬罪で国外追放が決まり家を出立するまで、わずか二日間だった。その間、ユフィスは泣きわめいて大変だったが、ジョンは旅の準備を何から何まで手伝ってくれた。もしかしたら、リフィスに対して何かしらの罪悪感があったのかもしれない。
「ですが、私のわがままのせいで、メルヴィン団長にご迷惑をおかけすることになりました。来る途中、自分一人で生きていける道があればそうしようと思ったのですが、魔法しか取り柄がないので、上手くいかないことも多くて」
「魔法しか、か! わはは! そんなセリフを言ってみたいものだな」
しかしリフィスは本当にそうだと思っている。今まで学んできたものは、王国専属魔法使いになるためには必要なものだったが、一人で生活するには便利なものではなかった。身の回りのことはすべて家のメイド達がやってくれていたので、旅に出てからどうやって衣服を洗えばいいかさえ、リフィスはわからなかったのだ。
試行錯誤した挙句、お金を払えば何でも解決することに気づき、困ったことがあればすべて他人に任せるという術で乗り切った。出発する前に、いずれ渡すつもりだったと両親が結婚資金をくれたおかげで、リフィスの持ち金は十分にあるのは幸いだった。
「マリオット氏からの手紙には、君に安全な住居と職を与えてほしいと書いてあった。私も最大限その援助をしたいと思う。実は一つ当てがあるんだが――いや、どうなるかわからないから、ちゃんと決まってから言おう。当分の間は、私の屋敷にいてくれて構わない。一年前に娘も結婚して家から出ていって、妻も寂しがっていたところだ」
至れり尽くせりのメルヴィンに、リフィスは深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます。仕事が決まるまで、私にできることをしっかりと務めさせていただきます」
その後は、メルヴィンの部下に連れられて、彼の屋敷まで送り届けられた。妻であるエリス・メルヴィンは突然の来訪に驚いたはずだが、そんなそぶりはまったく見せず、明るい表情でリフィスを受け入れてくれた。
「あの人が突然お客様を招き入れるのは今に始まったことではないのよ。うふふ、今回はかわいらしいお嬢さんがいらっしゃってくれて、とっても嬉しいわ。大抵騎士団員候補の、お世辞にもスマートとは言い難い男性ばかり連れてくるから」
エリスの言葉に、リフィスはほほ笑む。メルヴィンらしいふるまいだが、彼女も気さくであけすけな性格をしているようだ。これならば、あまり気を遣わなくてもよいかもしれないと安心した。
○
メルヴィンの『当て』とは、王国騎士団の養成学校での仕事だった。
ちょうど医務室に勤めていた魔法使いが、もう歳だから退職したいと申し出ており、医療魔法を使える魔法使いを探していたところだったという。
医療魔法は、魔法の中でも高等魔法に位置する難しいもので、魔法使いがそもそも少ないエルドナ国で扱える者を見つけるのは非常に苦労していたらしい。面接にこぎつけても、十分なレベルに達しておらず、不合格とせざるを得なかったようだ。
「退職したいと言われたのは半年以上前だったからな。もうさすがに見つかっていたと思っていたら、まだだったそうで、リフィス君のことを話したらぜひと言われた。なにせ、シュタンフェーゼ王国の王国専属魔法使いの筆頭医務官なんだからな。むしろ役不足と言った方が正しいかもしれない」
リフィスは恐縮する。筆頭医務官といっても、親の七光りで得たものと揶揄され続けた地位だ。
職場が騎士団の養成学校になったため、そのままメルヴィンの屋敷に住んで通ってもよいと言われたが、もう少し自立した生活を送るべきだとして、丁重に断った。
その結果、リフィスは養成学校の教職員の寮に住まわせてもらえることになった。食堂が開いているときは、そこでご飯を食べることもでき、洗濯もお金を払えば一週間に一度回収にも来てくれるとのことで、想像していた一人暮らしとは少し違うが、これならリフィスにも何とか生活できそうである。
労働契約書を交わした後は、メルヴィンが自ら養成学校の内部を案内してくれた。女性の数よりも、圧倒的に男性の数の方が多い組織であるため、メルヴィンに連れられて歩くリフィスの姿は物珍しく映ったらしい。行き交う人々の視線を感じながら歩き回ることになった。
「養成学校には、三年に一回入学試験が設けられて、そこで合格した者だけが入学を許される。素質のある者はすべて入学をさせるから、合格者の人数は年によって様々だな。在学期間も人によって違うが、最大六年間と決まっていて、それを超えても王国騎士団への入団が認められない者は、王国騎士団の下部組織である王国警備隊に行くか、別の道を歩むかする」
リフィスがいた王国専属魔法使いも魔法学校を出てなるのが一般的だから、王国騎士団とよく似ている。
建物の端にある武道場へと差し掛かると、熱気に包まれたそこには多くの学生たちがいて、木でできた剣や槍を振り回しながら、お互いに取り組みをしたり、藁でできた人型の人形相手に鍛錬をしたりしている。
「――ゲホッ、ゴホッ……すみません」
汗臭さと、生乾きの服や夏の雨上がりの土の臭い――といったような、生暖かいもわっとした臭いに、リフィスは耐え切れず咳き込んだ。嗚咽も出そうになるのを必死に堪えている様子に、メルヴィンは大笑いをする。
「わはは、リフィス君には臭いか! そりゃそうだ、ここには長年の汗が染みこみまくっているからな。臭くて当然、実は私も久しぶりに来たら臭くてかなわん」
「すみません――ご無礼を――ゲホッ」
「大丈夫と言いたいところだが、仕事的にここにも来ることは多いだろうから、頑張って慣れるしかないな。口で息をすればちょっとマシになる。あと、風の通りのいいところならまだましだ」
そう言って、メルヴィンはリフィスを風が当たるところまで数歩下がらせた。
「今は剣術と槍術の訓練中かな。こういった授業で怪我人が出るから、医務室に魔法使いが必要なんだ。――あそこにいる男を紹介しよう。この養成学校を歴代最速で卒業し、王国騎士団に入った男だ」
メルヴィンは奥にいた背の高い男に声をかけた。男は学生たちにそのまま訓練を続けるように言うと、駆け足でこちらにやって来る。
二メートルはありそうな長身だった。肌はやや浅黒く、光の加減によっては銀色に見える長い黒髪を後ろで束ねている。バランスよく鍛えられた体は、遠くからだと細身に見えたが、近くに寄るとがっしりとした筋肉の威圧感があった。
「彼がロシュフォール・グリード、王国騎士団で最も強く、倒した魔獣の数は教員に転身した今でも破られていない。――ロシュ、彼女はリフィス・マリオット君だ。新しい医務室の魔法使いになった」
ロシュフォールは小さく頭を下げ、リフィスはそれよりも深く頭を下げた。
「やっと交代ですか。最近生徒の傷の治りが遅すぎて、授業になりませんでした。彼女は随分と若いですが、医療魔法の経験が?」
冷たい言い方だ。整った顔立ちだが、眼光が鋭く、薄い唇の端は一度も上がったことがないと思えるほど真横に結ばれている。
「リフィス君以上の適任はいないと言っても過言ではないぞ。私が保証する」
笑顔のメルヴィンだが、ロシュフォールは言葉だけでは信じないことにしたらしい。
「生徒の傷さえ治ればそれでいいです。――そこ、真面目にやれ!」
突然大声を上げて持っていた木剣を投げつけたので、リフィスはびくりと飛び上がった。まるで後ろに目でもついていたかのような動きである。木剣は刃がついていないのにも関わらず、壁に突き刺さった。ふざけていたと思われる生徒の顔の十センチほど横だ。
「ロシュ、邪魔して悪かったな」
メルヴィンは何事もなかったかのようにそう言って、リフィスを次の場所へと促した。ロシュフォールはメルヴィンに敬礼をすると、すぐさま「連帯責任で校庭百周!」という恐ろしい命令をして、武道場の中へと消えていった。すぐに、大量の生徒たちがわらわらと入口から出てきて校庭へと走って行く。
「はは、厳しいだろ? でもあいつのおかげで、ここ数年の卒業生の質が上がっている」
「さっきの剣の刺さり方、驚きました。騎士団の方はみなさんああいったことができるんですか?」
「まさか! あんな芸当ができるのはわずかだ。ロシュフォールはレイコンだからな。体格も良ければ腕っぷしも強い。レイコンは聞いたことがあるか?」
「ええ、確か少数民族の」
「そうだ。南方に住む少数民族だ。騎士団や養成学校にも何人かレイコンがいるが、肌が我々と違うからすぐわかるだろう」
ロシュフォールの浅黒い肌は、レイコン特有のものだったということだ。今まで会ったことがないが、あの身体能力には驚かされる。騎士団の中で最も強いと言われるのも納得だ。
「打ち解けるまで時間がかかるかもしれないが、ロシュはあれはあれでいい奴なんだ。責任感も強くて、真面目な男だ。最初は大目に見て、根気強く接してやってほしい」
メルヴィンはロシュフォールと同じ部隊で魔獣討伐をしていたらしい。一緒に命をかけて戦ってきたのであれば、彼の言葉が思いやりにあふれているのも納得である。
それから一通り校舎を案内され、何人かの教職員にも挨拶を済ませた。こんなにも丁寧に案内する時間を割いてくれるなんて、と思っていたら、最後の最後にメルヴィンは今日休日だったことを知った。
「わはは、いいんだ。私も久々に養成学校を見て回れて楽しかった。いろいろ気づきもあったしな」
「貴重な機会をありがとうございます。メルヴィン団長がいてくださったので、みなさんの雰囲気もよくわかりました」
「いい印象を抱いてくれたのならいいんだが。――それはそうと、今日はうちで夜ご飯を食べよう。そのつもりでエリスにも用意をしておくよう言っておいた」
リフィスは笑顔でお礼を言う。今日から寮で一人きりの生活が始まることに、少し不安を感じていたところだった。