笛を吹く魔女 石にまつわるラウラの小話
冷たい水の感触。
「ラウラ、早くきて」
めくりあげたズボンの下で、水が素足を吸い込んでいく。陽の光を反射して青く、時には緑に反射する美しい湖。目の前には袖を肩までめくった姉が立っている。
「待ってよ、そんなに早く歩けないんだから」
急かされたラウラは焦った。水晶質の砂が素足の裏に食い込む。チクチクする痛みを我慢しながら、右足を出すと、その先にあるはずの地面がなかった。
「ぎゃあああ!」
ラウラはバランスを崩して、顔から水に入った。白い飛沫が立ち、全身に冷たい感覚が押し寄せる。手を振ると、砂を引っ掻き、途中で止まった。ラウラは顔を上げた。鼻に入った水が沁みる。右足は一段低い砂地に辿り着いていた。誰かが砂をすくった跡らしい。
「もうラウラったら、ドジなんだから」
姉は愉快そうに笑いながら、手を差し伸べる。ラウラが濡れた手で掴むと、水を吸って重くなった衣服ごと全部、力強く持ち上げられる。ラウラは寒さと重さを感じながら、やっと立ち上がった。
水面は波打ちながら反射している。青く、白く、時には虹色に煌めいて、ラウラの膝から波紋を広げていく。丸みを帯びた入江には、作業している大人たちがたくさんいる。ここの湖にある砂は半透明でとても綺麗だから、水中からすくって乾かした後、遠くへ運んで売り物にするのだ。ラウラもよく綺麗な小石を拾っては、部屋に飾っている。どうして砂が透明になるかというと、お母さんの話では、水の妖精キューエが住んでいて、自分の住居が美しくなるように魔法で砂を磨いていると言っていた。だから普通の砂が水晶質に変わるし、湖から流れ出して離れた砂は、魔法が解けて灰色に戻る。
姉は水の中に手を突っ込むと、一つの石をつついてみせた。
「ほら見てよ、すごくきれいじゃない?」
揺れる水面の先に見えたのは、10センチくらいの、ピンクと緑の混じった石だった。色付きの石は珍しい。しかも2色も入っているものは、特に。
「……きれい」
ラウラは寒さを忘れて、見惚れていた。姉は誇らしげに両手で石を掴む。砂の中に埋もれていて固そうだと思っていたら、周りの砂が盛り上がって外れた。底に泥が付いているけれど、私たちだけの宝石が空気にさらされた。それで十分だった。石の中で陽の光が乱反射する。世界中のときめきを閉じ込めたように輝く宝物。
「キューエ、とられたって怒らないかな」
その石があまりに魅力的に見えて、ラウラはふと呟いた。この石は妖精キューエのとっておきかもしれない。せっかく磨いた石を、持って行かれたら……と想像した。
「大丈夫よ。キューエはすっごく優しい妖精だもの」
姉は石に付いている泥を拭うと、ラウラに渡した。
「はい、これがラウラの分ね」
「いいの?」
「だいじょーぶ、私はこの前、素敵なものを見つけちゃったから」
その明るい表情に、一瞬だけ、寂しそうな影が差し込んだ。
「へくしっ」
ラウラは身震いして、くしゃみする。
「一回上がろっか。晴れてるし、そのうち乾くでしょ」
姉は言った。でも中の服まで濡れてしまっている。着替えとタオルを持ってくればよかったと思ったけど、後の祭りだ。
砂浜にたどり着き、座り込む。色付き石を太陽にかざすと、ラウラの手にピンクと緑の光が乗った。その横に姉が座って、同じように覗き込む。
「きれいだね」
と姉は囁く。
「きれい」
「本当に……きれい」
姉は、何度も確かめるように繰り返す。それから二人とも黙る。太陽が筋雲に隠れて、地面の温かさが消え、風だけを感じた。石も水気がなくなってくると、取りきれなかった細かい砂利が指にまとわりつき始める。
「あーあ、帰りたくないなあ」
湖を見ながら姉は言った。どうして、とは聞かなかった。その代わりラウラは、
「お姉ちゃんの分も探そうよ」
と提案した。姉は嬉しそうに目を開いたが、すぐに首を振った。
「ううん、大丈夫。石を持って行っても、すぐになくしちゃいそうだし」
姉なりの気配りだったのかもしれない。でもせっかく一緒にいるのに、とラウラは悲しくなって、頬を膨らませる。それからわざとつまらなさそうなふりをした。
「じゃあこれ、キューエに返す」
「そんな、もったいないじゃない」
ラウラの気まぐれに、姉は咎めるような口ぶりで言った。釣られてラウラの語気も強くなってしまう。
「だって私だけ持ってても、石がかわいそうでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、姉が吹き出した。
「やっぱりラウラ、独特だよね」
「え?」
「石がかわいそうだって、ねえ? ふふふ、初めて聞いちゃった」
姉の笑いのツボに入ったようだ。真面目に言ったはずなのに、どこがおかしいのだろう。ラウラは変なものを見る目で、姉を見た。
そんな時だった。
ピュー……
最初は風が鳴っているのかと思った。でも掠れ掠れ流れてくる音に、人々が立ち止まるのを見て、あの音だと気づく。
姉も笑うのをやめて、耳を澄ませている。湖の向こうから滑るように笛の音が聞こえてくる。
「……帰りましょ」
姉はラウラの腕を掴んで、立ちあがろうとした。ラウラは心配して、姉を仰ぎ見る。姉の表情にはもう、少しの笑顔も見当たらなかった。ラウラも立った。服は半分くらい乾いていて、さっきより動きやすかった。
水晶質の砂をすくっていた人たちも陸に戻って、いそいそと作業を引き上げている。手の空いた数人は、もういなくなっている。
笛の音は、長さを変え、形を変えて、ラウラの耳の奥へ入り込もうとする。ラウラは耳を塞ぎたくなった。姉はまっすぐ前を見ながら、
「おしまいまで聴かなかったら大丈夫よ」
と落ち着いた声で言った、でも、ラウラを掴む力は、強いままだった。
草のあるところに登り、家路を辿る。湖に遠ざかるうちに、風を切るような音も小さくなっていく。ラウラはだんだん気持ちに余裕が出てきた。繋いだ手も、いつの間にか離れていた。両手が軽いと感じた時、あることに気がついて声を上げた。
「あっ」
「どうしたの?」
「石が、ない……」
さっきまで持っていたはずなのに。落としてしまったのか。それともあの浜辺に起き忘れてしまったのだろうか。
姉は眉を寄せて、ラウラに言い聞かせる。
「後で取りに行けばいいじゃない」
「うん……」
姉との、おそらく最後となる思い出が、手の間からすり抜けてしまった。キューエに返そうなんて言ったのは自分だけれど、やっぱり自分たちのものにしておきたかった。キューエが本当に優しい妖精なら、もう一度取りに行っても許してくれるかもしれない。
家に帰って着替えると、ラウラはこっそり、外に出た。西側に溜まった雲に、太陽が遮られている。
ラウラにとって、どうしてもあの石が必要だった。石がないと、思い出せなくなってしまう。数年前にいなくなった飼い犬。去年までは鮮明に思い出せたのに、だんだんと輪郭がぼやけてきている。ぼやけた輪郭を違う記憶が補い、輪郭を歪めてゆく。本当の記憶は壺の底に沈んでいったように、取り出せなくなってきている。あんなに好きだったのに、消えていく。壺の底は、ちゃんと塞がっているのだろうか。それとも、どこかに小さな穴が空いていて、その穴から、いずれ全てが抜け落ちてしまうのだろうか。
お姉ちゃんのことを忘れたくはない。私が忘れてしまっても、石が代わりに覚えてくれるかもしれない。きっと……。
「気付いたのはここだから、えーっと……」
ラウラは地面を見ながら注意深く引き返していく。すると、耳をあの音が掠った。
「あ……」
ラウラは立ち止まって、耳を塞ごうとした。でも、いつもと違うのに気がついた。風を裂くような音だったはずなのに、いつの間にかきちんとしたメロディーとなって響いてくる。
聴いたことのないメロディーだった。
笛が、泣いている。
ラウラはまた歩き出した。入江に着くと、そこにはもう誰もいなかった。天日干しにされたまま放っておかれた砂の山、魚の匂い。この入江だけ、世界が隔絶されている。自分一人だけが存在しているような孤独感が襲ってくる。
二人で座っていたところに、あの色付き石が落ちているのを見つけた。ラウラは少ししゃがんでそれを拾うと、また耳を澄ませた。
ピューピュロロロロ……
穏やかだった湖が突然波打って、さざ波をたて始める。水がラウラの足元まで、押し寄せてきそうに思えた。
「おしまいまで聴いたら……?」
どうなるのだろう。笛の音はどこから鳴っているのだろう。ラウラは引き寄せられるように歩き始める。湖沿いに進むと、メロディーが段々と聞き取れるようになっていく。やっぱりこの先に、音の中心がある。
しばらく進むと、方角が変わって、森の中から聞こえてくる。新緑の木の葉が風に揺さぶられている。このあたり一帯は、砂利道が敷かれて、手入れされているようだった。その細道を辿っていくと、微風が吹き、白いものがはためくのが見えた。ラウラは息を飲んで立ち止まった。
真っ直ぐに立つ銀杏の木の下で、細い棒状の笛を持つ人がいた。小麦の穂のように波打つ髪を一つに束ね、首元のボタンを外した白いブラウスに焦茶のズボンを履いている。誰だろう、とラウラは目を細める。村では見かけない。どこの人だろう? その人は銀杏の木に寄りかかり、足を少し前に出して演奏を続けている。ラウラを一瞥して、すぐに下を向いた。
気がついた? ラウラはわからなかった。でもその後から、リズムが崩れ、息継ぎもずれて音が掠れる。ラウラの存在に気づいて、乱れたのだと思うと、心苦しく思った。
ラウラは近づいていいものか、立ち止まっていいものか悩ましく考えていると、徐々にメロディーは安定を取り戻してきて、美しい音色に立ち返り、そして止んだ。
その人は笛を唇から離した後、茶色い虹彩をラウラに向けた。瑪瑙のような瞳を細めて、
「この村にある伝承、知ってる?」
と声をかけた。ラウラは声を聞いて初めて、女性だと気がついた。心臓が高鳴り、危険を知らせているにもかかわらず、ラウラは頷いた。
「最後まで聴くと……ってね。君は聞いてくれたみたいだから、最後に感想を教えてもらってもいいかな?」
女性は、歳の離れた子供に言い含めるような喋り方をする。この人がキューエかもしれないと、予感めいたものをラウラは感じた。
キューエは時々、笛を演奏する。その時には湖が荒れる。その演奏を最後まで聴いてしまうと呪われるとか、命を失ってしまうとか言われている。キューエではなくて、亡霊だという話もある。
最後に、と女性が言ったのは、ラウラの死ぬ最後に、ということかもしれない。ラウラは押しつぶされそうな肺に空気を入れようと、懸命に吸い込んだ。そして、震えながら言った。
「きれいだった」
相手の目尻がピクッと動く。2回目は、もっとはっきり言えた。
「演奏、とってもきれいだったから、呪われるくらいならいいかもって」
「……」
女性の表情から柔らかさが消えた。組んでいた足を伸ばし、斜め下に俯く。その視線の先に、麦わら帽子が置いてあった。
「ねえ」
女性は苛立ちを隠しもしなかった。
「どうなるか分かってて言ってる?」
鬼気迫るものを感じて、ラウラは返す言葉を失った。と思ったら、ニコリと毒気のない笑顔で、
「なーんてね。そんなことしないよ。他の人たちが勝手に言ってるだけだし、私も忘れたよ、そんな……ウワサはね」
クスクスと笑う。今まで、からかわれていただけなんだと思って、ラウラは肩の力を抜いた。その様子を見て、女性は笛をいじりながら聞いてきた。
「もしかして、私が亡霊じゃないかって疑ってない?」
「いいえ、別に……」
ラウラは慌てて首を振る。
「人間の成れの果てが、怖い?」
女性は畳み掛けるように尋ねる。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、ラウラには掴めない。
「怖く、ない……」
「そうだよね? 同じ人間なんだからさ」
また女性はクスクス笑った。変な人、とラウラは思った。キューエじゃない、と思った。少なくともラウラがイメージするキューエとは、まったく違う。
「その石、きれいだね」
女性はラウラの手元を見て、言った。
ラウラは少し持ち上げて、石を眺める。曇り空の下では光を灯すような輝きはない。
「お姉ちゃんと見つけたの。太陽にかざすと、すごくきれいで」
「あそこの湖から?」
「……うん」
ラウラは、とったらダメと言われたらどうしようと思い、戸惑いがちに相手を見る。女性は案外あっさりしているのか、
「いいのが見つかったんだね」
と告げる。ラウラはホッとしたけれど、落ち着かなかった。笛の音が、まだ頭に響いている気分だった。
「あ、そうだ、何の曲吹いてたの」
「さあ。忘れちゃった」
返答は淡白だった。女性は帽子を手に取ると、一歩前に進んだ。ラウラは無意識に後ずさった。
「帰ったら?」
そう女性は言いながら、帽子を目深に被る。その一瞬、何か赤いものがちらついたように見えた。
「友達も……あと家族とか、心配してるんじゃない?」
「でも、あの」
ラウラが言おうとした矢先、
「私? 私は一人でも平気」
女性はラウラの横を通り過ぎて、砂利道を辿って行く。
「……」
ラウラはその後ろ姿を見守ったまま、立ち尽くした。淋しそうな後ろ姿に、声をかけたくて、でも何も言えなかった。
入江まで戻ってくると、空は暗くなり始めていた。
「おーい、ラウラちゃん」
手を振って呼ぶ人がいる。知り合いのおじさんだった。
「お姉さんが、すごい心配してたぞ」
と言われて、びっくりした。近所中で探し回っていたらしい。
見つかった、見つかったとぞろぞろ歩いていく。その知らせを聞いた姉が駆け出してきた。
「もう、どこに行ってたの」
と問い詰めようとしたが、ラウラの手に、あの石が入っているのに気づくと、姉は涙を堪えきれず流した。そしてラウラを抱き止める。
「無事でよかった……」
ラウラは心配性の姉に、戸惑いを覚えた。二度と帰ってこないのではと思ったのかもしれないけど、大袈裟だと思った。結局、最後まで聴いたら呪ってくるような亡霊なんていなかった。普通、自分の演奏を真剣に聴いてくれて、怒るような人がいるだろうか。
帰り道、ラウラも姉も、何も喋らなかった。ラウラは申し訳ないと思いながらも、姉をはじめとして、こんなに心配してくれた人がいることに心地よさも感じた。
家に帰ってから、姉は堰を切ったように質問した。
「どこに行ってたの」
「入江」
「石、どこにあったの?」
「座ってたところ」
「笛の音、聞こえなかった?」
ラウラはそう聞かれると思っていたから、どう答えようか考えていた。でも、うまく説明できる自信がなかった。
「うん、聞こえなかった」
心配してほしくなくて、小さな嘘をついた。
生きているのか死んでいるのか、わからない人と出会った。
そんなことを言って、理解してくれるだろうか。
「入江の左奥って、何かあったっけ?」
ラウラは手入れされていた細道を思い出して、ふと呟いた。
「烏屋敷の敷地でしょ」
と言う姉の言葉で、記憶がつながった。
そうだ。立派なお屋敷があった。屋根によくカラスが止まっているから烏屋敷と言われている。なら、あの砂利道は、屋敷へと続いているのかもしれない。
でも、あんな人がいただろうか。烏屋敷にはご主人と夫人、小さな子供が3人、女中が4人住んでいる。
「屋敷の人で、笛が好きな人っている?」
「急にどうしたの? えーっと、私の知ってる限り、いないけど」
「そっか」
「どうしたの」
「別に、なんでもない」
何か分かるまでは、説明できそうに思えない。女性と会った時、胸騒ぎがした。生きて帰れなかったかもしれないのだから、黙っていても、一緒だろう。
ラウラは家で一番目立つ、大きな木棚の前まで行くと、その上に石を置いた。
烏屋敷に若い魔女が滞在していると聞いたのは、しばらく経ってからだった。きっとその人だと、ラウラはすぐに思った。妖精も魔女も、ラウラにとっては似たような存在だ。
すぐにあそこへ行こうと思ったけれど、姉がやっていた分の家事も任されるようになって、自分の時間が減っていた。それでも、どうしてもあの女性の横顔と、笛の音が離れなかった。ラウラは合間を縫って、あの銀杏の木を探すにした。日差しが強く、風の多い日だった。
初めて来た時は何も知らなかったけれど、今はお屋敷の敷地内であることを知っている。誰かに見つかったら怒られるかもしれない、と思いながら、そっと歩く。入江に近づくと、水紋が眩しい光の線を描いていた。
砂利道に辿り着く。ここまでは記憶通りだった。それから銀杏の木を、ラウラはあやふやな記憶を頼りに探す。そこにいけば、あの人に会えるというわけでもないのに、自分はどうして探すのだろうと思いながら、緑が濃くなった銀杏の木を見上げる。
「……ここだったかな」
そこにあの人はいない。ラウラは近くの倒れた木に腰掛けて、ぼんやりと空を眺める。せめて笛の音が鳴っていればと思った。あの女性はここで一人、何を考えていたのだろう。砂利道を辿ってお屋敷に行けば、会いに行けるのだろうか。それとも門前払いをされて終わり?
小鳥の鳴き声が聞こえる。目の前で小鳥がチュンチュン囀りながら、枝と枝を渡っていく。ラウラはいつの間にか、その器用さに見惚れて始めていた。
「こんなところにいたら、攫われちゃうかもよ」
突然、後ろから声がして、ラウラは振り返った。頭に被っている麦わら帽子が、まず目に入った。くすんだ緑帯を結び留めた、灰色のワンピースを着ている。目深に被った帽子をあげると、あの時の女性が微笑みかけていた。
「どうやって来たんですか」
いつからいたんですか、の方が良かったかもしれない。砂利を踏む足音も、草木をかき分ける音も聞こえてこなかった。風が強いせいで、紛れていたのだろうか。
「どうやってって、歩いて……?」
女性は質問の意図が分からず、困惑した様子を見せた。しかしすぐにニコリと笑って、
「じゃあ、空を飛んできたことにしようかな……なんて、間に受けなくていいよ」
女性はラウラの隣にスカートを整えながら座る。ラウラは女性が何も持っていないのに気がついて、
「今日は吹かないの」
と訊ねた。あんなにきれいな音色を聴けないのが、残念だった。
「……しばらく、いいかな」
「どうして」
「探してる」
風がそよぎ、小麦色の髪が揺れる。女性は遠くを見ながら、淡々と話す。
「どうしたら良かったのか。なんのために生きてきたんだろうって。いっそ忘れたくなる。忘れそうになる。それで、気づいてしまう。私が私であることから逃れられないんだってね」
吹き飛ばされないようにと、帽子の頂点を掴んで外す。女性は帽子をくるくる回して手遊びしながら、
「だからかな」
クスッと自嘲気味に笑った。
「ずっと心が晴れないんだ」
ラウラは笛が泣いていた正体を、知った気がした。天気が晴れでも、どんなところにいても、彼女の心に乾いた雨が降り続いている。だからそれが音になった。
「君、名前は?」
女性はふと思い出したように聞いた。
「ラウラ」
「……」
女性は驚いた様子で、まじまじとラウラを見つめる。
「ええっと」
ラウラが首を傾げると、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ああ、ごめん、思い出しちゃっただけ。昔もいたんだよね」
「ラウラっていう人が?」
「そう」
自分と同じ名前の人がいた。それだけでラウラは嬉しくなって、うわずった声で伝えた。
「お母さんがつけてくれたの」
「良かったね、いい名前」
と言いながら、女性は帽子をいじるのをやめなかった。
「お姉さんは」
ラウラは訊き返す。女性は口を開きかけたけれど、すぐには答えようとしなかった。
また風が強くなった。孤独はこの風の中へと溶けていくのか。この風は誰のものなのだろう。ラウラは烏屋敷に若い魔女が滞在している、という話を思い出して、風が鳴り止むのを待ってから、女性をまっすぐ見て言った。
「お姉さんは魔女なの?」
その質問に対して、女性はピクリとも表情を動かさなかった。
「どう思う?」
逆に質問し返されて、ラウラは言葉を探していると、女性はまたクスリと笑った。
「誰が決めるの、そんなこと。私は私、……だけど、魔女だったらどうするの?」
「え、どうしよう」
「殺されちゃうかもね」
「じゃあ逃げる」
女性がからかってきているのだろうと思って、ラウラも軽い気持ちで答えた。すると彼女は笑顔を深める。
「逃げな」
言葉とは裏腹に、声の調子が明るかった。
「そしてもう二度と、来なければいい」
「どうして」
明るく言われても、突き放されたのは変わらない。ラウラはショックを受けた。
自分と話したいからここに来たんじゃないのと思ったけど、それは勝手な思い込みだったことにラウラは気がついた。自分がいたから、仕方なく話しかけただけかもしれない。
女性は微笑んではいたけれど、その奥にある心情をラウラは読み取れなかった。
「私はここを出るよ。出ればあいつも、どこにいるかなんて分からないはずだから。それに、君が来てくれても会えないからね」
来ても会えないからという意味なら、完全に突き放されているわけではないと知って、ラウラは安心した。それからずっと気になっていることを、もう一度訊いた。
「じゃあ、やっぱり本物の魔女さん?」
「……そう言う人もいるね」
女性は小声で、やっと認めた。ラウラはいつか本物に会いたいと思っていたから、喜びと興奮に包まれた。
「ね、魔女さんなら何か魔法を教えて」
ラウラは無邪気にねだる。本物に会えるなんて、一生に一度もないかもしれない。知りたいという欲求が、ラウラを突き動かしていた。
「魔法、か……」
女性は渋っていた。そのうちラウラの視線に耐えきれなくなって、顔を背けた。
「一つ、君にとっておきの言葉がある」
と女性はもったいぶった前置きをした。ラウラは期待を膨らませて、少し前のめりになる。
「魔法について考えずに生きられるのが一番だよ。普通に生きたかったら」
「それじゃあつまんないよ」
ラウラはいつもように、はぐらかされているように感じた。
「つまらなくない。私はそれを切望している」
「……?」
「隣の芝生は限りなく青い、のかもね」
音にならないため息が、女性の口から漏れた。よくわからないけど、教える気はなさそうだと、ラウラはわかった。会話が途切れる。すると女性は立ち上がる。また急に帰ってしまうのかなとラウラは心配した。女性は帽子を両手で抱きしめながら、くるりと振り返って、
「いいよ、教えてあげる」
どういう風の吹き回しなのか、女性はラウラの頼みを受け入れた。
「でも期待しないで。教えるのとできるのは別物だから。私もあいつのことは理解できる気がしないし」
女性は帽子を逆さまにして、ラウラに見せた。帽子の裏側には、赤い宝石が縫い付けられていた。ラウラはその光に吸い込まれるような感覚がした。そしてそれは、錯覚ではなかった。
気がつけば、暗闇の中にいた。それから虹色の光が、一つ二つと数を増していき、虹がかった宇宙の真ん中にいた。星々が上下左右に輝く。不思議なことに、同時に全ての星を見ることができた。世界が眠りについているような、静寂と落ち着きがあった。未知の場所にいる恐怖はなく、無性に懐かしさをくすぐられる気がした。
一つの光が近づいてきた。それは三日月だった。細く長く尖った月牙は、薄オレンジの光を宿し、膨らんでいるように見える。月の端から、残光が滴る。その光が、近くの星を消していく。暗闇はガラス化し、水晶質の世界は無限に広がっていく。井戸の底で、小さな穴から空を見上げるように、月だけが見えた。
ピュロロロロ……。
耳鳴りのように、笛が聞こえてくる。ラウラは潜在的な恐怖を掻き立てられた。美しくもなく、泣いてもいない、無機質な音。次第に視界が狭まって、月さえ見えなくなっていく。ガラスの中に閉じ込められていく感覚に襲われた。その中でラウラはもがこうとしたけれど、体が硬直して動けなかった。ラウラはガラス以外のものを見ようと必死になった。咄嗟に思い出したのは、姉と一緒に拾った石だった。太陽の光が石の中で溶けて、ピンクと緑色が跳ね回る石……。
「お姉ちゃん!」
ラウラは叫ぼうとした。でも、喉の奥が詰まって、言えなかった。それでも叫んだ。
その瞬間、強い風がなって、見ていたものが掻き消えた。木々がざわめく音が、鼓膜を揺さぶる。小鳥の跳び立つ音が聞こえる。視界がだんだんはっきりしてくると、ラウラは丸太に座っている自分を発見した。心臓が早くなっている。ハッと我に返って周りも見渡したけれど、誰もいなかった。
ラウラは身震いした。女性がさっきまでここにいた痕跡を探そうとしたけれど、何も見つからなかった。幻だった。でもその幻は、彼女が見ている世界でもあるはずだった。太陽の位置だけが、さっきよりもずれているように感じた。風は相変わらず、強くざわめいている。
「……」
魔女にはなれない、とラウラは思った。教えることとできることは違うという意味が、少しわかった気がした。あれが魔法だとして、それを見ても姉のことを思うのなら、私は平凡に生きる方が向いているのかもしれない。
ラウラがこの銀杏の木を見ることはもうなかった。お屋敷にいた若い魔女はどこかに旅だったと聞いたからだ。その代わり、よく晴れた日にあの石を持って入江に赴いた。陽の光を反射して青く、時には緑に反射する湖。ラウラはしばらく光の輝きを眺めていた。それから、湖に向かって、手元にある石を投げた。石は音を立てて、水紋が広がっていく。ラウラはそれを黙ったまま見つめる。水紋は他のものと区別がつかなくなっていき、やがて元の湖に戻る。
キューエの湖は、いつまでも美しかった。
最後までお読みくださりありがとうございます!
気分転換に書いてみた小説です。実はどこぞの登場人物と繋がっている……こともある、ありますが、このペースの投稿だとそれがわかるのが数年後、まではいかないか、数ヶ月後になりそうなので、単作としてお読みいただければ幸いです。