底根の国
レンがリュックの中から紙と筆ペンを取り出したのを見て、俺はすかさずツッコミを入れた。
「何だよ! あれだけ墨汁と筆にこだわっていたくせに、結局筆ペンを使うのかよ!」
「またハルトが余計なことをするかもしれないからね。『弘法筆を選ばず』と言うし、寛大な御仏なら筆ペンでも許してくれるはずだ」
そう言って、レンは深呼吸を一つしてから薄黄色の紙に文字のようなものを書き始める。
すると、なゐの神を封じている要石を見つめていたヒカリが、レンに声をかけた。
「レン君、御札を十枚くらい書いておいてくれる? この要石……真一文字に亀裂が入っているの。意図的に傷をつけられたのかもしれないわ」
彼女の言葉に、レンが顔を上げる。
その時、カツン……カツン……という音が断続的に響いてきた。
要石が微かに振動して、亀裂が広がっていく。
「これ……誰かが地上で要石を叩いている音なんじゃないか?」
青ざめた顔でレンが呟く。
「早く御札を!」
ヒカリが険しい声で叫ぶ。
俺はレンの書き上げた御札を一枚ひったくり、ヒカリの方へと駆け出した。
レンは急いで別の紙にも文字を書き連ね、追加の御札を作成していく。
俺がヒカリに御札を差し出すと、彼女は術をかけて御札を大きくした。
その間も要石を叩く音は止むことなく、ついにバキッという大きな音を立てて、ひときわ大きな亀裂が入る。
御札を手にしたヒカリが要石の亀裂に御札を貼ろうとした時、なゐの神がゆっくりと目を開いて身じろぎをした。
その途端に大地が大きく揺れ、頭上から土砂が降り注ぐ。
土埃が舞い、視界が遮られてヒカリの姿は見えなくなってしまった。
俺は目をつぶって頭を抱え、地面にしゃがみ込んだ。
しばらくそのままの体勢でいると、ふいに肩をポンと叩かれた。
目を開けると、レンが俺のすぐそばに立っている。
「終わったよ。もう大丈夫だ」
レンに言われて要石の方へ目をやると、亀裂の入っていた箇所には御札が貼られ、ぼんやりと淡い光を放っている。
なゐの神は再び目を閉じており、微動だにしない。
ヒカリは俺達が通ってきた穴の様子を見に行き、戻ってくると
「罠に嵌められたみたいね」
と言った。
「どういうこと?」
俺が尋ねると、ヒカリの代わりにレンが答える。
「誰かが故意に要石を傷つけて、僕達を誘き出そうとしたみたいだな」
ヒカリはレンの言葉に頷きながら
「私達が通って来た穴も塞がれているわ。移動の術を使おうとしても無駄でしょうね」
と言って、試しに杖で空間を切り裂いた。
いつもと違い、切り裂かれた先には闇が広がっているだけだ。
「閉じ込められちゃったってこと?」
俺が情けない声を出すと、ヒカリは闇の向こうを指差しながら躊躇いがちに口を開く。
「底根の国には行けるわ。そこを通って、別の出口を探せば地上に出られるかもしれない」
ヒカリの言葉に、レンは顔色を変える。
「底根の国って、確か死者の国じゃないか?」
「死者の国ではなく、限りある命を捨てた者達のいる場所よ。彼らは、醜く朽ち果てた姿で永遠の時を過ごしているの」
そう言って、ヒカリはニッコリ笑った。
何だかヤバそうな場所みたいだ。
出来れば行きたくない。
でも俺から言い出すのはカッコ悪いから、レンから断って欲しいなぁと思いながら目配せをした。
しかし、レンは俺のサインに気付くことなく
「仕方ない。気は進まないけれど、底根の国へ行こう。ハルトもそれでいいか?」
と問いかけてくる。
俺は内心「バカ野郎!」と思いつつ
「おう! 俺はそれで構わないよ」
と虚勢を張った。
「底根の国の住人は、長年暗闇の中にいるから目が見えないの。その代わりに嗅覚と聴覚が鋭いから気を付けてね。絶対に大きな声を出してはダメよ」
ヒカリは俺達に言い含めると、闇の中へと足を踏み入れていく。
レンがすぐ後に続き、慌てて俺もついていった。
切り裂かれた空間が閉じられ、周囲は漆黒の闇に包まれる。
これじゃあ何も見えないよ!
と思っていたら、ヒカリが術を使ったようで、杖の先が仄かに光り、周囲をぼんやりと照らし出す。
「底根の国の住人に見つかっちゃうよ」
俺が近くにいたレンに囁くと、レンは唇に人差し指を当てながら小声で答える。
「静かに! 彼らは目が見えないから大丈夫だ」
ヒカリは俺達の目を見てから、足音を立てないようにゆっくりと歩き出す。
闇の中を何かが蠢く気配を感じつつ、俺はなるべく足元だけを見て、周りに目を向けないようにした。
それからしばらく無言で歩き続けているうちに、俺は人生最大のピンチに陥った。
どうしよう。
滅茶苦茶トイレに行きたい。
しかも大の方だ。
俺は必死に我慢しながら足を動かしたが、もう限界に近かった。
漏らすよりはマシだと思った俺は、レンの腕をつかんで引き寄せ、耳元で
「ヤバイ。トイレ。ティッシュくれ」
と切羽詰まった声を出した。
レンはすぐに事情を察したようで、リュックからポケットティッシュを出して俺に手渡すと、ヒカリの背中を押して少し離れたところまで移動してくれた。
俺は急いで用を足してからティッシュで拭いたのだが、手を洗えないことに気が付いて愕然とした。
困ったなぁ。このまんまじゃ汚いよなぁ。どうしよう。
そう思って辺りを見回していると、たくさんの息遣いが聞こえてきた。
そういえば、底根の国の住人は嗅覚が敏感だってヒカリが言っていた。
俺の排泄物の匂いにつられて、寄って来てしまったのだろうか。
ヒカリ達は離れたところにいるので、こちらの様子には気が付いていないようだ。
助けを呼びたかったが、そんなことをしたら二人を危険にさらすことになる。
術を使うにしても、まだ力を上手く制御できないから大惨事になりそうだ。
脂汗を流して立ち尽くす俺の背後に、何者かが近付いてきた。
恐ろしさのあまり、振り向くことも出来ずにじっとしていると、首元に生臭い息がかかる。
もうダメだ……。
そう思った時、聞き覚えのある声が耳元で囁いた。
「助けてやる。ついて来い」
この声は……父さん?
驚いて振り向いたが、面のようなものを付けていて顔が分からない。
父さんと思われる人物は、俺の手を引いて他の者達の間をすり抜け、ヒカリ達のいる方へと進んで行く。
集まってきた底根の国の住人達は、まだ俺の排泄物を取り囲んでいる。
もし俺の手を引いているのが、死んだ父さんだとしたら……まず最初に伝えたいのは「その手、まだ洗っていないよ」ということだった。




