エピローグ(2)
ヴィンセントの部屋から出たリフィスは、一緒に出てきた彼の従者ドミニクの冷ややかな視線に気づかないわけにはいかなかった。
「わかっていますね?」
ただ一言そう言うと、リフィスの返事を待つように小さく首を右に傾ける。
三年前――ヴィンセントが王太子になって以来、ドミニクの皺が刻まれかけた目じりが下がったことは一度もない。ヴィンセントの教育係として常にそばに仕える彼は、明らかにリフィスをヴィンセントから遠ざけたいと思っている。
「私は殿下に呼ばれたのでこちらに参ったのです。呼ばれたのに来ないのは、不敬ではありませんか?」
「承知していますよ。念のための確認です」
ドミニクは国王陛下から遣わされた従者だ。つまりは、彼の行動や言動は、国王陛下の意思が反映されていると考えるのが普通だ。
「まあじきに、それも必要なくなるでしょうが」
何が含められた言い方に、リフィスはドミニクを仰ぎ見た。
ヴィンセントもそろそろ将来の王妃となる妻を持ってもいい頃だ。シュタンフェーゼ王国の王太子と釣り合うくらいの女性はそう多くないが、いないわけではない。これからどんどんと増えていくヴィンセントの国外訪問に合わせて、各国は妃候補となる娘たちを引き合わせていくのだろう。
ただの幼馴染で、魔法使いであるリフィスは、ヴィンセントと結婚することはあり得ない。だから、ヴィンセントの結婚が決まれば、分不相応な二人の関係もそこで終わりと言いたいのだ。
ドミニクは、リフィスがヴィンセントと結婚できないことを嘆き悲しんでいると思っているだろうか。散々牽制しているのに、何食わぬ顔でヴィンセントの前に現れる彼女を、随分と図太い女だと思っているのだろうか。
たった三年間、ヴィンセントの前にいるリフィスしか見ていないのだから、リフィスを理解できていないのは当たり前かもしれない。ヴィンセントの前にいるリフィスは、常ににこやかに、ヴィンセントを敬う言葉しか発しないからだ。ヴィンセントですら、リフィスの本心を理解していないだろう。
「失礼します」
リフィスは顔を軽く下げると、踵を返してその場を立ち去った。
○
「また殿下のところへ?」
暖炉のそばの一人掛けのチェアに腰かけたユフィスが、反対側にいるジョンを気遣いながら、そう尋ねた。ジョンはマグカップを口に持っていき、さも気にしていないというそぶりで、新聞を読んでいる。
「呼ばれたので、少しだけ」
「そう。ゴドー公国へ行く前に、リフィスに会いたかったのね。ほんと、仲がいいこと」
ユフィスがまたジョンを見る。しかし、ジョンはやっぱりこちらを見る気はないらしい。
「何のお話をしたのかしら? 今回の訪問にはあなたもついていくの?」
「いえ、お母様。別の業務があるので、私はついていきません」
「あらそうなの。――ねえあなた、きっと殿下も初めての国外訪問で緊張されるだろうから、気心が知れたリフィスにそばにいてほしいと思われるんじゃないかしら。今から変えられないの?」
やっとジョンが顔を上げ、「その必要はない」と口を開いた。
「王太子殿下は立派に公務をこなされるだろう」
また新聞に視線を落としたジョンに、ユフィスは不満げな顔をしている。しかし、真っ向から夫に不満をぶつけることは、育ちの良いユフィスにはできないようで、諦めたようにリフィスに視線を切り替えた。
「リフィス、ゴトー公国へ行くときはちゃんとお見送りをしなきゃダメね。いつも大変お世話になっているんだから。一か月ほどの訪問だけど、無事に戻ってこられるよう、おまじないをかけた贈り物をしたら?」
「今日、防御魔法をかけさせていただきました。他の魔法使いもついていきますし、十分かと」
「殿下はどんな反応だった? 喜んでくれたかしら。きっと喜んでくれたわね。二人は仲のいい幼馴染ですもの。ゴドー公国へ行く前に、リフィスに会いたいと言ってくださったんですものね」
そうだったかな、とリフィスは思ったが、いちいち否定するのは面倒なので、何も返事をしなかった。
「小さい頃から、殿下はリフィスのことをとっても気にかけてくれるものね。最近もルビーのイヤリングをプレゼントしてくださったし。その前は口紅だったかしら。贈り物もたくさんしてくれて、本当に仲がいいこと」
ユフィスが二人のことを『仲がいい』と評するのは、今に始まったことではない。リフィスがこの言葉の裏に隠された思惑を知ることになったのは、ある日の夜中に両親の会話を盗み聞きしたことがきっかけだった。
「二人がどれだけ望もうとも、結婚は無理だ。国王陛下が認めるわけがない。幸い、まだリフィスは恋を知らないようだから、ヴィンセント殿下を好きにならないように我々が導くべきだ。そうでないと、あの子が傷つくことになる」
トイレに起きて部屋を出たとき、自分の名前が聞こえてきて足を止めたのが間違いだった。扉の隙間から漏れる明かりがゆらゆらと揺れて、今度はユフィスの声が聞こえてくる。
「でも、ヴィンセント殿下はリフィスのことが好きだわ。見ていればわかるもの。殿下が望めば、無理なことはないんじゃないかしら」
「ヴィンセント殿下がリフィスと結婚するとなれば、次期国王としての道は立たれたも同然だ。国王陛下は長子継承にこだわっていない。第一王子といえども、王太子になれるかどうかもわからない。ヴィンセント殿下は勤勉で民思いな素晴らしいお方だ。彼こそが国を統べるべきだ。この国の将来のために、隣国の王女と結婚することで地位を固めるのが最適なんだ」
思春期に入りたてだったリフィスは、そこで初めてヴィンセントのことをただの幼馴染ではなく、異性であることに気づかされた。さらに、彼が国にとってとても大切な人物であり、重大な未来を背負っていることも認識した。
すでに当時から王国専属魔法使いを束ねていたジョンは、妻の言い分よりも、国の安泰を考えるべき立場にあり、たとえリフィスがヴィンセントのことを好きになったとしても、優先すべきはヴィンセントの地位と国の将来だった。
「これから先、ヴィンセント殿下とリフィスが結婚するという希望を持つことは禁止だ。リフィスにも望みを持たせないよう君がしっかりと導いてくれ」
ジョンの言葉をユフィスがどこまで守ったつもりでいるかは定かではないが、あれから数年経った今でも、まだリフィスとヴィンセントの結婚を諦めきれずにいるのは明らかだ。ユフィスはヴィンセントからリフィスが贈り物をもらうと、自分のことのように大喜びするし、彼が時々ふらりとこの家に立ち寄ると、それはもう驚くような歓迎ぶりである。『仲がいい』という言葉も、二人の関係性を強調するためのものだ。
しかしリフィスにとっては、父ジョンの考えを知ってしまった以上、ヴィンセントからの好意も、母ユフィスの期待も、目を背けたい重荷でしかなくなっていた。