出立
怒りにまかせて小屋を飛び出したはいいものの、行くあてなんかどこにもない。
ここは人里からは遠く離れているし、辺りは真っ暗だ。
俺は仕方なく小屋の壁に寄りかかりながらうずくまった。
すると入口の戸が開いて、レンが顔を出す。
彼は俺の顔を見ると、安心した様子で声をかけてきた。
「近くにいて良かった。山の中に入っていたらどうしようかと思ったよ」
「こんな暗闇の中を遠くまで行けないよ。オバケとか出そうだし」
俺の言葉に、レンが吹き出す。
「妖怪もオバケも、似たようなものじゃないか。それよりも、僕はヒカリの方がよっぽど怖いけどね」
「レンもケンジさんと同じように、ヒカリちゃんが父さんを死なせたと思っているのかよ」
俺がまた怒り出すと、レンは宥めるように言った。
「ケンジさんの話を聞いて思ったんだけど、ヒカリはケンジさんを石の棺に閉じ込めたんじゃなくて、天狗との争いに巻き込まないように守ったんじゃないかな。もしそうだとしたら、ハルトのお父さんを死に追いやるようなことはしない気がする」
「そうだよな! レンも、ヒカリちゃんは優しい子だと思うだろ?」
「……ハルトは、どうしてそんなに彼女の肩を持つの? 顔が可愛いから?」
「それもあるけど、それだけじゃないよ。初めて会った時にヒカリちゃんから言われたんだ。『あなた優しいのね』って。その時に『人の優しさに気付ける人こそ、本当に優しい人なんだよ』って俺の婆ちゃんが言ってたことを思い出してさ」
レンは黙って俺の話を聞いている。
「だから、ヒカリちゃんは優しい子なんだと思う。まぁ、婆ちゃんの説が正しいとするなら、彼女の優しさに気付いた俺は、さらに優しい奴ってことになるけど」
俺が余計な一言を付け加えると、レンは苦笑いした。
「せっかくの良い話が台無しだよ」
そう言うとレンは立ち上がり、俺の腕を引いて小屋の中へ入るよう促した。
「ハルトの考えはよく分かったよ。だけど、ケンジさんはヒカリに術をかけられた上に、天狗と争っている場面にも遭遇したわけだから、彼女を疑うのも無理はないと思う」
「でもーー」
俺の反論を遮って、レンは話を続けた。
「お互いの意見を押し付け合ったって仕方ないだろ。ハルトから見たヒカリと、ケンジさんから見たヒカリは全然違うんだから。君が今やるべきなのは、ケンジさんと仲直りして修行の続きをお願いすることだ。迎えにきたヒカリをがっかりさせたくないだろう?」
それもそうだな、と単純な俺は納得した。
ヒカリちゃんの望みを叶えるのが最優先だもんな。
「分かった! 仲直りしてくる」
俺は元気よく言って、ケンジさんのところへ向かった。
勢いよく戸を開けて小屋に入ると、ケンジさんはビクっとして俺達の背後を見る。
「ヒカリはいませんよ」
レンが告げると、ケンジさんは緊張を解いた。
「ケンジさん、さっきはごめん」
俺が頭を下げると、ケンジさんも謝罪の言葉を口にする。
「俺も言い過ぎたよ。悪かった。だから、さっきの話はくれぐれも内密にな。あの女にだけは、絶対に言わないでくれよ」
ケンジさんが俺に釘をさす。
一体ヒカリの何がそんなに恐ろしいのか、俺にはちっとも理解できなかったが、大人しく頷いておいた。
翌朝から、ケンジさんは新しく五つの術を教えてくれた。
大地を揺るがし、地面の裂け目に引きずり込む「地」の術。
濁流の渦に飲み込んで、息の根を止める「水」の術。
火柱を立ち上げて、周囲を焼きつくす「火」の術。
旋風を巻き起こし、風の刃で切り裂く「風」の術。
雲の中で発生した静電気を放電させてぶつける「空」の術。
唱える呪文は「唵 阿毘羅吽欠 娑婆呵」だけなので問題なかったが、厄介なのは印の結び方がそれぞれ異なることだ。
自慢じゃないが、俺はどんなに頑張っても三つ以上のことを一度に覚えることができない。
自分でもヤバいと思うけれど、生まれつきそうなんだから仕方がない。
レンに相談したら、最初は冗談だと思ったようだ。
でも、修行の様子を見て俺の言っていたことが本当だと分かると、レンはケンジさんが印を結ぶところを動画に撮って俺に転送してくれた。
ケンジさんは呆れた顔をしていたが、レンは俺をバカにするような素振りは一切見せず
「携帯の充電だけは切らさないように」
と言ってモバイルバッテリーまで貸してくれた。
イケメンで性格も良いとか、お前はドラえもんに出てくる出木杉くんかよ!
と嫉妬しつつも、俺はレンのことを段々好きになっている自分に気が付いた。
いや、もちろん恋愛的な意味ではなく、友人としてだけれども。
ケンジさんが最初に見せてくれたのは「地・水・火・風・空」の全てを融合した術だったそうだ。
俺がしつこくせがむから、絶対に使いこなせないであろう難易度の高い術を見せつけて、筋トレを続けさせる気だったらしい。
レンの言った通り、ケンジさんは俺の修行なんか真面目にやる気はなくて、レンを動画の撮影に利用したいだけだったのだ。
「術の継承は、本来なら門外不出だ。ハルト君に教えたことがバレたら、俺は一族を追放されるだろうな。もう妖怪退治の仕事は引退するつもりだから、それでもいいけど」
最終日の夜、夕飯を食べながらケンジさんは投げやりな感じで俺に言った。
「何で? 引退してどうするの?」
俺が聞くと、ケンジさんはぶっきらぼうに答える。
「ヒカリや天狗みたいな奴らに遭遇するかもしれないのに、妖怪退治の依頼なんか引き受けられないよ。これからはユーチューバーに専念する」
レンは小屋の中を見回しながら
「でも、こんな辺鄙な場所で自家発電に頼りながらユーチューバーに専念するって、ちょっと無理がありません?」
と尋ねる。
「ここは一族の若者が修行する時に使う小屋で、俺の自宅は別のところにあるんだよ。都内じゃないけど、タワーマンションに住んでるんだぞ」
ケンジさんはちょっと得意そうな顔をする。
動画の再生数でどれくらい稼いでいるのかは知らないが、生活には余裕がありそうな雰囲気だ。
俺に術を伝授し終えて気が抜けたのか、ケンジさんは食後に何杯か酒を飲むと眠ってしまった。
「僕達も寝よう」
レンに言われて、俺達も布団に入る。
明日は約束の三日目だ。
やっとヒカリに会える。
俺は胸を高鳴らせながら、眠りについた。
体を揺さぶられて重たいまぶたをこじ開けると、辺りはまだ暗い。
「おい、起きてくれ。ヒカリが小屋の外で待っている」
レンの囁き声が聞こえて、俺は布団を跳ね除けた。
声を出そうとすると、レンが俺の口を手で塞ぐ。
「ヒカリから、ケンジさんを起こさないように出て来いって言われてる」
レンは小声で俺に告げると手招きをした。
足音をたてないように二人で入口へと向かう。
小屋の外に出ると、風に髪をなびかせながらヒカリが待っていた。
思わず声をあげそうになる俺の口を、レンが慌てて塞ぐ。
「明け方にごめんね。あのケンジっていう人、私のことが苦手みたいだから、姿を見せない方がいいかなと思って……彼が寝ている間に迎えにきたの」
ヒカリの話を聞いて、やっぱりこの子は優しいなぁと惚れ直した。
「向こうで御札を書いてもらうかもしれないから、レン君は紙と筆を忘れないでね」
ヒカリに声をかけられたレンは、背負ったリュックから紙と筆、そして墨汁の入った瓶を取り出して見せる。
「筆ペンにすれば? わざわざ墨汁を持っていくことないじゃん」
俺が言うと
「御仏の力を借りるのに、筆ペンは失礼だろう」
レンは真剣な顔で俺を諌めた。
筆ペンを使ったくらいで気を悪くするとしたら、仏様って相当心が狭くない?
と思ったけれど、そんなことを言ったらお説教されそうだからやめておいた。
「まず、昔は水神だった妖怪のところへ行きましょう」
ヒカリが杖で空間を切り裂く。
俺は「水神」という響きにワクワクしながら、ヒカリの後に続いて裂け目の中へと足を踏み入れた。